野洲
野洲
東山道・野洲
野洲郡 (やすぐん) 駅推定地
古代~現在の郡名。近江国12郡の1つ。郡名の初見は「持統紀」7年11月己亥の条。「日本書紀」に「益須郡」、「山背国愛宕郡計帳」に「夜珠郡」、「和名抄」に「野洲郡」とあり、「古事記」には「安国造」が見える。地名は「谷(やつ)」の転訛で、谷のある地形から起こるとする説(上代語辞典)、「ヤ(沼地)ス(洲)」から起こるとする説(地名の語源)などがある。東に蒲生(がもう)郡、南に甲賀・栗太(くりた)両郡をひかえ、西北二方は琵琶(びわ)湖に臨む。郡の大部分をなす平地部は、野洲川と日野川が形成した扇状地性の沖積平野で、湖岸に三角洲が発達する。本郡域は全体として早く開けた場所で、現野洲町小篠原(こしのはら)・桜生(さくらばさま)の丘陵地帯には小篠原古墳群が点在する。明治22年、町村制の施行により、郡内の諸村は合併して守山村・小津村・玉津村・河西村・速野村・中洲村・兵主村・中里村・篠原村・義王村・野洲村・三上村・北里村の13か村となる。以後上記13か村は次第に編入・合併され、明治37年守山町、同44年に野洲町が成立。大正15年6月郡役所は廃止された。昭和30年中主町・野洲町がおのおの成立。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』696~697頁 角川春樹発行 昭和54年
銅鐸出土の地(野洲市小篠原)
今から約2,000年前の弥生時代の遺物である銅鐸は、この付近の地(大岩山)で明治14年と昭和37年に合わせて24個が発見された。その中には今も日本最大(高さ134.7cm)のものが含まれている。
銅鐸は釣鐘の形をした青銅器で、その正確な使用方法は解明されていないが、当時の様子を想像すると、豊かな収穫に感謝する祭りは人々の最も大切な行事とされ、そこで銅鐸を揺り鳴らしたとも考えられている。
人々は銅鐸の音色に神への祈りと日々の感謝を捧げると共に、お互いの心と心を結ぶ絆をより強くしながら、共同で働き、共同の生活をしていた社会の美しい光景がしのばれる。 平成25年10月 野洲市観光物産協会
*説明版より
三上・田上・信楽県立自然公園(特別地域)
この付近で次のような行為をする場合は滋賀県知事の許可が必要である。
・木竹の伐採 ・工作物の新築 ・土石の採取 ・土地の形状変更
・特定植物の採取 その他ゴミ類は各自で持ち帰ること。 滋賀県
*説明版より
三上山登山道案内板(裏道)
三上山は高さ432mで、その美しい姿から「近江富士」の名で親しまれている。
また、俵藤太のむかで退治伝説の舞台となった山で「むかで山」とも呼ばれている。
山頂には、この山がふもと御上神社の神体山であることから奥宮があり、琵琶湖や天気の良い日は生駒山が展望できる。
山頂までは約1.3km(約40分)で、表道よりもゆるやかな登山道である。
野洲市観光物産協会
*説明版より
三上山登山道案内板(表道)
三上山は高さ432mで、その美しい姿から「近江富士」の名で親しまれている。
また、俵藤太のむかで退治伝説の舞台となった山で「むかで山」とも呼ばれている。
山頂には、この山がふもと御上神社の神体山であることから奥宮があり、琵琶湖や天気の良い日は生駒山が展望できる。
山頂までは約1.1km(約35分)で、裏道よりも急坂が多く、健脚向の登山道である。
野洲市観光物産協会
*説明版より