高山城
高山城
〈県指定〉昭和31年9月7日
〈所有者〉国有地、高山市、民有地
管理者 高山市ほか
〈所在地〉城山、神明町ほか
〈時代〉室町~江戸時代
〈員数〉114,006.2㎡(225頁に明細あり)
高山市街の東方にあって標高686.6m、通称城山、別名を臥牛山、巴山ともいう。
金森入国以前は、「天神山(てんじんやま)城」と呼ばれた。飛騨の守護代である多賀出雲守徳言によって、文安年中(1444~1449)に築城され、近江の多賀天神を祀ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれたという。永正年間(1504~1521)には高山外記が在城していた。
天正13年(1585)7月、金森長近は秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜わった。城地として最初は大八賀郷の鍋山城を考えたようであるが、のち、灘郷の天神山古城跡を選定した。飛騨のほぼ中央に位置し、開けた盆地があり、しかも東西南北の街道が交差するこの古城跡が最も適所と考えられたのである。築城は天正16年(1588)から始まり、慶長5年(1600)までの13年で本丸、二之丸が完成し、以後可(あり)重(しげ)によってさらに3年で三之丸が築かれ、慶長8年までに16年かかって完成したとされる。高山城は、織田信長が築城した安土城の直後に構築され、軍事的機能を最優先させた造形とは本質的に異なっている。御殿風の古い城郭形式を持ち、外観2層、内部3階の構造を持つ天守を備えているのが特徴で、秀吉の大阪城築城以前における城郭史上初期に位置づけられる。
高山城の各曲輪は、本丸が東西57間に南北30間、南之出丸が東西15間に南北22間、二之丸が東西97間に南北84間、三之丸が東西120間に南北93間の広さがあった。(『飛騨鑑』『斐太後風土記』『飛州志』)当時の絵図が金沢市立図書館にあるが、それによると次のようなことがわかる。
本丸には最高所に(あ)本丸屋形、その東方1段低いところ(A)に(い)十三間櫓、(う)十間櫓、(え)太鼓櫓、(か)横櫓等があり、東北に(き)搦手一ノ木戸のある(B)腰曲輪が連なる。本丸から南へ下ると途中に大手の(く)三ノ門、(け)二ノ門を経て(こ)岡崎蔵や(さ)大手門のある(C)南之出丸に至る。本丸の北方二之丸に下る途中には(し)中段屋形が建つ(D)曲輪と、その西方には(す)塩蔵その他の土蔵が建つ(E)曲輪がある。二之丸は東西に大きな曲輪が並んでいるが、(F)西側の曲輪には(せ)二之丸屋形、(そ)黒書院を中心に西方に(た)唐門、(ち)屏風土蔵、(つ)十間櫓等があり、東側の曲輪との境には(て)玄関門、(と)中ノ口門がある。一方(G)東側の曲輪には(な)庭樹院殿屋敷を中心に、東北隅に(に)鬼門櫓、東南に(ぬ)東之丸長屋に続いて(ね)裏門、西方には(の)横櫓大門がある。(は)大門を西方に下った(H)曲輪には、(ひ)桜門の西側に(ふ)炭蔵、東側に(へ)荷作り蔵、(ほ)料紙蔵等があり、その東北方に連なる(I)曲輪には2棟の細長い(ま)土蔵が建つ。(J)三之丸には(み)勘定所と8棟の(む)米蔵があり、水堀が東側と北側をくの字形に囲んでいる。大手道は南之出丸西側の大手門から大洞谷を下って桝形橋に通じている。
この中で、二之丸は東と西に平地を持ち、東側は庭樹院(頼旹の母)の住んだ屋形であった。現在は二之丸公園となっている。西は城主の屋形で、跡地に昭和35年荘川から照蓮寺が移築されている。三之丸には現在飛騨護国神社が建ち、三之丸にあった御蔵は高山陣屋へ移築されている。
城下町は、城の北方に延びる通称空町と呼ばれる高台と、その西方の低地一帯で、西側を南から北へ流れる宮川と、東側を南から北、途中で西側へ折れて流れる江名子川に囲まれた、東西約500m、南北約600mの範囲内に建設された。城郭の築城とともに武家屋敷の地割が行なわれ、飛騨の各地から寺院や町家が移されたが、町割は武家地と町人地がはっきり区分されていた。
武家地は城の大手筋にあたる大洞谷から中橋に至る宮川の右岸に階段状に配され、また空町一帯から江名子川沿いに城の西・北・東の3方を取り巻く形で配置された。町人地は宮川と空町の間の低地に一番町、二番町、三番町と南北に道路が走り、東西の道路は南北の大通りと食い違って交差する横丁が多くあった。社寺地は東山山麓に大雄寺が天正14年(1586)に建てられたのをはじめとして、天照寺、雲龍寺、素玄寺、宗猷寺、法華寺、また城の東南に大隆寺と、金森家の由緒の寺院が相次いで建立された。またこれらの寺院群とは別に城と向かいあった場所に照蓮寺が建てられ、周囲に寺内町が形成された。(『高山城発掘調査報告書Ⅰ、Ⅱ』1986、1988年 高山市教育委員会)
元禄5年、金森第6代頼旹は突然出羽国(山形県)に移封となり、金森氏転封後は金沢藩が城番を勤めた。しかし、元禄8年幕府の命により高山城は完全に破却され、廃城となった。のち、城山として町民の憩いの場として花見などに使われてきた。
高山城跡は大正8年内務省の史跡指定を受けて以来、法の変遷により昭和31年9月7日岐阜県の史跡として指定され、その面積は11.4haにおよぶ。また、高山城跡を中心とした城山公園一帯は、「高山城跡およびその周辺の野鳥生息地」として昭和31年6月14日、高山市の天然記念物に指定され、鳥獣保護区特別保護地区でもある。一部は都市計画上の急傾斜地防災地区に指定される。海抜は、本丸頂部で686.1mあり、高山市役所(馬場町2丁目)580m、旧高山町役場(神明町4丁目)575mと比べ約100m高所にある。
市街地にある自然公園としても貴重で、高山市民は春の花見、秋の紅葉を楽しむなど生活領域の一部として、密接なふれあいを持っている。遊歩道を歩くと、スギの幹をリスが走り、80種におよぶ野鳥が出迎えてくれる。自然植生の植物も豊富で、昭和56年にはササの新品種「ヒダノミヤマクマササ」が発見された。また、裏日本種と表日本種のササが混在する珍しい現象も確認されている。
このように、市街地に近接しているにもかかわらずたくさんの野鳥が生息し、自然植生が保たれ、史跡が保存されている例は稀であろう。
城山山頂部に位置する本丸は、城跡の最高所である。現在は樹木に遮られて、4方とも展望はきかないが、かつては360度の展望が開けていて、東は長野、北は富山、西は白川村、南は下呂、美濃へそれぞれ通ずる街道が見渡せる位置にある。
昭和60年、61年に本丸周辺の発掘調査をし、本丸屋形礎石、玄関、本丸南側石積根石を発掘、また、本丸周辺の部分測量を実施してその成果がまとめられている。
参考文献
『高山の文化財』188~194頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
2-11 高山城
資料集