難波長柄豊崎宮
難波長柄豊崎宮
前期難波宮(なにわのみや)
難波宮は大阪の上(うえ)町(まち)台地の北端を利用して造られた宮跡。聖(しょう)武(む)天皇の時代に造られた後期難波宮の下層から発見された宮殿遺跡を前期難波宮と呼び、孝(こう)徳(とく)天皇の652年に完成し、天(てん)武(む)天皇の686年に焼亡した難波豊(とよ)碕(さき)宮にあてる。宮城の中心部に、朝堂・内裏前殿(大極殿)・内裏の区画が南から一直線上に並ぶ威容は、先進国である大陸王朝の宮殿の制度をまねたもの。難(なに)波(わ)津(づ)は大和朝廷の玄関にあたり、唐や新羅の使節がいったんここで待機し、その後に大和の都に上る手順になっている。外国の外交官に対して、日本が決して後進国でないことを誇示するために造ったのだろう。いずれの建物も掘立柱・板葺きによる日本式で、大陸的な礎石や瓦を使った建物はない。建築技術の未熟さは、隠しようがなかった。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
難波遷都
皇極4年(645)6月、クーデターで蘇(そ)我(が)本(ほん)宗(そう)家(け)を倒して新政権を樹立した中(なかの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)や藤原鎌(かま)足(たり)らは、その年の12月、都を上(うえ)町(まち)台地の先端部に当たる難波の長(なが)柄(ら)豊(とよ)碕(さき)の地に移した。
難波の地は、「倭京」の外港で、瀬戸内海を経由する内外交通のターミナルである難(なに)波(わ)津(づ)を擁(よう)し、また、淀(よど)川・大和川水系を通じて畿内各地や、北陸・東海地方ともつながる交通の要(よう)衝(しょう)であった。そのため、中国・朝鮮への交通の発着点として早くから外交の要所であり、大(おお)郡(ごおり)や難波館(なにわのむろつみ)など外交関係の役所や迎(げい)賓(ひん)館(かん)が設けられた。さらに、難波に集散する内外の物資を収納・管理・運送する経済的中心地として、難波屯倉(みやけ)や諸豪族の難波の宅や倉が営まれていた。
難波(なにわ)遷(せん)都(と)は、長年専権をふるった蘇我氏ら旧勢力の蟠(ばん)踞(きょ)する飛鳥の地から脱して人心を一新するとともに、隋(ずい)・唐(とう)の対高(こう)句(く)麗(り)戦争を契機として引き起こされた朝鮮半島をめぐる政治情勢に積極的に対処しようとする新政権の意志表示であり、難波の外交・軍事の基地としての機能に着目したものであった。
天皇を頂点とする中央集権的な全国支配を目指す新政権にとって、その政治の中心となる都の造営こそ、まず成し遂げられねばならない課題であった。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
長柄豊碕宮の造営
孝徳天皇は、とりあえず既成の官(かん)衙(が)を行(かり)宮(みや)に改修して、ここを拠点に新しい都の建設に着手した。当然のことながら宮都の建設に際しては、宮地の整地、街路・橋梁・池(ち)溝(こう)・港湾などの整備や河川の治水など基盤整備が先行して行なわれた。
こうした過程を経て、白(はく)雉(ち)元年(650)10月から、いよいよ新宮の建設に取りかかった。
その地の名をとって難(なに)波(わ)長(なが)柄(ら)豊(とよ)碕(さきの)宮(みや)と名づけられ、白雉3年(652)9月に完成した新宮の宮殿の状(かたち)は、『日本書紀』が「言葉に尽しがたいほど立(りっ)派(ぱ)であった」と特筆している通り、従来の宮殿とは隔(かく)絶(ぜつ)した規模と構造を持つものであった。
昭和29年(1954)以来の長年にわたる発掘調査によって、上町台地先端部に当たる大阪市東区馬場町・法円坂1丁目一帯の地に、中軸線をほぼ同じくする前・後2時期の宮殿跡が発見されている。
奈良時代の後期難波宮跡に先行する前期難波宮跡こそ、652年の完成後は、難波における正宮として、難波宮とも呼ばれた難波長柄豊碕宮の遺構と考えられるのである。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
前期難波宮跡
すべて掘立柱建物で、屋瓦を伴わないので瓦葺(ぶ)きではなかったと考えられる。遺構は、曲折して南北にのびる回廊が左右対称に配され、その内部は、7間×2間(32.7メートル×12.3メートル)の日本の宮都の中でも最大級の規模を持つ巨大な内(だい)裏(り)南門で、北の内裏と南の朝(ちょう)堂(どう)院(いん)に大きく2分される。宮城門(外門)は未調査であるが、朝堂院南門(中門)を入ると、広大な朝庭の東西に12朝堂が並び、内裏南門(内門)の左右には、他の諸宮には例を見ない八角殿院がある。
内裏南門を入ると、中庭の北に内裏前殿、左右に東西長殿がある。内裏前殿は9間×5間(36.6メートル×19メートル)で、前期難波宮の中で最大の規模を持つ。その掘立柱は、直径73センチメートルもある立派なもので「長柄の宮に 真木(まき)柱 太高敷きて」とある『万葉集』(928)の歌を彷(ほう)彿(ふつ)とさせる。
その後の内裏後殿は前殿と回廊で結ばれ、左右に脇殿を配するというように、全体として左右対称の整然とした宮殿の配置がうかがえる。
内裏・朝堂院の西方約284メートルには、西側を一本柱の塀(へい)で区画された高床倉庫4棟以上や「並び倉」が並び、東方約200メートルにも、前期難波宮に属すると推定される2棟の高床倉庫を中心とした掘立柱建物群が存する。
内裏後半部の状況は明らかではないが、これまでに判明した内裏・朝堂院部分だけをとっても、東西238.7メートル、南北408メートルの範囲を占め、さらにその外方の倉庫群や官衙などを含めると、東西約600メートルに及ぶ規模であったと思われる。
前期難波宮は基本的には、内裏とその前面の朝庭を含む官衙群、その周囲に配された倉庫群とから構成されていた。
<画期的な長柄豊碕宮>
こうした前期難波宮の構造は、基本的には文献から復元されている小墾田宮の構造を継承するものであるが、内裏部分が前殿区域と後殿区域に分かれること、巨大な内裏南門の左右に八角殿院を配すること、朝堂院が極めて大きく、広大な朝庭と多数の庁(まつりごとどの)(朝堂)を持つこと、近辺に倉庫群を配する点など、それまでの飛鳥諸宮に隔絶した規模と、よりいっそう整備された配置を持っている。
前期難波宮の規模の大きさは、飛鳥では分散していた内廷・外廷機能を難波遷都を契(けい)機(き)に1か所に集約したこと、後世、「難波朝廷の立札」として記憶される中国的な立札が採用されたことに示されるように、中国の儒(じゅ)教(きょう)的な礼教主義に基づいて、天皇を頂点に臣下を秩(ちつ)序(じょ)づけるさまざまな礼法が定められ、それを具体的に演出し、「海東の大国」としての威信を内外に誇示する舞台装置として、長柄豊碕宮が構想されたことを示している。その具体的な例として、別宮のことではあるが、650年の白雉改元の儀式や、孝徳朝から始まる元日朝賀の儀式があげられるであろう。
その基本構造は5世紀以来の大王の宮の発展系列上にのるものであったが、中国の都城制にならってさまざまな体(てい)裁(さい)がこらされた。隋(ずい)・唐(とう)の長(ちょう)安(あん)城の宮城に当たる内裏の南面には承(しょう)天(てん)門(もん)にならった巨大な門を置き、その左右に回(かい)廊(ろう)で囲まれた八角形の楼(ろう)閣(かく)を配する。この八角楼殿は、東方が鼓(こ)楼(ろう)、西方が鐘(しょう)楼(ろう)であったと思われる。時間や暦(こよみ)を定めて民に知らせることは、古代の天子や天皇の重要な役割であった。また、朝庭に出入する官人の出退時間を鐘で知らせたことは、大化3年(647)の小郡宮の礼法に見え、その鐘は中庭に置かれたという。唐の長安城太極宮では、貞(じょう)観(がん)4年(630)に太極殿の前にある太極門の東に鼓楼、西に鐘楼が置かれたとあり、その配置が前期難波宮の場合と一致することも参考になる。
内裏の南にある朝堂院は、長安城の皇城を意識した官(かん)衙(が)であり、内裏南門の前面に広がる広大な朝庭は、承天門前の横街に当たる。
朝庭の周囲に配された庁の数が12であるのは、町(まち)田(だ)章(あきら)によれば中国の五(ご)行(ぎょう)思(し)想(そう)に基づくもので、天子の12章(天子の服だけに許された独特の模様)や、宮城12門のように天子だけに許された聖数であるという。
難波における正宮として、以後、難波宮とも呼ばれた長(なが)柄(ら)豊(とよ)碕(さきの)宮(みや)は、孝徳天皇の崩(ほう)御(ぎょ)と飛鳥(あすか)への遷都の後にも廃(はい)絶(ぜつ)することなく維(い)持(じ)され、天(てん)武(む)朝にはいっそうの拡充を見て、天武12年(684)12月には複都制の詔(みことのり)によって「倭京」と並ぶ副都となるのである。
以上述べてきたように、前期難波宮跡が孝徳朝の長柄豊碕宮の遺構であるとすると、後出の大津宮や浄御原宮の推定遺構の方が規模が小さくなることから、両者ともに長柄豊碕宮の発展系列の上においては考えにくいとして、天武初年あるいは複都制の詔とかかわらせて、天武12年(684)頃の創建と考えた方が、飛鳥の諸宮から藤原宮にいたる、我が国の宮室の発展系列が整合的に理解しやすいとの考えがある。
しかし、白(はく)村江(すきのえ)の敗戦後の緊(きん)迫(ぱく)した国際状況の下に、慌しく遷都・造営された大(おお)津(つ)宮や壬(じん)申(しん)の乱(らん)後に造営された浄(きよ)御(み)原(はら)宮の方が、日本の都城の発展系列では異質のものではなかったか。飛(あす)鳥(か)板(いた)葺(ぶきの)宮(みや)伝承地の上層遺構が浄御原宮であるとすると、それは斉(さい)明(めい)朝の旧宮である後飛鳥岡本宮にエビノコ郭を新宮として付け加え拡充したものという。すでに多くの宮室や外廷施設、寺院によって占居されていた飛鳥の地に、新しい宮室を造営する余地はなかったのである。浄御原宮は飛鳥の立地と伝統に規制された極めて飛鳥的な宮室であり、天武朝における政治機構の整備・拡大に対応するだけの余地がなかった。それゆえにこそ、天武天皇は飛鳥遷都後間もない天武5年から早くも新しい都城の建設を目指したのである。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
前期難波宮跡(大阪市中央区)
蘇我本宗家を滅ぼした乙巳の変を受けて、孝徳天皇は改新の詔を発布して新政府を難波で樹立した。その象徴ともなる宮殿が前期難波宮である。前期難波宮は掘立柱建物で瓦を葺かず、朱鳥元年(686)に火災によって焼失したことがわかっている。宮域は明確ではないが、約700m四方程度が考えられており、その中心に北から内裏・朝堂院が並ぶ。その中心の内裏前殿は9×5間の四面庇建物で、朝堂院(南北262m、東西231m)には東西に各7堂以上の朝堂が配置されている。宮域の東方には官衙区画がみられ、西方には倉庫群が建ち並ぶ。これらの規模・構造は後の藤原宮と共通する部分が多く、『日本書紀』に「宮殿の状、殫く論ずべからず」と記される。
<引用文献> 明日香村教育委員会文化財課編集『飛鳥の考古学図録④ 飛鳥の宮殿 ―古代都市“飛鳥”を探る―』6頁 明日香村教育委員会文化財課発行 平成17年
前期難波宮
乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった(『日本書紀』巻第廿六による)。
天武天皇12年(683年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
ウィキペデア 2019.2.3 前期難波宮
難波長柄豊碕宮
難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、摂津国難波にあった飛鳥時代の宮。難波長柄豊崎宮、難波長柄豊埼宮とも表記する。学術的には、この宮跡に建てられた難波宮(後期難波宮)と区別して前期難波宮とも呼ばれる。
この宮は、上町台地の上にあり、大正2年(1913年)に陸軍の倉庫建築中に数個の重圏文・蓮華文の瓦が発見されている。昭和28年(1953年)、同地付近から鴟尾(しび)が発見されたのがきっかけで、難波宮址顕彰会の発掘・調査が進んだ。
内裏・朝堂院の構造がそれまで見られなかった大規模で画期的な物であったことから、大化の改新という改革の中心として計画的に造営された宮であるとされ、大化の改新虚構論への有力な反証となっている。
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大阪城の南に整備されている。前期・後期の遺跡を元に建物の基壇などが設置されている。
ウィキペデア 2019.2.3 難波長柄豊碕宮
資料集
088_095_都の移転・難波長柄豊崎宮