飛騨一宮水無神社例祭
飛騨一宮水無神社
飛騨一宮水無神社の「水無」は、「みなし」「みずなし」などとも読み、水主(みずぬし)[ 川の水源をつかさどる神]の意味です。また社前を流れる宮川は、飛騨一宮水無神社の社前で約1,500メートルばかり砂礫の下を伏流しています。
神社の南西に位置するご神体山・位山は、古代から川の水源(水主)の神のいる霊山(れいざん)と仰(あお)がれていました。
創立年代は詳しくはわかりませんが、律令時代には、数回の神階の昇叙(しょうじょ)があり、陽成天皇の時代(881年)には従四位上に叙せられました。また、平安時代につくられた「延喜式」という文書には、その頃すでに飛騨一宮水無神社が飛騨で最も権威のある神社である事がしるされています。
※砂礫(されき):砂と小石。
※律令時代(りつりょうじだい):奈良時代〜平安時代にかけて、律令という法律にもとづいて政治が行われた時代。
※神階(しんかい):日本において、神道という自然や自然現象に多数の神様の存在を見いだす宗教があります。その宗教で、神に授けられた位階です。神階昇叙とは、神階を与えることです。
※従四位上(じゅよんいのじょう):15の神階の内、上から9番目の位。
※延喜式(えんぎしき):律令をおぎなうために国が定めた文書。同じような文書が三つあり ますが、ほぼ完全な形で残っているのはこの延喜式だけであり、かつ細かな 事まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっています。
飛騨一宮水無神社の祭神は、御歳大神(みとしおおかみ)・天火明命(あめのほあかり)・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称しています。
また、飛騨水無神社は、位山を神体としています。
※柱:神様を数えるときに使う言葉
飛騨一之宮水無神社例祭
例祭は古くより旧暦8月15日に行われていましたが、明治以後は9月25日に行われ、最近では稲の収穫時が早くなったことや気象関係もあって、昭和36年式年大祭以後5月2日に改められました。
5月1日は試楽祭(しがくさい)で早朝から氏子各組の新旧組長等が社殿の前に集って、幟(のぼり)立てや神酒(みき)[濁酒]開き等に奉仕し、氏子総代は神輿(みこし)その他の祭りに使う道具の準備に忙しくなります。午後3時より中祭式により関係のある神社の祭礼が行われます。
2日は神社本庁の献幣(けんぺい)があり厳(おごそ)かな本楽祭が行われ、続いて神輿発幸祭の後獅子舞・闘鶏楽(とうけいらく)、神代踊(じんだいおどり)、警固(けいご)の各組が神輿に奉納します。総勢400余名、延々1Kmに及ぶ渡御(とぎょ)行列は、水無磧をわたって神楽岡(御旅所)へ向かいます。
昭和9年駅前に一宮橋ができてからは、御神幸は神橋から参道を経てこの橋を渡るようになりました。
神輿が御旅所へ到着されると御旅所祭りが行われ、獅子舞、闘鶏楽、神代踊が奉納され、行列の参加者と一般参拝者に神酒(濁酒)がふるまわれます。
やがて、神輿は帰る準備をして、本殿に戻ってくると還幸祭が行われます。その時境内では舞踏楽が奏でられます。
祭りのしきたりは細かく、氏子の男子が代々受け継ぎ、堅く守られてきました。現在は、飛騨一宮水無神社特殊神事として岐阜県指定無形文化財 となっています。
※旧暦(きゅうれき):日本で昔使われていた暦(こよみ)。今の暦とと少し違っています。
※献幣(けんぺい):神社本庁から「幣帛料」(へいはくりょう)という名前で金銭が贈られています。
※御神幸(ごしんこう・ごじんこう):神様が移動されることを丁寧に言う言葉。