嘉念坊善俊、雪の白川村
<鳩谷の嘉念坊善俊上人(白川村)>
・嘉念坊善俊は奥深い山地に浄土真宗の教えを布教しようと、宝治年間(1247~49)、鳩谷の地に入った。
善俊は鳩谷に嘉念坊道場を建てて布教したが、弘安5年(1282)3月3日に白川村鳩ケ谷の地で亡くなった。毎年4月3、4日の2日間、御忌法要が鳩谷法蓮寺で行なわれている。
<嘉念坊上人の御火葬・旧墓地遺跡>
善俊上人は、この場所で火葬にされ、埋葬されたと伝えられる。その後、永正元年(1504)第10世明心の時代に至って、荘川町の旧中野村に照蓮寺を再興した際に、ここにあった善俊上人の御墓も移された。
老杉の根元に埋もれ周囲をめぐらしている、わずかばかりの石積みの遺構に往時の霊地をしのぶことができる。白川村史跡指定年月日昭和53年6月15日
<嘉念坊善俊上人の道場遺跡>
諸国行化の後に飛騨白川郷に入り正嘉2年(1258)44歳の頃にこの地に道場を創建。終生この道場を本拠として広く御化導につとめ、飛騨における真宗教団発展の端緒を開いた。遊場号を嘉念坊と称した。
この道場は、第三世善教の時代に飯島に移って正蓮寺と称するようになった。当時の道場の規模は礎石の現況から推測するに、ほぼ11m(約6間)四方程であり祖師親鸞上人の御意志に従い簡素なものであった。白川村史跡指定年月日昭和53年6月15日
※1嘉念坊善俊→後鳥羽天皇(1180~1239)の第12皇子、「道伊」といい承久の乱で父は隠岐(島根の沖合い50㎞)流罪。皇子らは連座して配流、出家をした。善俊は園城寺に出家した。
※2寛喜3年(1231)、善俊(18歳)は箱根で親鸞に出会い、弟子となった。
※3その後大津の園城寺(三井寺)を出て白鳥へ、その後、白川村へ。
<豪雪の白川村>
白川村の合掌造り建物の雪下ろしは大変で、特に棟の雪を降ろさないと棟が傾いて破損するので早めに降ろす必要がある。高所のため、業者に委託することが多くなった、降ろした雪はすぐ下の池に落ち、消雪される。
資料
④史跡-6 嘉念坊善俊、雪の白川村