金森家累代供養塔 金森家殉死者の墓お知らせ, 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ金森家累代供養塔 金森家殉死者の墓 京都へ改葬された金森家の墓地跡に立つ供養塔の左右に、主君に殉死した家臣の墓石が集められている。 向かって左の内側の2基は、元和元年(1615)閏6月3日没した金森家第2代可重(ありしげ)に殉死した森石衛門九郎政吉と山蔵縫殿(ぬいの)助(すけ)宗次のもの。外側のもう1基は、正保4年(1647)8月7日に没した金森家第3代重頼(しげより)の9男重利に殉死した野田源五左衛門清次のもの。 供養碑の右側の4基は、慶安3年(1650)4月7日に没した重頼に殉死した平岡三郎兵衛忠勝・遠藤右京頼忠・大野瀬兵衛長矩・西塚三郎左衛門忠明のものである。 殉死は家臣が死後も主君に奉公する意味で、寛文3年(1663)幕府はこれを禁止した。 高山市教育委員会 説明板より 大原彦四郎の墓 飛騨の第12代代官大原彦四郎紹正(つぐまさ)は明和2年(1765)高山陣屋に着任し、幕府の方針により御用木元伐休止や検地による増石などにより、郡代に昇任した。しかしこれら厳しい政策は領民の反発を招き、明和・安永の大原騒動が起こった。一方彦四郎は俳句を嗜み、清流亭楚諾と号して俳壇水音社(すいおんしゃ)を結成し、その宗匠となった。安永8年(1779)9月22日陣屋にて没し、墓には側面から裏にかけて彦四郎の事績と俳句が刻まれている。墓は建立当初から幾度か倒され破損している。向かって右は、長男勝次郎照正の墓で、こちらも傷みが甚だしい。 第13代郡代を継いだ子の亀五郎正純(勝次郎の弟)も失政が続き、天明の騒動を引き起こしている。 高山市教育委員会 説明板より 関連資料 2-22-1 金森家累代供養塔 金森家殉死者の墓 2-22-2 大原彦四郎の墓 資料集 090_299_金森氏・旧墓域、大原彦四郎墓碑 2020年7月27日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2020/07/DSCN1825_R.jpg 768 1024 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2020-07-27 13:28:312022-06-23 10:40:55金森家累代供養塔 金森家殉死者の墓