越中街道
桐生町万人講
桐生町1,456番地
昭和30年11月7日 高山市指定文化財
延宝3年(1675)、数万の餓死者をここに埋めたもので、万人坑と呼び、後万人講と書くようになった。元和元年(1681)、盲人色都が餓死者の供養塔を建てた。
笠のある大きな石塔は、水難除けの祈りを込めて、文化14年(1817)、法華寺日在が再建したもの。「南無三世諸仏」とある石塔は、寛政8年(1796)、小八賀郷大谷村荒川久治と雲龍寺存妙が大原騒動刑死者の霊を慰めるために建立した。
その他お六地蔵釈尼悪照の墓(通称悪女の墓)喚応是誰の墓もある。石塔の並んでいるすぐ下手付近が刑場であった。また、旧越中街道が万人講の前を通っている。
桐生町万人講史跡保存会
高山市教育委員会
説明板より
猪谷関跡(富山藩西猪谷関所跡)
神通峡には、越中と飛騨を結ぶ道は早くから交通路が開け、多くの旅人や荷物が行き交っていた。こうした動きを監視するために、番所が置かれ、江戸時代になると、神通川上流の西猪谷関所と東猪谷関所、室牧川上流の切詰関所などが富山藩及び加賀藩の関所として重要な役割を担っていた。
西猪谷関所は、天正14年(1586)頃から、明治4年(1871)までの約280年間置かれ、特に富山藩が立藩した寛永18年(1641)からは地元の橋本家と吉村家が代々番人を務め、人や物の監視などの国境の警備にあたっていた。
番人は関所内の建物で生活し、その建物には川手方へ14間、山手方へ38間の矢(や)来(らい)垣(がき)があり、番所には常時鉄砲2挺等が備えてあった。飛騨の大原騒動(特に安永2年・1773の騒動)、幕末のロシア船来航(文化2年・1805)、水戸で起こった天狗党の乱(元治元年・1864)など、物情騒然とした時には、相当数の侍が交代で国境を守っていた。
関所の通行については、出入りの時、原則として関所手形が必要であったが、近郷の村民には小さな焼印札が交付され、生活の便宜が図られていた。一方、物の移動については監視が厳しく、なかでも米や塩、魚類などの重要な品物には送り切手が必要であった。また、関所で税金として徴収する口役銀は、塩の場合、1斗につきわずか1分5厘程度であったことから、収益金は関所を維持する程度のものと推測される。
これらの記録は「橋本家文書」と呼ばれる古文書に残されている。
平成20年3月 富山県教育委員会
富山市教育委員会
説明板より
関連資料
3-1-1 桐生町万人講
3-1-2 猪谷関跡(富山藩西猪谷関所跡)
資料集