江馬輝盛の墓 高山市指定文化財
江馬輝盛の墓 高山市指定文化財
京都における応仁の乱(1467)以後日本全国は戦国時代となり、各地に戦乱が広がっていくが飛騨地方においても北部(高原郷)には江馬氏、中部(古川盆地)には姉小路氏、広瀬氏、小島氏、南部(益田・大野郡)には三木氏の群雄が割拠していた。
江馬氏は高原郷(現神岡町)に本拠を置く豪族で、1582年飛騨の平定を目論み、大阪峠を越えて八日町の梨打城に入り、古川盆地に進出しようとした。それを阻もうとする三木自綱・小島時光・牛丸又右衛門の連合軍と、八日町荒城川をはさんで激しい戦いを展開した。
この戦いは三木連合軍の勝利に終わり、江馬輝盛はこの地で討ち取られ、16代つづいた北飛騨の名門江馬氏もここに滅んだ。ここで討ち死にした江馬輝盛を哀れに思った安国寺のお坊さんが建てたものと言われている。
説明板より
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1-3-26 江馬輝盛の墓
資料集
061_270_江馬輝盛墓