棲霞山 歓喜寺
棲霞山 歓喜寺
歓喜寺は明暦2年(1656)の草創で、開基治部郷明了師は照蓮寺(高山別院)第13世宣明師の第2男である。
照蓮寺開基嘉念坊善俊上人は、人皇第82代後鳥羽上皇の第12皇子で、建保2年(1214)に御誕生あらせられた。然し時の鎌倉幕府の執権北條義時は、承久の乱により、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐に、順徳上皇を佐渡に移し、その他の皇子等も悉く離散され、仏門に入って難を逃れられた。
第12皇子も承久3年御年8歳で園城寺に逃れ、僧となり道伊と名乗られた。その後、伊豆の三島に住居されていたが、寛喜3年(1231)8月箱根で宗祖親鸞聖人に遇われてその弟子となり、名も嘉念坊善俊と改められた。嘉禎年中、聖人の御寿像、真筆名号を供奉して諸国僻境の巡化に出られ、美濃路より郡上白鳥に入られ暫らくここに住居された。宝治年中、飛騨国白川郷鳩谷村に移られ、念仏の教を説かれていたが、法縁熟して多くの念仏行者が集り、その懇望によって1宇を建立された。これが照蓮寺(高山別院)の濫觴である。
その後、子孫相続して法燈を伝え、第10世明心師の時、荘川村中野(御母衣ダムに水没)に移り、第13世宣明師の時、金森長近公の飛騨入国となり、その要請で天正16年(1588)高山に移転された。現在の高山別院である。
明了師は元和5年(1619)宣明師の第2男として生まれ、幼名を小輔、または治部郷ともいう。寛永11年東本願寺宣如上人の得度を受け、明了と改名された。父宣明師の幼名である。
それより先寛永9年、父宣明師は寺務を長子宣了師(照蓮寺第14世)に譲り、明了師を伴い門西に隠居された。寛永18年9月10日遷化、年77歳。
異母兄弟ではある兄宣了師と明了師との仲はあまりよくはなかったようであるが、殊に宣了の嗣宣心(宣了には男子がなく、1人娘の「おなけ」に娶すため金森重頼公の第3男、式部郷従純をもらいうけていたが、「おなけ」は寛永8年早逝したので、東本願寺宣如上人に懇請して、その第3女佐奈姫をもらいうけて内室とし第15世を継ぐ。この時照蓮寺の血脈絶える)とは心が合わず、その圧迫に耐えかねて、姉の婚家、越中八尾の聞名寺に逃れ、その後、諸国行脚に出られていたが、国守金森頼直公のはからいで、大八賀郷三福寺村字井ノ上(現在地)に
一、境内地
一、持仏堂
一、米 6石 但毎年
一、薪 3間 同
の寄進を受け、父宣明師より譲られた嘉念坊伝来の法宝物を供奉して、明暦2年(1656)3月にこの地に移られた。これが歓喜寺の開基である。然し宣心師の迫害は益々激しく、頼直公よりの寄進の扶持米薪は断たれ、その日その日の生活にも事欠く有様となり、遂に止むなく、姉のもと聞名寺を頼り、延宝2年(1674)西本願寺に転派した。
明了師の一生は誠に不遇であった。妻には寛文6年に、母にはその翌年に死別し、4人の子女を抱えて世情にすがっての生活も、西派に転じたことによる宣心の怒りをかい、宣心は国中門徒の末々まで酷しく明了師への一宿一飯の布施も禁止してしまった。然しやがてこの不遇の一生も終わり、元禄8年(1695)12月12日遷化された。年77歳であった。
明了師の長男教心は書をよくし、早くから照蓮寺に入って寺務に専念して第16世琢晴を援けた。本山より興隆寺の寺号を下附されている。
次男善明が第2世を継ぐ。元禄14年9月20日寂如上人より木仏、寺号を免許される(願主明了死後6年)。享保12年(1727)本堂を造営する。棟梁は松田太右ェ門以治である(現在のもの)。同年9月9日入仏法要を執行された。享保19年親鸞聖人真影下附される。元文3年12月5日遷化、年78歳。
善明の長男浄明は古川正覚寺(現円光寺)に入り寺務を継ぐ。多くの著述があり中でも岷江記は祖父明了、父善明の口述をもとに照蓮寺の詳細な寺史で著名である。
次男善了が第3世を継ぐ。寛保元年(1741)4月庫裏を造営する(現在のもの)。宝暦8年(1758)宗祖親鸞聖人500回忌法要厳修する。明和4年4月2日遷化。
第4世善貞は善了の長男である。明和7年3月9日親鸞聖人絵伝免許される。寛政12年11月16日遷化、68歳。
第5世は善貞長男善暁が継ぐ。親鸞聖人550回忌法要を準備中、文化8年10月8日遷化される。年44歳。善暁には兄弟が多く弟善応(後善貞と改名)は円徳寺に、次弟了厳は母の実家の還来寺に、次の弟は宝円寺にそれぞれ入寺している。
第6世善隆は善暁の長男である。父夭逝のため、わずか12歳で継職する。父の死の翌年文化9年(1812)10月親鸞聖人550回忌法要を厳修する。この時13歳の善隆を中心に門信徒、総力を挙げて事に当たり、現存する宮殿、須弥檀、厨子等本堂の荘厳はこの時に造営され、作者は京都福美屋である。また文政2年(1819)10月梵鐘を鋳造された。明治6年3月3日遷化される。年74歳。
弟善調は高山に居住し、その長男治平は三島豆の創始者である。
第7世善栄は明治4年2月宗祖聖人600回忌を、明治15年4月嘉念坊上人600回忌法要を厳修する。この期に本堂を修復し、高棟にし、また土蔵を新築される。明治39年4月3日遷化。年82歳。
第8世恵信は清見村夏厩蓮徳寺より入寺、庫裏、土蔵の大修理をなし、大正13年5月宗祖聖人650回忌、昭和8年5月嘉念坊上人650回忌法要を執行し、同年12月19日遷化される。年61歳。
第9世怙舟は第8世恵信の第3男である。幼少より病弱で在職わずかに1ヶ年にて、昭和10年1月12日遷化される。年32歳。
第10世晃導は第8世恵信(6男3女中)の第5男。
昭和12年応召従軍2ヶ年、昭和24年5月蓮如上人500回忌法要を、昭和47年4月宗祖親鸞上人並びに寺祖嘉念坊上人700回大遠忌法要を厳修される。また、昭和17年から20余年間、同派神通寺の法務代行を勤める一方、昭和24年から保護司として30余年間、飛騨慈光園長を11年余、ほか幾多の諸団体公務に従事し、44年の長きにわたって寺門の興隆に尽力され、昭和62年1月10日遷化される。年81歳、葬儀(門徒葬)は同年1月18日。
第11世亮昌(現在)は晃導の次男。昭和53年11月継職、平成元年8月当山庫裏(創建以来248年経過)を新築造営、落成慶賛法要厳修。
『観喜寺略史』平成元年発行より