延年の舞
延年の舞
毎年、1月6日に郡上市白鳥町の長滝白山神社で奉納される神事芸能である。延年とは、中世の寺院社会で主として行われてきた遊宴芸能である。延年の舞が行われているのは、日光輪光寺と平泉毛越寺[もうつうじ]と長滝白山神社の3か所のみである。
長滝の祭りは六日祭り、正月6日に行われるが、これは大晦日から始まって7日目に当たる。つまり、結願[けちがん]の日である。その結願の日の催しが、修正会[しゅうしょうえ]の延年として残ったのである。
社殿で行われる延年の舞は、酌取り、露払い、たうべん、乱拍子、田楽、しろすり、はっさい(大衆舞)の7つを総称して延年の舞といっている。かつて行われていた菓子讃め、かいこう、倶舎などはほとんど行われていないが、祭りの最初の行事としての菓子讃めは行われる場合もある。
延年の途中から拝殿の土間に吊した桜、菊、牡丹、椿、芥子の5つの花笠を若者達が人梯子を組んで、この花をもぎとろうとする。この人梯子は3段でも届かない。もぎとらないうちに人梯子が崩れる。花笠をもぎとることができると、そのまま下に落ち、人々がその花を奪う。この花を持って帰ると、養蚕がよくできると一般人は大いに花を奪うことを喜ぶのである。これが延年の舞のなかでもよく知られている花奪いである。
①「延年」の意味
延年とは本来、文字通り、齢を延ばす、つまり寿命を延ばすという意味のめでたいことばである。『宋書』の「楽誌」には、「延年千秋を寿ぐ」とある。
日本で文献上「延年」の語がはじめて出てくるのは、書道史上「三蹟」の一人として有名な藤原行成の日記『権記』の中であり、寛弘六年(一〇〇九)五月一日の条に、この日の沐浴が「延年除禍」の効験ありとする記事がある。日本でも禍を除くというめでたいことばとして使われていたこと、さらに当時「延年」が普通名詞として使われていたことがわかる。十二世紀初めに成立した『今昔物語』では、「延年ス」と動詞に使われ、語義としては「娯楽する」あるいは「逍遥する」という広義に使われている。
しかし、一方においてほぼ同時代に、「延年」は、歌舞管絃の催しを意味するようにもなっている。藤原道長『御堂関白記』、藤原実資『小右記』、および源経頼『左経記』には、寛仁二年(一〇一八)十月十六日、藤原道長の娘威子の中宮即位を祝った遊宴についての記事があり、ここでは「延年」は歌舞管絃の催しの意味に使われている。このように、歌舞管絃の催し、遊宴芸能を意味する「延年」は、貴族社会において、平安時代の中ごろから登場したということができる。
そして貴族社会が衰退し、寺院勢力が強くなってくる平安時代末期、院政期から鎌倉時代にかけて、東大寺・興福寺・延暦寺など中央の大寺院で、法会(仏教行事)のあとに僧侶などをねぎらうために、若い僧や稚児(寺院に召し使われた少年)が催した遊宴歌舞伎の芸能を延年と呼ぶようになった。
藤原定家(鎌倉時代初期の歌人)の日記『名月記』には、建仁三年(一二〇三)奈良の寺院で僧の雑遊を見たことに関連して「乱遊、延年と号す」と書いている。さらに、『吾妻鏡』承元五年(一二一一)正月三日の条に、「今日午前盃酒に及び、延年等有り」と見え、武家社会にも広まったことがわかる。
ただし寺院社会における延年は、単なる酒宴の余興ではなくて、法会に際して一山の繁栄を祈り、千秋万歳を寿ぐ儀式・神事の一部という意義を持っていた。延年が寺院社会で催されるようになったのは仏教でいう末法期でもあった。だからこそ寺院側は「延年」のテーマによる法楽を積極的に実施したわけで、その意味で延年は仏教的行事であった。延年は修験者たちの修行としても取り入れられ、山伏たちの入峰修行の1つに、延年としての芸能を習得することが課せられていた。
こうして延年は、はじめは貴族社会で起こったものが、鎌倉時代以降、寺院特有の遊宴芸能になっていった。これは、貴族社会の衰退と寺院勢力の発展という歴史的背景にもよるが、もう一つは、貴族社会の場合はめでたい時の臨時の催しで、繰り返すことはないのに対し、寺院社会では法会の芸能であり、法会は決まった時に毎年行なわれるため恒例化し、年中行事になっていったという理由が挙げられる。
室町時代の辞書である『庭訓往来』の中には、「詩歌管絃は遐齢延年之方也」と記されており、能の大成者世阿弥の『風姿花伝』の中にも、「そもそも芸能とは、・・・・・・寿福増長のもとひ、遐齢延年の法なるべし」とのべられている。
②延年の内容
芸能の催しとしての延年の内容についてみると、『東大寺要録』正治元年(一一九九)八月五日の記事に、「その後聴聞衆、両方に分かれ延年之会を始め、児共は歌舞之曲を尽し、大衆は散楽之興を催す」と、稚児による歌舞の曲、大衆(一山の僧)による散楽というように、演者と演目が記されている。
『東大寺雑集録』に、文永年間(一二六四~七五)の延年の記録として、「開口猿楽親尊法師、先達中賢清、定春等答弁これ有り。・・・・両寺狂僧面々出おわんぬ」とあり、開口猿楽、答弁の演目があり、演者としての「狂僧」の語もみられる。狂僧は、遊僧(専門の延年芸能者)のことと思われる。
永享十二年(一四四〇)九月の東大寺八幡宮遷宮における延年会を記載した『延年日記』は、延年についての最大の史料といわれ、
倶舎舞 乱舞 仮屋楽 朗詠 白拍子 開口 答弁 連事
その他の演目が記されている。また、永正十二年(一五一五)の「多武峯延年式目」は、
頌物 倶舎舞 切拍子 乱拍子 音取 楽 朗詠 白拍子 開口 連事 狂物 伽陀 小風流 夫催 男催 児催 花杖 大風流 鉾振 舞立
という多種の演目を記している。
白山中宮長滝寺の修正延年の記録は、二つ残っているが、まず文禄四年(1595)に経聞坊慶倫が著した『白山長滝修正延年之次第』(以下「文禄延年帳」)には、
菓種 脇第三ハチブ タウベン 乱拍子 田ウチ 花笠ねり歌 田あそひヲトリ 倶舎大衆舞 カイコ 立合
が記され、その五十三年後の慶安元年(一六四八)に経聞坊慶祐が著した『修正延年並祭礼次第』(以下「慶安延年帳」)には、
酌取 菓種 たうへん 乱拍子 田歌 花笠 花笠ねり歌 たうへんねり歌 しろすり 田踊 倶舎 大衆舞 かいこ 立合
という十四の演目が記されている。これらの演目のうち、現在の「長滝の延年」では、菓種・かいこ・立合などは行なわれておらず、江戸時代のある時期に絶えたものと思われる。これらの白山中宮長滝寺の文禄・慶安両延年帳の記事については、のちにも取り上げる。
奈良興福寺では、元文四年(一七三九)をもって延年は絶えたが、このときの延年舞式では、
寄楽 振鉾 東先 東弁大衆 西弁大衆 東舞催 仮屋楽 せん儀 披露詞 開口 射払 間駈者 連事 付物 糸綸 遊僧 仮屋楽 風流 相乱拍子 遊僧・火掛 白拍子 当弁 答弁 走 散楽
という演目が記してある。
平泉毛越寺の延年の演目は、永正元年(一五〇四)には、
呼立 田楽 唐拍子 祝詞 老女 若女称宜 児舞 京殿有吉 舞楽 がある。なお、現在の「毛越寺の延年」の演目は、
祝詞 呼立 田楽踊 路舞 若女・称宜 老女 児舞 勅使舞
などである。
延年は鎌倉から室町時代にかけて、中央の大寺院はじめ寺院社会において盛んに行なわれたが室町時代に猿楽の能が発展するころから延年は徐々に衰えていき、いつのまにか中央では消滅してしまった。中央から伝わった地方の寺社における延年も、徐々に廃絶していったが、全く消滅してしまうことはなく、わずか数ヶ所に残った。
延年が今に残るのは、長滝白山神社と、岩手県西磐井郡平泉町の毛越寺・中尊寺、そして栃木県日光市の輪王寺などわずか数ヶ所、そのうち実質的に古い延年の形をまとまって今に伝えているのは、「長滝の延年」と「毛越寺の延年」(共に国重要無形民俗文化財)の二つだけなのである。
二.「長滝の延年」の歴史
「長滝の延年」がいつはじまったかは、それに直接触れる史料がなく明らかではないが、社記に弘安二年(一二七九)に神前で能を奉納したと伝える。また寛治八年(一〇九四)宣旨により飛騨国大野郡焼野を賜るという寺領頂戴の節の酒宴が芸能化されたともいう。酒宴が遅くなり三日月が昇る頃までかかったことに由来するという菓子台の三日月などの盛り付けや酒宴を表す「酌取り」は、この伝承に関わるものといえる。
これらのことから、「長滝の延年」は鎌倉時代には催されていたと考えられるが、さらに室町中期以降、越前の大和五郎大夫の指導により長滝において、毎年一月六日に延年が催されその延年の中及び延年以外の他の機会にも、能の上演が天文年間(一五三二~五五)まで恒例となっていたことが、慶安延年帳の次の記述により判明する。
「六日祭の作方、先越前の大和五郎大夫十二月ニ当地ニ来り極月廿五日寺家衆も稽古して七番の能有、則祭礼は六日の夜也、是も天文の比より能は懈怠也・・・・・・右祭礼の次第失念有りて、毎年吟味六ヶ敷故、天文ヨリ巳来之例ヲ改め委しく爰に書付侍る也」
越前から大和五郎大夫という能役者が例年十二月長滝に来て、同月二十五日から長滝寺の人々もその指導を受け稽古して、六日祭当日の一月六日の夜七番の能を催したのである。ただしこの六日祭における演能の慣例も天文の頃から行なわれなくなったというのである。
天文以前の六日祭の延年において能が行なわれていたということは、長滝白山神社に、応安二年(一三六九)銘の尉面をはじめ、室町時代のものを中心に二十五面の木造古楽面(国重要文化財。そのうち少なくとも二十一面能面)が伝来していることによっても裏付けられる。さらに東京国立博物館所蔵の能衣装上衣は、元白山中宮長滝寺のものであり、その胴裏には、
「修正延年之為上衣奉奇進所也。若ソンシツ仕人者、過銭三百疋可被出者也
永禄九年丙寅正月吉日 施主院主 阿名院上神澄 花押」
という墨書がある。さらに、長滝寺「荘厳講執事帳」永禄九年(一五六六)の項に次の記事がある。
「七月廿三日、夜遠藤大隅守・遠藤六郎左衛門風流被仕、郡内不事万民満足不過之候、然処ニ寺門若輩十二人罷下候、廿一日ニこたらまで罷下廿二日こたらにて能三番、一番嵐山・二番野々宮・三番ぜかい、役者之事経聞坊・大本坊・千仏坊・本覚坊・宝幢坊・中納言・美濃大納言・小弐・松泉坊以上」
永禄九年長滝の僧一行十二人が八幡城下に出かけて能三番を上演いた。演目は、一番「嵐山」二番「野々宮」、三番「ぜかい(是界)」であった。
二年後の永禄十一年(一五六八)にも同帳に次の記事がある。
「永禄十一年八月廿一日、越前ヨリ大和五郎大夫罷越法楽仕候、初日ニ能七番次日同七番仕候、郡内之衆数多御見物ニ候、郡内モ無ニして世上一段クツロキ旁以珍重ニ存候、経聞坊良雄大ツゝミを出候て打候、同笛等覚坊弟子弐位公・太鼓ハ真如坊弟子大納言打候」
この年越前から大和五郎大夫一座がやってきて、長滝において二日にわたり各能七番を催し、郡内からも多数の見物人があったのである。能七番の演目は記されていないが、二日間にわたる七番の能は本格的な大和猿楽の演能であったと思われる。この二つは七月と八月に催された演能会であって、共に六日祭の延年における能でないとはいえ、ここで演能した大和五郎大夫は、前掲慶安延年帳において六日祭の法式を指導した人物であることからも、これらの能は六日祭の延年においても演じられたと思われるのである。
文禄・慶安両延年帳ともに、題名に「修正延年」という言葉を使っていることからも明らかなように、「長滝の延年」は、かつては「修正延年」といい、白山中宮長滝寺の修正会の中で行われた延年であった。修正会は、毎年正月に初めに旧年の悪を正し、新年の天下太平などを祈る法会で、期間は通例年初の七日間で、三日間、五日間の事例もある。
白山中宮長滝寺の修正会は、大晦日から正月六日にかけて七日間行われた。結願の日にあたる一月六日に、若い僧や稚児、山伏たちが、僧侶や神官をねぎらい、また新年にあたって、楽しく平和な世の中がつづき、一山がますます栄えることを祈って催した遊宴歌舞の芸能が、「長滝の延年」であった。
このように「長滝の延年」は、本来修正会という法会の余興であったのが、ある段階からはもはや延々そのものが主体の行事になっていったのである。そして修正会の一部であった「長滝の延年」は、修正会という法会が七日間にわたる往年の形では行われなくなってからも、一山の重要な年中行事、「六日祭」という例祭の形で、継続・伝承されていったのである。
出典 白鳥町教育委員会編『長滝の延年 ―長滝白山神社の六日祭―』(白鳥町・二〇〇四)より白石博男氏執筆分抜粋)
※白石氏より教育目的による資料活用の許諾をいただいています。
2.20070523-延年の歴史(資料)1
資料集
058_061_延年の舞