飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡
飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡
国指定重要文化財(建造物)国分寺本堂
単層入母屋造、銅板葺
四方廻縁
桁行12.4メートル
梁間8.66メートル
向拝3.33メートル
奈良時代当時、七重搭、金堂、仁王門などを備えた壮大な伽藍があったと伝わる。『類聚国史』に「弘仁十年(819)八月飛騨国国分寺災」とあるが、その後、近世まで記録がない。昭和29年(1954)、本堂の解体修理時に、建築様式と手法は室町時代中期以前、正面向拝と東側は桃山時代の修理であることがわかった。向拝等は金森氏が国分寺の再興を助けた際の大修理と考えられる。地下45センチメートルには、南北4間、東西7間の金堂と推定される建物の礎石が確認された。
建物の柱、垂木、構造材は太い。外陣の虹梁は絵様がなく、板蟇股の断面も逆バチ型で室町期の様式を示す。
昭和42年4月5日指定
高山市教育委員会
説明板より
国分寺八日市
岐阜県指定重要文化財(建造物)三重塔
屋根銅平板葺
桁行、梁間共4.24メートル
高さ22メートル
(礎石上端より宝珠上端まで)
天平13年(741)の詔勅により建立された塔も、弘仁10年(819)に炎上し、斎衡年中(854~857)に再建した。さらに応永年間(1394~1428)には兵火にかかったと伝えられる。その後再建されたが、戦国時代の金森氏が松倉城の三木氏を攻めた際に損傷し、元和元年(1615)、金森可重が三重塔を再建したと三福寺小池家文書「国分寺大平釘図」に記録されている。
現在の塔は、寛政3年(1791)の大風で吹き倒されてから31年後、庶民の喜捨浄財金800両と大工手間5,500人工をかけて、文政4年(1821)ようやく竣工を見たものである。棟梁は3代目水間相模であった。
昭和53年(1978)には、屋根の修理と自動火災報知設備、保護柵の設置を行なった。屋根は、建立当初柿葺であったが、大正11年(1922)に桟瓦銅板葺に変更され、昭和53年(1978)には銅平板葺となった。
飛騨では唯一の塔建築で、金剛界、胎蔵界の大日如来(真言密教の教主)を安置する。
昭和49年11月13日指定
高山市教育委員会
説明板より