関ケ原の合戦場・金森氏の布陣場所
関ケ原の合戦場・金森氏の布陣場所
三成の決起と家康の陣営固め
慶長5年(1600)
6月18日 家康、伏見城を発ち会津遠征に向かう。
7月11日 三成、佐和山城で吉継に家康討伐を打ち明ける。
25日 家康、小山で三成を打つため西上を決定する。
8月10日 三成、大垣城に入る。
26日 東軍、美濃赤坂の集結する。
9月 3日 大谷吉継、山中村宮上の布陣する。
14日 家康、美濃赤坂に入る。
島左近率いる西軍、杭瀬川の戦いで勝利する。
小早川秀秋、松尾山に布陣する。
三成、大垣城を午後7時頃出陣。
家康、赤坂を午前0時前出陣。
激突・裏切り・壊滅
――本戦―― 9月5日
午前5時頃 全西軍、関ケ原の布陣完了。
6時頃 全東軍、関ケ原に布陣完了。
8時頃 戦闘開始。
10時頃 家康、本陣を陣場野に移す。
12時頃 秀秋、西軍を裏切り、大谷隊を攻撃する。
13時頃 脇坂ら4隊も裏切り、西陣壊滅する。
14時頃 島津隊、敵中突破を敢行する。
17時頃 東軍圧勝。
家康、西軍将士の首実検と東軍諸将を引見する。
戦後処理と動向
9月17日 三成の居城佐和山が落城する。
19日 家康、草津に入る。
小西行長、伊吹山中で捕らえられる。
21日 三成、古橋村(滋賀県木之本町)で捕らえられる。
23日 大垣城開城される。
安国寺恵璚、京都で捕らえられる。
10月 1日 家康、三成・行長・恵璚を京都六条河原で処刑する。
慶長8年(1603)
2月12日 家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。
東軍の総兵力 約74,000
徳川家康 約30,000
約5,400
黒田長政 古田重勝 約1,000
竹中重門 織田有楽 約 400
細川忠興 約5,000 金森長近 約1,200
加藤嘉明 約3,000 生駒一正 約1,800
筒井定次 約2,800 寺沢広高 約2,400
田中吉政 約3,000 本多忠勝 約 500
約6,000
松平忠吉
井伊直政 有馬豊氏
約13,900
福島正則 約6,000 山内一豊
藤堂高虎 約2,500 朝の幸長
京極高知 約3,000 池田輝政
説明板より
関ヶ原古戦場 ――笹尾山――
西暦1600年9月15日、日本列島のほぼ中央、東西交通の要に位置するここ関ケ原において、天下分け目の戦いが繰り広げられました。天下の覇権をねらう東軍・徳川家康と、家康の野望を阻止せんとする西軍・石田三成の雌雄を決する関ヶ原の戦いは、この関ケ原盆地において東西両郡あわせて約15万人の将兵の激突となりました。
笹尾山は西軍の総大将・石田三成が本陣を構えたところです。
桃配山
天下を分ける壬申の大いくさは千3百年ほどまえであった。吉野郡をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮をおき、わざみ野において、近江軍とむきあっていた。急ごしらえの御所に、皇子がはいったのは、6月の27日である。野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。
「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」皇子は、行宮につくがはやいか、桃のむかえにあって、こおどりしてよろこんだ。くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あまずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。皇子は、はたとひざをたたき、不破の大領をよんだ。「この不破の地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。どうだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士みんなに一こずつ配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。これをたべて戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれよう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」大領、宮勝木実は、胸をうたれ平伏した。木実は行宮所在地の大領(郡長)として、御所をたて、皇子をおまもりしている。「ありがたいことでございます。戦勝につなぐえんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。天子さまからたまわった尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のものたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてくれるでありましょう。」このとき、木実が確信したとおり、この桃をおしいただいた数萬の将兵の士気は、いやがうえにもたかまり、連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであった。この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山とか、桃賦野とよんで、いまにつたわっている。9百年のあと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、一日で、天下を自分のものとした。
説明板より
関ヶ原決戦のあらまし
① 両軍の配置と兵力
大垣城及びその周辺にいた両軍の主力は14日夜、石田、島津、小西、宇喜多隊の順に、野口、栗原、牧田を経て関ヶ原の陣地笹尾山、小池、北天満山、南天満山へそれぞれ着き、完了したのが午前4時頃であった。とにかく、雨の中、夜通し遠廻りの行軍は相当の疲労も見られたが直ちに陣地を固めた。それに対し、東軍は早朝2時頃福島隊、黒田隊が竹中隊の案内で出発し、4時頃には福島隊の先頭が着き、西軍の最後尾字喜多隊と接触し、大混乱を起こした。こうして東西両軍が東西4キロメートル、南北2キロメートの関ヶ原陣地に着き、開戦を待った。
東軍の兵力は徳川家康ほか74,000人(そのうち南宮山軍に備えた池田、浅野隊ら19,965人)、西軍の兵力は石田三成ほか82,000人、関ヶ原陣地での午前中は東軍が約53,000人、西軍が56,000人とほぼ互角。午後になって小早川隊らの裏切りで東軍が19,965人増え、西軍はそれだけ減って、東軍が94,000人、西軍が37,000人となった。西軍の陣地は高地で鶴翼の陣で、戦いには有利であったが兵力の差、意欲の差が地の利を生かすことができなかった。
② 決戦の模様
午前7時頃、雨は上がったものの深い霧が一面に立ち込め、数間先も見えない。機先を制することが兵法にあるが、お互いに陣地に着いたばかりで、土地感も弱く、西軍にとっては夜行軍の疲れもあり、相手の出方を見守っていた。8時頃、霧も次第に晴れてきた。東軍は外様大名に先陣の功を取らせるものかと、井伊直政は家康の四男松平忠吉の初陣を飾らせんと、屈強の家臣30余名をつれ、福島隊の前面に出かけた。ところが先陣を受けていた福島隊の先頭可児才蔵に発見され「今日の先陣は福島隊である。誰も先に通すことはできない。」と止めた。直政は「総大将松平忠吉公の敵状偵察に案内するところだ。」と偽り、そこより方向を右へより宇喜多隊に発砲した。これを見た福島正則は800人の銃手をつれ、宇喜多隊を攻めた。この頃、西軍は南天満山、笹尾山、東軍は丸山にそれぞれ大きな音ののろしを上げ戦端が開かれ、あちらこちらから閧の声、螺の音が大きく鳴り響いた。
南天満山の字喜多隊は五段に構えて戦った。なかでも明石全登の率いる隊は強く、福島隊を追い返した。その左に位置した藤堂、京極隊、さらに寺沢隊は大谷、平塚隊を攻めた。織田、古田、佐久間隊は北天満の小西隊と戦い、その後織田隊は福島隊の背後から不破の関付近に出て、藤堂、京極隊と共に平塚隊と交戦し、一進一退の激戦を繰り返した。
笹尾山の石田隊へは黒田、竹中隊、さらに田中、加藤、金森親子隊が向かった。三成は本陣前2町ほどに竹柵と濠を造り、その前に猛将島勝猛隊、柵の内に蒲生郷舎隊を置き、三段構え、これに対し黒田隊は竹中隊の案内で、山麓をつたって三成隊の左側を突進した。島隊は二手に分け、自ら一隊を率い、山麓からの黒田隊へ迫り、これを討たんとした。これを見た東軍の田中、加藤隊は黒田隊を援けんと三成の本陣へ突進、また、黒田隊は名銃手10数人を小高い山麓を密かに迂回し、島勝猛隊の側面から鉄砲を撃ち、島隊を混乱させ、さしもの勝猛も弾に当たり、柵の内につれ入れられた。その隙に黒田、竹中、田中隊ら三成本陣へ突進した。しかし蒲生隊らの頑強な兵に撃退され、細川、加藤、金森隊の援護で防戦し、一進一退の激しい戦いが続いた。
家康は桃配山の本陣では戦況を充分知ることができないこと、南宮山軍の傍観を確認して本陣を前に進め、11時頃には陣場野に着いていた。正午になっても松尾山の小早川隊が動かない。痺(しびれ)を切らし、麾下と福島の鉄砲隊に松尾山へ向けて一斉射撃を命じた。これによって迷っていた小早川秀秋は松野主馬の反対を押し切って山を下り、大谷、平塚隊へ向かった。これに呼応して脇坂、朽木、小川、赤座隊も裏切り、後ろから大谷隊らを攻めたてた。この時、平塚隊は藤古川の前より後ろにさがり前から横から後ろからの敵と戦い、3度までも撃退したが多くの兵士を失い、力つき、ついに戸田、平塚も戦死した。大谷は平塚からの冥土の土産の首を手にし、小早川の裏切りを恨みながら自害し、湯浅五助に介錯させ、三浦喜大夫にその首を埋めさせた。こうして西軍の一角が崩れるや、宇喜多、小西、石田隊と次々敗れ、その多くは伊吹山麓方面へ敗走した。残った島津隊は陣容を整え、敵の本陣を突破して、伊勢路から堺に出て鹿児島に婦った。
天下分目の関ヶ原の大合戦はわずか7時間ほどで東軍の勝利となった。この戦いで西軍約8,000人、東軍約4,000人が鉄砲弾、弓矢、槍、刀によって殺され、負傷者もこれ以上あったと思う。したがって関ヶ原の戦場跡には血みどろな、首のない、手足のない人体や馬、さらに動けない者も右往左往し、全く地獄絵そのものであった。慶長7年(1602)関ヶ原古戦場に生まれた合川少年は、世の無情を知り、本陣職を譲って出家し、無難禅師となった。
<引用文献>
太田三郎・中島勝国『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』35~36頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年
郡上八幡城の攻撃
関ヶ原合戦の慶長5年(1600)春に金山城主森忠政が信州海津城に移封された当時の中濃から東濃西部には、郡上に稲葉貞通、武儀鉈尾山に佐藤方政、加茂白川には郡上から左遷され小原に遠藤慶隆・犬地に遠藤胤直の両遠藤氏が配されていた。
美濃の最大大名の織田秀信が石田三成に加担したので美濃の多くの武将は西軍に属した。稲葉貞通は犬山城の石川光吉のもとに、佐藤方政は岐阜の織田秀信のもとに馳せていた。同遠藤氏は慶隆が東軍に組し、胤直は西軍に属するという東西両陣営に分かれた。
8月に入ると犬地の胤直は「上ヶ根」の砦に籠もり慶隆に備え対した。この「上ヶ根砦」の所在については諸説がある。一番有力視されているのが、現白川町切井の「城が根」であるという。それに対して慶隆は佐見の吉田に砦を築いて「上ヶ根」に備えたという。慶隆が旧地の郡上奪取の行動を起こすのは8月28日である。郡上城主稲葉貞通が犬山に在陣中で留守のうちにというわけである。慶隆は飛騨川を渡河し和良から安久田へ出、9月1日に郡上城を飛騨の金森可重の援軍とともに攻撃した。翌2日に和議が成立した。急を聞いた犬山にあった稲葉貞通が3日に郡上に到着し愛宕山の遠藤軍を攻撃し激戦となったという。4日再び和議が成立し両軍は兵を収めた。
慶隆は東濃へ兵を戻し5日に胤直の籠もる上ヶ根の砦を囲み、軽戦のうちに岐阜・犬山等の近況を知らせ東軍に降ることを論した。胤直はこれに従った。慶隆が家康に胤直の罪の宥されんことを懇請したが岳父に敵対したことを理由に宥さなかったという。
9月14日慶隆は美濃赤坂で家康に謁し、郡上・上ヶ根の戦闘報告をして東軍に参如した。
一方、稲葉貞通も15日関ヶ原で家康に謁し東軍側と戦ったことを詫び、長束正家が居城水口で籠城しているのを加藤貞泰らとともに攻める。
関ヶ原の論功行賞で稲葉貞通は豊後の臼杵50,000石に移封、そのあとに遠藤慶隆が郡上八幡城に入城し27,000石を領有し、12年ぶりに旧地を回復した。
この稲葉も加藤も犬山に籠もった武将である。東軍が本曽川を渡河し岐阜城を目指した時に、犬山は無視され戦わずして開城している。東軍が西軍の濃尾国境の拠点を徹底攻撃していたら犬山に馳せていた武将らの近世大名として存続することは不可能であった。犬山城の各武将が西軍に見限りをし東軍へ傾斜していったことが根底にあったのではないだろうか。
<引用文献>
中島勝国『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』22頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年
関ヶ原合戦後の金森長近―上有知時代から晚年への動き―
金森長近は、「上有知旧事記」によれば関ヶ原戦後、家康と一緒に稲葉山城に登った時に、「信長公在世中、この山へ来た者、今は法印と2人だけになった。相変わらずの味方に満足、何なりと望みを。」と言われて佐藤領と上有知築城を願い、やがてその望みは達せられた。
史料「上有知旧事記」の一部
<翻刻文>
権現公様、岐阜山へ御登山被為遊候節の事、法印様へ、信長在世ニ、此山へ来ル者も、今ハ法印と我等計ニ成候、不相替味方被致、満足ニ、何成共好ミ可被申と、被仰候節、上有知ニ御隠居御願被成、飛騨之国之同郡ヲ、領知 被成候、市町御免許、御上聞被為達候御事と、申伝候
関ヶ原合戦後、家康は上洛し、諸将を賞罰した。長近には大垣城の10万石を与えよとしたが、長近は固辞し、武儀郡上有知の領有を強く望んだ。その理由は次の3点にあると思考される。
① 武儀郡は金森本領飛騨に通ずる重要な街道で、飛騨側からは、美濃への前進基地とする軍事上の地域だった。
② 中世以後、特産物により発展した地域で、その中心に上有知があった。(特に美濃紙の集散地としての経済的地位があった)
③ 上有知は岐阜以北の交通の最重要地点であった。(当時の飛騨への街道は岐阜―上有知-見坂峠-(津保街道で)金山-飛騨へ)
このように、軍事、経済、交通上からも、飛騨本領を守るためにぜひ必要だったのである。
1 金森長近への恩賞
関ヶ原戦後の賞罰で家康は、敵対した諸大名の領地の没収・削減を厳しく行なう一方、味方した外様大名に加増し、その領国を移すという政策を行なった。西軍の上有知城(鉈尾山城)佐藤氏は滅亡、東軍の長近は功によって本領飛騨国の安堵と、滅亡した佐藤方政の所領だった美濃国上(こう)有(ず)知(ち)に関を加えた20,000石と河内国金田の3,000石の都合23,000石を加増された。「岐阜県史」「美濃市史」他
<加増額の不一致>
上の金森長近の石高は、岐阜県史、美濃市史による。河内国金田の分は、長近が伏見居住の便を考えて家康に所望したと考えられ、飛騨一国と合わせ61,000石の大名となった。
ただし、これらの石数は諸書によって差があり、正確な石数の確定はむつかしい。(分知・蔵(くら)入地、合戦前の金森領など問題あり)
23,000石説をとる文献は「金森先祖書」「寬政重修諸家譜」「靱負由緒書」「飛騨略記」などがある。
20,000石説の文献には「寛永諸家系図伝」「諸牒餘録」「飛騨太平記」「金森家譜」「上有知元地目録」などがある。
2 徳川家康と采配紙
徳川家康が関ヶ原合戦で東軍の総師として西軍と戦った時、家康が軍勢を指揮する采配の紙を、武儀郡御手洗村(現美濃市)の彦左衛門等に申し付けた。一同畏まって漉き立て家康公に差し上げた。
この紙で作った采配で指揮したところ、東軍は大勝した。やがて天下を掌握し幕府を開いた後も、この吉例を以て、采配紙をはじめ、障子紙の御用をも仰せ付けられることになった。
「佐藤鶴吉文書」に、次のようにある。
是は神君関ヶ原御出陣の時、今庄屋を相勤め候、定七先祖の者等、御采配の御紙仰付けられ御漉上げ申し候処、悦喜にて、其節御利運に相成り申し候に付、吉例を以て追々御用を仰付けられ、御治世の上、駿府より以来、御紙漉屋と仰付けられ、代々御用を相勤め申し候。御采配紙の儀別して御大切の御用には、御忌言葉の儀仰渡され、漉立て候節は格別精密に仕り候儀、今尚心得罷り在り候。(略)
采配紙は良質の厚紙に大根の汁や、みょうばんを塗って乾かしてから朱・金・銀仕上げとする。朱漆塗・金箔押・銀箔押がこれで、紙は7・8・11・13・21枚などを重ねて細く裁ち、その一端を立鼓という輪に順に重ねる。(「武具考」)
3 関ヶ原合戦に戦った家臣団
関ヶ原合戦後、飛騨は可重へ、上有知は長近へと主君は二分され、当然ながらその家臣も分割を余儀なくされた。
金森長近の領地が20,000石余増大した慶長5年(1600)以後、上有知に移った家臣について、「飛騨太平記」は、次のように記している。
「法印公より御奉公仕り来る者は、大半上有知にて、長近公御逝去の後、御暇取者有。其内、肥日主水・島田四郎兵衛・池田図書、権現様へ召出さる。」
文中記述の「法印公より御奉公来る者は、大半上有知にて……」とある大半が何を意味しているか問題であるが、長近直属の家臣団たる「高山法印衆」の上級家臣の大半ともとれる文である。
可重に残されたいわゆる「古川出雲衆」は、長近が与えた家臣団であることを考えれば、法印衆と出雲衆をはっきり分離していたと言えなくもない。
記述にある3名は、長近の遺臣で、肥田主水忠親(母は長近の娘)、島田四郎兵衛、池田図書政長(上有知金森断絶後家康仕官)は家康から各1,000石宛を与えられて旗本に列した。
なお、肥田、池田のほかに島三郎左衛門にも1,000石与えられているので島田四郎兵衛と島とは同一家臣とも考えられる。
長近が飛騨に発した会津上杉征伐時出陣命令に、田島道閑、大塚権右衛門、今井少右衛門宛の名が散見されるが、法印衆であろう。
「田能村記」「願生記」「飛州軍乱記」「豊国武鑑」「遠藤家旧記」などの文献上から法印衆・出雲衆の一部を見ると、
高山法印衆……遠藤宗兵衛(家老)、吉田孫十郎(500石)、石徹白老右衛門、田島道閑、牛丸又右衛門、山田小十郎など
古川出雲衆……西脇右近(家老)、西脇吉介(300石)、西脇兵左衛門など西脇一族、田能村善次郎、佐藤彦太夫など
があるが、同姓でも違(い)字があったりで確定に難がある。
いざ合戦となると、多くの雑兵(家臣団の戦闘要員の多く)の動員が必要であったし、主力の遠征では自領内に残留する家臣、出陣期間、家族などを考慮する必要があった。
前述の会津出陣準備命令では、「3年間免税することを条件に百姓を動員したこと」「長柄の者50人を動員したこと」などをあげている。小荷駄(主に兵糧・弾薬運び)、砦造りに従事したのである。
実戦では、主人と共に戦う侍(悴(かせ)者・若党・足軽と呼ぶ)、主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下(げ)人(にん)(中間(げん)・小(こ)者(もの)と呼ぶ)、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓たち(夫(ふ)・夫(ふ)丸(まる)と呼ぶ)の雑兵たちによって支えられていたことを忘れてはならない。
ほかに「陣僧」と呼ばれる非戦闘員が武士と共に戦場へ行き、戦死者の菩提を弔ったり、和議を取り持ったりしたことはよく知られている。合戦後戦場を訪れた僧もあったと伝えている。
武儀郡洞戸村の禅僧「不立」は、関ヶ原合戦の時、家康に属して戦うため村民を連れて出発したが、途中水に溺れ死んだという。
4 小倉山城築城と上有知繁栄
合戦後鉈尾山城(上有知城)に居館した長近は、ここには住まず慶長6年(1601)より背後に絶壁と長良川を持った尾崎丸山を選び築城に着手し、慶長10年(1605)に完成した。尾崎丸山を風流人長近らしく京都嵯峨の名勝にちなんで小倉山と改め、小倉山城と称した。
築城と同時に、西軍に属した佐藤氏の菩提寺だった以安寺住職鉄松和尚を開祖として清泰寺を建立、金森家の菩提寺となし、寺領100石を寄進した。
長近は、これと並行して、慶長7年(1602)の長良川の大水害後、城下町南方の台地を開拓して亀ヶ丘と名付け、ここに長良川沿岸にあった古町の人々を移転させ、永遠に水害より救った。
古町は佐藤氏時代の城下町で、今も古町、古城跡保寧寺跡、金屋街道などの小字名が残っている。
こうして新城下町上有知(旧美濃町)ができ、以後この地方の政治、産業、交通の中心地として繁栄した。長近の英断によって城下町が亀ヶ丘に移るや、長良川の水運の要衝は港町に移り、舟及び筏の寄港発着地として、上有知の表玄関となった。人も荷も悉く上有知港に集まり、上有知港から散っていった。上有知からは紙荷、曽代絹が主で、その積荷には水陸安全、桑名から海を行く荷には海陸安全と記入されていた。
産業に意を注いだ長近は、紙の生産はもちろん、養蚕も奨励指導した。養蚕が盛んだったことは、浅井図南(註1)の「釜戸治湯日記」中に「明けゆけば二十四日なり。かど近く人馬の行き交う声とて、誰が旅立ちにやと思う。起き出で人に問えば、是れなん桑市なり」とあるのでもわかる。
註1 図南は、尾張藩主徳川家勝に招聘され藩医となった。美濃各地巡遊紀行「釜戸治湯日記」を著した。
<引用文献>
森政治『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』65~67頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年