史跡白山平泉寺旧境内と平泉寺墓地
古代末から中世の白山・平泉寺
山岳寺院として出発した平泉寺は、比叡山延暦寺末となることで越前国内での地位を不動のものとし、中央にも知られるようになった。在地有力武士団である斉藤氏、さらには中央の二大勢力である平氏や源氏、といった新興武士勢力とも状況に応じて関係を結んだ。一方で、牛ケ原荘など大野方面に進出しその勢力を広げていった。
1368年に室町幕府が成立すると5代将軍義教から平泉寺造営費用として、7ケ国棟別銭を充てる権限を得るなど、中央政界とのパイプは健在だった。越前国内での地位はより強固なものとなり、九頭龍川河口域にまで進出し金融活動を活発に行う。寺領に加えこうした得た経済収益などにより、寺領9万石(貫)とまで言われるようになった。
1467年から11年間にわたる応仁文明の大乱を経て、越前国内で急成長してきた朝倉氏とも手を結んだ。こうして「白山平泉寺境内絵図」に見られるような、平泉寺はまさに中世宗教都市として全盛期を迎えたのである。しかし天正2年(1574)、七山家を中心とする一向一揆に攻められ平泉寺は灰燼に帰してしまった。
平泉寺は全国66の霊場の一つに数えられ、大永2年(1522)に回国聖が奉納した経筒が、禅定道の一ルートであった経ケ岳で発見されている。
天正の焼亡から近世の白山・平泉寺
天正11年(1583)顕海が美濃から帰還し、平泉寺再興に向けての取組みが始まり、同年豊臣秀吉から禁制も与えられた。白山天嶺及び平泉寺の諸社の社殿・本尊も、諸領主の寄進により順次再興再鋳されていった。慶長6年(1601)福井藩から寄進された200石の寺領は、寛永元年(1624)改めて幕府から朱印地として与えられた。その後、福井藩・勝山藩から寄進された分と合わせると330石の寺領を所有することになった。平泉寺玄成院は「国家安穏」「五穀豊穣」の祈祷を行うことでこれに応えた。幕藩権力は平泉寺を通じて白山神の加護を期待していたことがうかがえる。こうしたこともあり平泉寺は寛永寺末となる。
白山麓村々をめぐる加賀・越前の争い、天嶺における平泉寺と山麓村々との度々の争いは、おおむね平泉寺の言い分が認められた。諸社殿・本尊は破損・焼失を繰り返したが、主に平泉寺の主導のもとに再建・再鋳された。
平泉寺の主な宗教活動は中世近世を通じてほとんど記録が残らず不明な点が多い。しかし数少ない史料から護摩供養、毎月17日の開山堂での逮夜法楽などを行っていたことがわかる。白山の雪が消える6月になると役人が市の瀬に詰め、院主も登頂し祈祷を行った。福井に出向いてのものも含めてお開帳行事、諸国勧進も宗教活動の一環としてあげられる。
平泉寺は参拝客も少なったと思われるが、お開帳は大勢の参拝客でにぎわった。白山天嶺・平泉寺参詣の嚆矢となったのは慶長10年の福井藩主松平秀康である。これ以降福井・勝山の藩主はしばしば平泉寺に参拝する様になる。また中世の修行者に代わり一般庶民が湯治を兼ね白山に登り、行き帰りに平泉寺を訪れるようになった。
平泉寺墓地
平泉寺の坊院に居住していた僧侶たちを供養した室町末期の石仏・五輪塔・宝篋印塔が約550点残されている。その他、元正天皇や顕海にかかわる石碑も立つ。墓地は市の指定文化財となっている。
元正天皇御歯髪塔
塔は平泉寺町の字向三昧に昭和15年(1940)に修補された。
碑には次のように刻まれている。
(側面)皇紀二千六百年七月二十日奉修之
(側面)元正天皇勅願所 霊應山平泉寺
呉石 西脇 静 謹書
地元住民は古来よりこの地を「御歯髪さん」と称し、高貴な方のお墓があった場所として畏れて近寄らず保存されてきた。竹内鉄也氏らは平泉寺を開基した泰澄大師と密接な関係がある元正天皇の御歯髪と考えた。こうして当地に御歯髪塔が建てられることになった。
元正天皇御歯髪塔奉修記念碑と顕海墓
碑がこの場所に建てられた所以は、向三昧の東端の約百坪の地が古来「オハガミ」「オハミサン」と称し、高貴な方のお墓があった場所として畏敬されてきたことによる。昭和15年(1940)、歯髪塔の近くに「元正天皇御歯髪塔奉修記念碑」も建てられた。裏面の会員氏名は判読できないが、表には以下のような趣旨が記されている。 本年は昭和12年の日中戦争開始から4年が経過し、皇紀二千六百年を迎えさらに平泉寺中興の祖顕海上人三百五十回忌の年にもあたる。そこで有志が相図って奉賛会を結成しこのような事業を実施することになった。
元正天皇にかかわる碑はもう一つ建てられている。「元正天皇御歯髪塚」で、その由来についてはよくわからない。裏面に昭和58年10月吉日 平泉寺区と記されている。この碑の背後には「御経台」の碑も建つが元正天皇に関係するものかどうかはわからない。
少し離れた場所には賢聖(玄成)院の再興にかかわった顕海・専海・日海三人の墓が建てられている。天正2年(1574)、平泉寺は一向一揆に攻撃され焼亡するが、顕海は弟子の専海・日海とともに逃れ、美濃国(岐阜県)桔梗原に移り住んだ。そして顕海ら三人は10年ぶりで焼け跡に戻り平泉寺を再興する。中央の顕海墓には「當山再興僧正顕海法印」とあり、裏面には「天正十七己丑二月廿七日」とある。昭和15年はこの年からちょうど350年目にあたった。
境内
かつての境内には48社36堂が建ち並び南谷・北谷には6000人の僧が住んでいたとされる。その繁栄の様子は「白山平泉寺境内図」からもうかがえる。現在は本殿・越南知社・別山社の三社を中心に三ノ宮社・剣ノ宮など往時に比べればその数は少ない。
堂舎は少なくなったが開祖泰澄大師を祀る泰澄大師廟、女神が降り立ったとされる御手洗池、南朝の忠臣楠木正成の墓、中世の石畳道が発掘された南谷など見学スポットは多い。何より観光客が目を奪われるのは境内を覆うコケである。コケを目当てに訪れる観光客も多い。拝殿の慶長から寛永期(1596~1644)に福井藩主や勝山藩主が寄進した絵馬は市の指定文化財となっている。同じく宝物館には絵図類始め中世の宝物が所蔵されているがこれらは公開される機会は少ない。
菩提林
下馬大橋を渡り約900メートルの間は菩提林と名づけられ、林の中央を2本道が並列して走る。右側は石畳道ではっきりした年代はわからないが、平泉寺が殷賑を極めた頃に衆徒が九頭龍川から手送りで造ったと伝える。石裏には法華経の文字を記し埋めたとも伝える。この道は当寺の学頭(別当)や賓客のみ通行が許され、一般人は一段下の道を通行した。
旧参道は日本の道百選に選ばれている。大正15年(1926)の河上御前のお開帳にあわせ、野辺自動車は勝山駅からの多くの参拝人を運ぶためバスを走らせた。その際にこの道も改修された。
17世紀初期に成立した「慶長国絵図」は中世の景観を描いているとされる。そこには平泉寺が描かれ天正の兵火から徐々に立ち直りつつある建物群が描かれている。17世紀後半の「貞享国絵図」には多くの建物群が描かれ、大門入口から奥の院に向かいかなり広い道が続いている。そこには「菩提林」と記され杉の大木がその両側に見られる。
奥院からは白山に向かい禅定道も描かれている。菩提という言葉は煩悩を断ち切り悟りを得るという意味なので、鬱蒼と茂った林を歩きながら徐々に煩悩を断ち切り、神聖な白山に向かう道として名づけられたのであろう。その歴史の古さをうかがわせる。この禅定道は歴史の道百選に選ばれている。
慶長8年には本多富正が「菩提林禁制」を出し伐採等を禁じ、翌年には福井藩から賢聖院に宛て「平泉寺菩提林御寄進状」が出されている。
昔の写真
関連資料