美濃国分寺
美濃国分寺
東山道・美濃国分寺
国指定史跡 美濃国分寺跡附瓦窯跡(美濃国分寺跡歴史公園)
① 国分僧寺と国分尼寺
天(てん)平(ぴょう)13年(741)、聖(しょう)武(む)天皇は諸国に「金光(こんこう)明(みょう)四(し)天王(てんのう)護(ご)国(こく)之(の)寺(てら)」(僧寺)と「法(ほっ)華(け)滅罪(めつざい)之(の)寺(てら)」(尼寺)建(こん)立(りゅう)の詔(みことのり)を下した。僧寺には僧20人、尼寺には尼僧10人を置き、それぞれに水田10町(ちょう)(天平19年に僧寺90町・尼寺40町が加増される)、さらに僧寺には封戸(ふこ)(その戸の租税が収入となる制度)を50戸あてて、寺院運営の経済的基盤とさせた。
② 美濃国分寺
美濃国分寺は、美濃国(こく)府(ふ)(不破(ふわ)郡垂(たる)井(い)町府(ふ)中(ちゅう))や不破(ふわの)関(せき)(同郡関(せき)ヶ(が)原(はら)町松(まつ)尾(お))に近い、ここ青野原(あおのがはら)の景勝地に建立された。背後に青野山がひかえ、南は東山道(とうさんどう)に面して建てられた国分寺は、わずかに塔(とう)跡を残すのみで地中に埋もれていたが、昭和43年度(1968)から始まった発掘調査によって、伽(が)藍(らん)の大部分が明らかとなった。伽藍の範囲は東西230m、南北250m以上で、周囲には築(つい)地(じ)大垣(おおがき)をめぐらせていた。
発掘調査では、金堂(こんどう)、塔(とう)、講堂(こうどう)、鐘(しょう)楼(ろう)、西面僧房(そうぼう)などの遺(い)構(こう)を確認している。伽藍配置は大官大(だいかんたい)寺(じ)(奈良(なら)県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村)のものと類似する。上(かず)総(さ)・甲斐(かい)・讃(さぬ)岐(き)国分寺などにも同様の伽藍配置が採用されている。美濃国分寺の主要な堂塔はおそらく8世紀中頃までには整備されていたと考えられる。なお、伽藍北東方の丘陵斜面には瓦を焼いた窯(かま)跡(未調査)が確認されている。
壮麗(そうれい)な伽藍も、仁(にん)和(な)3年(877)の火災によってすべてが焼失し、一時席(むしろ)田(だ)郡(現本(もと)巣(す)市の一部)の定(じょう)額(がく)尼寺(にじ)に、その機能が移される。再びこの地に戻ったという歴史的な記録は認められないが、発掘調査の成果から10世紀前半~中頃にはこの地に再建されたものと考えられる。南門の正面付近には10世紀中頃のものとみられる参道(さんどう)と、儀(ぎ)式(しき)の際に幢幡(どうばん)(旗)を立てるための幢竿(どうかん)支(し)柱(ちゅう)遺構、庇(ひさし)付掘立(つきほったて)柱(ばしら)建物(たてもの)跡、井戸跡が確認されている。しかし、12世紀末頃までには国分寺としての機能は失い、青野山山麓に所在する現美濃国分寺は元(げん)和(な)元年(1615)に再興(さいこう)されたものである。美濃国分尼寺跡は西南西約1kmの不破郡垂井町平(ひら)尾(お)に所在する。
③ 環境整備と歴史公園
美濃国分寺は大正10年(1921)に国指定史跡となった(ただし塔跡と金堂周辺のみ)。昭和46年(1971)には、伽藍域の大部分と瓦窯跡が追加指定された。昭和49年度(1974)からは、発掘調査によって伽藍状況を明らかにするとともに、発見された建物基壇を中心に、その構造をできる限り地上に復元して史跡整備を行なった。史跡指定地内に樹木の植栽と遊水池を設けて修景整備し、歴史学習の場として活用している。なお、平成19年(2007)には、都市公園法に基づく歴史公園に指定された。
指定年月日:大正10年3月3日
追加指定:昭和46年7月22日・昭和49年5月22日
指定面積:58,456.98㎡(大垣市ホームページより)
都市公園開園日:平成19年8月31日
面積:5.40ha
*①金森公顕彰会は説明版より