関ヶ原合戦後、家康は上洛し、諸将を賞罰した。長近には大垣城の10万石を与えよとしたが、長近は固辞し、武儀郡上有知の領有を強く望んだ。その理由は次の3点にあると思考される。
① 武儀郡は金森本領飛騨に通ずる重要な街道で、飛騨側からは、美濃への前進基地とする軍事上の地域だった。
② 中世以後、特産物により発展した地域で、その中心に上有知があった。(特に美濃紙の集散地としての経済的地位があった)
③ 上有知は岐阜以北の交通の最重要地点であった。(当時の飛騨への街道は岐阜―上有知-見坂峠-(津保街道で)金山-飛騨へ)
このように、軍事、経済、交通上からも、飛騨本領を守るためにぜひ必要だったのである。