宗祇水
昔より、こんこんと湧き出る泉があり、夏は冷たく、冬は温かいところから、周辺住民の「生活の水」として使用されていました。清らかな水が湧き出ることから清水(しみず)と呼ぶこともありました。宗祇水の名の由来は、連歌の宗匠として知られた飯尾宗祇が文明年間この泉のほとりに草庵を結んで、この清水を愛用したところから名付けられたものです。以来宗祇水は史跡として、また住民の生活の水として守られてきており、市史跡文化財、県の史跡文化財の指定も受け、毎年8月20日には、縁日(宗祇水神祭)と定め、狂俳、連句の奉納のほか文芸祭などの文化活動が盛んです。昭和60年宗祇水は、全国名水百選の一番手として環境庁の指定を受け、名実ともに、「水の生まれる町」郡上八幡の名勝となりました。
(引用:https://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/kankyo/shizenhogo/c11265/s-water1.html)
資料集
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山内一豊と妻の像
山内一豊の妻「千代」は、弘治2年(1556)、初代郡上八幡城主遠藤盛数の娘として生まれました。千代が3歳のころ、盛数は病死、母の再婚、義父の敗北、流浪。波乱の時がはじまります。やがて千代は、縁あって尾張の一豊に嫁ぎました。一豊は信長、秀吉、家康に仕え、最後には土佐24万石の大名に出世しました。その影には、千代の内助の功があったといわれています。信長の「馬ぞろえ」や関ヶ原前夜の「傘の緒の密書」の逸話は有名です。
賢夫人として名高い山内一豊の妻千代については近江国坂田郡、若宮喜助の娘という説が定説とされています。しかし、郡上では古くから初代八幡城主・遠藤盛数の娘と伝えられていました。郡上には東家系図・遠藤家 系図などゆかりの寺院・家に伝わりその中には明らかに遠藤盛数の娘・慶隆の妹が山内対馬守(一豊)室(奥様のこと)と記されていました。
千代の母・友順尼は東家十三代常慶の娘であり、夫・盛数死去の後、関城主永井隼人氏と再婚、不幸にも信長により関落城の後、近江を流浪したのです。友順尼は、生家より伝えられていた東常縁直筆の古今和歌集を守り持ち続けていました。娘・千代が一豊と結婚した頃、友順尼は乗性寺(現美並町)で余生を送りました。一方、千代の兄・遠藤慶隆や一豊たちは小牧・長久手の戦いに参加し、秀吉の越中攻めと同じ陣営で生死を共にしています。最近陣立表の現物が発見され、慶隆と一豊の親戚関係が証拠立てられたのです。さらに、一豊の妻とされていた近江の若宮マツは、一豊の家臣である五藤為重に嫁いでいたことが古文書や五藤家の墓によって明らかにされました。千代は京都において元和三年(1617)、死去しましたが、友順尼により千代に渡った篠脇城主東常縁直筆の古今和歌集などが遺品として山内家へ渡されたのです。その後、古今和歌集は、徳川幕府へ献上されたことが山内家家史にも徳川幕府の記録にもはっきり記されています。以上のような調査史料から、千代が古今伝授の東家の血筋を引く女性であったということをより鮮明にしています。
(引用:http://castle.gujohachiman.com/history/chiyo)
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042_045_山内一豊と妻の像
郡上八幡博覧館
郡上八幡博覧館(ぐじょうはちまんはくらんかん)は、岐阜県郡上市八幡町にある博物館。
郡上八幡の様々な資料、伝統工芸などを展示紹介する施設であり、「博覧館」は「博物館」と「博覧会」を合わせた合成語である。
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岸劔神社
祭神は素戔嗚尊・伊奘册尊・伊奘諾尊・菊理姫尊などである。気良村(奥明方村)字鳥居宮で、ある年連日の旱魃に神主が再三雨乞いをしたが霊験はなく、ついにこの村の氏神の御神体の宝劔を取り出して2間手村(奥明方村)の境の川岸で劔を洗ったところ、急に雲がわき起こり雨が激しく降りだした。その劔を岩上に置きなお祈祷を続けていると川水が急に増し劔を押し流してしまった。(以後この岩を神流岩という)数日後山田荘八幡城下の吉田川の岸(現在の宮ケ瀬橋の下)の岩間に劔のかかっているのを清水彦右衛門がみつけ自分の家に持ち帰った(現在この岩をかかり岩という)。郡上城主遠藤慶隆はそのことを聞き、慶長19年(1614)城下本町の宮ケ瀬橋の近くに社殿を建立し、この劔を祭り岸劔神社と名付け清水彦右衛門を神職とした。明治19年に現在の社殿の南側の低地に移転し、同40年2月無格社白山神社と合併し、3月27日神饌幣帛供進神社に、同41年12月26日には神社会計規定適用神社に指定され、昭和17年に現在の境内に移った。境内は97坪あり、神明造りの本殿(間口3間・奥行2間)・入母屋造りの幣殿(間口3間・奥行2間)・同拝殿(間口5間・奥行5間)・狛犬・燈篭などがあり、また文政4年に建立した大燈篭(高さ約2間)がある。
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安養寺
安養寺(あんにょうじ)は、岐阜県郡上市八幡町柳町にある浄土真宗大谷派の寺院。山号は遠郷山。郡上御坊とも呼ばれ、郡上一帯における真宗大谷派の中心的な寺院である。間口、奥行き共に16間(約29メートル)の本堂は岐阜県下で最大といわれる。
佐々木高綱の三男・高重が出家し西信を名乗って近江国蒲生郡に「安要寺」として創建する。その後安要寺6世仲淳の時に美濃国安八郡に移転し、蓮如より「安養寺」と名を改められる。その後越前国穴馬(現・福井県大野市)、美濃国大島村野里(現・郡上市白鳥町)へ移った。戦国時代には朝倉氏の郡上侵攻に参戦してこれを撃退したほか、10世乗了の時には石山合戦に参加しており、その際に足利氏・武田氏・朝倉氏や本願寺と交わした文書が現代に伝わり、岐阜県指定有形文化財として指定されている。また、この頃に一時的に白川(現・岐阜県白川村)に寺を移しているが、当時の郡上領主である遠藤慶隆が安養寺の要請で一時的に武田方に寝返ったものの、後に織田方に帰参した事情と関連しているとする見方もある[1]。
1588年(天正16年)、稲葉貞通が郡上領主になったとき八幡中坪村園野へ移る。1661年(寛文6年)に院家、1838年(天保8年)に御坊分となった。
明治時代、本堂が焼失したのを機として1881年(明治14年)に八幡城三の丸跡地(現住所)に移転、1890年(明治23年)に本堂を再建した。その後、1919年(大正8年)の郡上大火で焼亡するも、1936年(昭和11年)に再建され現在に至っている。
岐阜県指定文化財として絹本著色阿弥陀如来像、絹本著色親鸞聖人御影、絹本著色十五尊像、紙本墨書蓮如上人名号、石山合戦関係文書及び安養寺文書、紙本墨書本願相応集、紙本墨書後世物語及び香炉台を有し、岐阜県指定重要有形民俗文化財として金森内室化粧道具を所蔵している。その他郡上市指定重要文化財を複数点有し、安養寺宝物殿で公開している。
かつては郡上八幡大寄席という落語会が開かれていたほか、現在では郡上八幡上方落語の会や郡上踊りむかし踊りの夕べなど各種催し物が開かれている。(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%A4%8A%E5%AF%BA_(%E9%83%A1%E4%B8%8A%E5%B8%82)
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039_042_安養寺
勝山城博物館
勝山城博物館は、勝山市の名誉市民第一号に選ばれた多田清さん(明治38年1905~平成3年1991)が平成元年から3年の歳月をかけて建設し、平成4年7月に開館いたしました。同時に財団法人多田清文化教育記念財団が設立され運営にあたってまいりました。財団は平成25年度よりさらに公益性の高い公益財団法人として認められ、現在にいたっています。
江戸時代、小笠原氏が治めた勝山藩には天守はありませんでした。早い段階で建設計画はあり、幕府の認可も降りていましたが、財政が苦しく実現しないまま明治を迎えました。昭和も後半に入ると勝山藩や勝山城の遺構は次々と失われていきました。多田さんは勝山にかつて一つの藩が確かに存在したということを、博物館建設という形で実現し、現在の勝山市の新たな顔の一つとしてこの博物館を築きました。
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038_041_勝山城博物館
首里城
首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものである。
首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられている。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在する。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であった。他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまったが、首里城はグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたのである。
首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあったのである。
1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。1930年代には大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいる。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録された。
(引用:http://oki-park.jp/shurijo/about/)
焼失後