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大龍寺
「だるま観音」として知られるお寺で、境内には約5メートルもある達磨大師坐像が安置され、毎年1月中旬に念願かなって両目を入れ奉納されただるまを供養する「だるま供養」が行なわれます。
このほか、戦国時代、斎藤道三公や織田信長公、豊臣秀吉に仕え美濃三人衆の筆頭に挙げられた「稲葉一鉄」ゆかりの寺で多くの遺品が残されています。
大龍寺(だいりゅうじ)は、岐阜県岐阜市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は金粟山(きんぞくさん)。
※本来は、こんぞくさん だいりょうじ と読む
通称「だるま観音」。岐阜市の北端にあり山県市高富と隣接することから「高富大龍寺」とも呼ばれる。
本尊は腹帯子安観世音菩薩、達磨大師。子授け、安産、虫封じにご利益があるという。
美濃三十三観音霊場第十一番札所。美濃七福神(福禄寿)。土岐氏、稲葉一鉄ゆかりの寺である。
沿革
飛鳥時代の持統天皇の時代、国家鎮守の寺として創建されたと伝えられている。平安時代に真言宗に改宗する。安元元年(1175年)、後白河法皇が腹帯子安観世音菩薩を安置。本尊とする。
明応年間(1492年 – 1501年)、土岐氏の強い要望により、瑞翁和尚が招かれる。文亀2年(1502年)、大龍寺は臨済宗に改宗し、達磨大師を安置する。
永禄年間(1558年 – 1570年)、別伝の乱(美濃国で起きた禅宗の宗派の争い)の折、大龍寺の五世龍谷は斎藤義龍に加担し、快川和尚をはじめとする多くの禅家と争うが敗北し、本山妙心寺から除籍される。その為一時廃れたが、天正年間(1573年 – 1592年)、再興される。
平成8年(1996年)5月5日、高さ5mの達磨大師坐像が安置される。
龍峰寺
龍峰寺(りゅうぶじ、龍峯寺)は岐阜県岐阜市奥にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は廣徳山。北方城主安藤守就の菩提寺である。
戦国時代に北方城主の安藤守就が、弟の湖淑を開山として一族の菩提寺として北方に建立した。正確な創建年は不明で、湖淑の法系も伝わっていない。その後、天正10年(1582年)に北方城が稲葉良通により攻められた際に城と共に兵火により焼亡した。湖淑は本巣郡の奥村まで逃れ、安藤守就の菩提を弔い寺院を再興した。湖淑和尚の没後は住持を欠くが、明暦年間に越前国報恩寺の別川和尚が住持となる。その法嗣、蜜外和尚は人里離れた山上から麓に寺を移した。天和3年(1683年)に乙津寺の鉄錐和尚を住持に招いたのちその法が受け継がれた。寺宝として湖淑和尚の肖像を所蔵し、安藤守就の墓が本堂裏手の山に建っている。
後背山栄昌院
栄昌院は、織田信長の妹であるお市の方と浅井長政との間に生まれた三姉妹のうち、次女の常高院(初)の菩提寺です。
初は、近江の名門で若狭国(福井県)小浜城主となった京極高次に嫁ぎました。寛永十年(1633年)に江戸で亡くなり、法名を常高寺殿松厳栄昌大姉といいます。常高院の没後、その側近く仕えた侍女七人が小浜にそれぞれ寺庵を結び、全体を栄昌院と号して、常高院の菩提をとむらいつづけました。
明治維新をむかえたとき、尼僧たちは小浜から京極家の領地であった丸亀(香川県)に移りましたが、明治初期に京極家が祭祀を仏式から神式に改めたため、常高院の位牌とともに尼僧が美濃国方県郡佐野村(岐阜市)へ来住し、栄昌院を復興したのです。
境内には常高院の供養塔とともに、寺を守ってきた歴代の尼僧たちの供養塔が建っています。
また、ドラマでも有名となった、三姉妹の三女の江から初にあてた手紙が見つかったことから栄昌院は一躍脚光を浴びました。
南禅寺
京都市左京区南禅寺福地町にある臨済(りんざい)宗南禅寺派の大本山。正式には瑞竜(ずいりょう)山大平興国(たいへいこうこく)南禅禅寺といい、京都五山の首位にたつ禅寺である。1291年(正応4)亀山(かめやま)上皇が離宮を改めて建てた寺で、初め竜安山禅林禅寺と称していたが、南禅寺とするにあたって東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)の法を継いだ無関普門(むかんふもん)(仏心(ぶっしん)禅師、大明(たいみん)国師)を招いて開山とした。門下の規庵祖円(きあんそえん)が第2世となってこの寺の基礎を築いた。1299年(正安1)亀山上皇の勅命で諸山の禅僧のうちでとくに優れた者を住持させることになってからは、第3世一山一寧(いっさんいちねい)、第5世約翁徳倹(やくおうとくけん)、第9世夢窓疎石(むそうそせき)、第15世虎関師錬(こかんしれん)、第39世春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、第44世義堂周信(ぎどうしゅうしん)などの名僧が入山した。南禅寺の社会的な地位はきわめて高く、1335年(建武2)に京都五山の第一とされ、1383年(弘和3・永徳3)に足利義満(あしかがよしみつ)が京都鎌倉五山十刹(じっさつ)の制度をつくった際には、天下第一位として五山の上に置かれた。歴代の朝廷や足利、豊臣(とよとみ)、徳川諸家の保護を受け、江戸時代には第270世以心崇伝(いしんすうでん)が幕府の信任を受けて寺社関係の政策をつかさどり、1615年(元和1)寺社奉行(ぶぎょう)の前身である僧録司(そうろくし)となった。
諸堂伽藍(がらん)は1467年(応仁1)までに数度の火災で焼失し、山門(三門)、法堂(はっとう)、方丈、勅使門など現存の建物は安土(あづち)桃山時代以後の建造物である。山門(国重要文化財)は1628年(寛永5)大坂夏の陣に倒れた将士の菩提(ぼだい)を弔うため藤堂高虎(とうどうたかとら)によって再建されたもので、天下竜門といい、上層の楼を五鳳楼(ごほうろう)とよぶ。また歌舞伎(かぶき)の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の石川五右衛門(ごえもん)の伝説で有名。方丈(国宝)は大方丈と小方丈に分かれている。大方丈は1611年(慶長16)後陽成(ごようぜい)天皇より下賜された旧清涼殿(一説には正親町(おおぎまち)院御所対面所)を移建したもので、各室には狩野元信(かのうもとのぶ)・永徳(えいとく)筆と伝える豪華な桃山式の襖絵(ふすまえ)がある。小方丈は旧伏見(ふしみ)城の遺構で、狩野探幽(たんゆう)筆と伝える襖絵『水呑(みずのみ)の虎(とら)の図』は名高い。大方丈南面の庭園は慶長(けいちょう)年間(1596~1615)小堀遠州作と伝える禅院式枯山水(かれさんすい)庭園で、巨石の姿から俗に「虎の子渡しの庭」とよばれる。北側には宗〓(そうへん)流の茶室不識庵(ふしきあん)があり、露地を囲む竹垣は南禅寺垣といわれる。寺宝には、亀山天皇宸翰(しんかん)禅林寺御起願文案(国宝)をはじめ、開山の『頂相(ちんぞう)大明国師像』、『釈迦(しゃか)十六善神画像』、『薬山李〓(やくさんりこう)問答図』、『江山漁舟図』(蒋三松筆)、『達磨(だるま)像』(祥啓筆)などの絵画、彫刻では木造聖観音(しょうかんのん)立像、工芸では鎌倉彫牡丹模様香盒(ぼたんもようこうごう)(以上、重文)などがある。
塔頭(たっちゅう)は現在、金地(こんち)院、天授(てんじゅ)庵、帰雲(きうん)院、光雲(こううん)寺、聴松(ちょうしょう)院、真乗(しんじょう)院、高徳(こうとく)庵、法皇(ほうこう)寺、慈氏(じし)院、正因(しょういん)庵、正的(しょうてき)院、南陽(なんよう)院の12院がある。金地院には『渓陰小築(けいいんしょうちく)図』『秋景冬景山水図』二幅(ともに国宝)などや、小堀遠州が崇伝の依頼を受けて設計した茶室八窓(はっそう)席(重文)がある。また、別院南禅院は離宮禅林寺殿の「上の宮」遺跡で、南禅寺発祥の地といわれている。
伊那部宿
伊那部宿(いなべじゅく)は、三州街道(伊那街道)の宿場町。現在の長野県伊那市西町に相当する。
街道は天竜川右岸段丘の東端を通っており、宿場の南端からは春日城跡に続く道が分かれ、宿場の北方にある「坂下の辻」から天竜川を渡って高遠城下や杖突峠につながる杖突街道(現在の国道152号)も分岐していた。江戸時代中期には権兵衛街道(現在の国道361号)が開削され、中馬の道として木曽谷への米の輸送で賑わい、当地から「伊那節」が生まれたとされる。
宿場は南北に約3町で、両端に桝形が配置され、中央に長桂寺がある。往時は宿場の中を門川が流れ、両脇に並木があった。問屋場は南寄りの東側にあり、名主役4軒が交代で本陣を兼ねた問屋役を勤め、公用人馬の継立てをしていたが、のちに井沢家が単独で本陣を勤めるようになった。文化5年(1808年)には家数が42軒、のち旅籠は20軒を占め、その他に医者や様々な商家があった。
町並みは天保年間に2度の火災に罹災したが、現在も江戸時代からの看板を掲げた家が残っている。本陣井沢家住宅は平成11年(1999年)に伊那市の有形文化財に指定された。