金森左京家
金森左京家
① 左京家の飛騨時代
金森本家の始祖金森長近の後に本家二代となった金森可重は、高山市の北部にある高原郷に勢力を持っていた江馬氏十六代の江馬輝盛の娘を側室としていた。その側室が生んだ子が可重の五男、重勝である(富田礼彦編『斐太後風土記』)。
彼は父可重に従い、異母兄の三男重頼とともに大坂冬の陣・夏の陣へ出陣した。その後元和元年(一六一五)七月、兄重頼が父可重の領知を継承し、飛騨国を領有した。
その時、兄重頼の領内より同年三千石を内分知として割(さ)き与えられ、金森左京家として分家した。重勝が金森左京家の始祖となり、以後十一代にわたり幕末まで続いた。
江戸幕府が寛永十八年(一六四一)編集に着手した家譜書「寛永諸家系図伝」(日光叢書)によれば、金森重勝の項に次のような記録がある。
重勝
左京亮
重頼於領国之内分与三千石于重勝
慶長十九年奉謁
大権現(家康)
台徳院殿(秀忠)
大坂両御陣供奉
寛永三年奉仕
すでに慶長十九年(一六一四)には家康・秀忠に初御目見をしていた。そして寛永三年(一六二六)には将軍家に勤仕することになり、内分知であったため将軍から領知朱印状を拝領せずに、幕府へ出仕するという方法で旗本になった。
このように江戸前期には、大名の子息が旗本に取り立てられる場合は多かった。これは軍事拠点の警固や行政機構の発展等により、旗本増員の必要があったからである。それには幕府財政の負担にならないように、本家である大名の領知の一部を割き与えるという形で、旗本の増員が行なわれた。
金森左京家へ内分知されたのは高原郷三千石であった。この地域はもともと江馬氏が統治していた。前述のように金森左京家の祖である重勝の母は、江馬氏十六代の江馬輝盛の娘で、重勝の父可重の側室となっていた。高原郷は高山の北方、旧神岡町と旧上宝村・奥飛騨温泉郷にまたがる地域であった。この高原郷内の釜崎(現在は飛騨市神岡町釜崎)は交通の要所であり、高原郷の中心地であった。金森左京家は釜崎に陣屋を置いて統治した。町内に地元の人々が建てた「金森重勝三代居館址」という木製の標柱が建てられている。
高山町内における左京家の屋敷は、「まちの博物館」(住香草文庫)所収の「高山城下町絵図」によれば、三か所記されている。金森初期に左京の元屋敷があったと考えられるのが、江名子川上流の錦山神社付近にあった最初の屋敷である。またその次の時代に左京屋敷があったと考えられるのが、江名子川沿いの高山市島川原町にある「川上別邸史跡公園」付近である。ここは東西二町余、南北一町余の広大な屋敷跡であったという。また最も広大な屋敷として描かれているのが、現在の左京町から桜町にかけての桜山八幡宮付近の屋敷である。左京家は高原郷の中心である釜崎、そして高山の町内に、また旗本であるため江戸に左京屋敷は存在したのである。
金森本家六代頼旹(よりとき)の代の元禄五年(一六九二)に、幕命により飛騨国より出羽国上山(山形県上山市)へ転封になった。出羽国では金森本家は三万八千七百石余であったが、そのうち左京家の領知は本家の領知に含まれた三千石であった。
しかし金森本家は元禄十年(一六九七)統治わずか五年で、美濃国郡上八幡へ再び転封となった。その領知は美濃国郡上郡や越前国大野郡にまたがり、左京領三千石を含む三万九千石であった。頼旹は元文元年(一七三六)に亡くなり、孫の頼錦が七代藩主となった。
② 左京家の郡上八幡時代
左京屋敷があったのは、現在「左京稲荷神社」が存在した付近であるといわれている。この地は郡上市八幡町島谷で、字名に左京という名が残っている。この付近に金森左京の屋敷があったという。
八幡郵便局の近くにある「左京稲荷神社」の由来書によると「このあたりは、旗本三千石金森左京の屋敷跡であったので、(この付近は)左京町といわれている。金森左京は、もと郡上藩主金森頼錦の分家である。この稲荷神社は、金森左京の守護神であった。今も一家の繁栄を願う多くの人々から崇敬されている。」とあり、左京家の屋敷神であったという。現在も越前市白崎町にある金森左京家十三代の金森 穣(みのる)氏の屋敷には屋敷神として稲荷神社が立派に祀られている。
本家七代金森頼錦の代には、郡上郡百二十一か村と越前大野郡内六十九か村の領知あわせて三万九千石を統治した。
その内、左京家は美濃国郡上郡阿久田(あくだ)村などの五か村五百六石七斗八升七合と越前国大野郡細野村など七か村の二千四百九十三石二斗一升三合で合計三千石を給知された。ただし内分知であるので、越前国の「元禄郷帳」では左京領とは記されず、本家の郡上藩領となっている。
③ 越前金森左京領の成立
それまで左京家は内分知であり、幕府財政の外側であったが、本家の改易にもかかわらず、幕府領より直接三千石が与えられた。幕府の特別の措置であった。
金森左京家四代可英は、宝暦九年(一七五九)六月に幕府は、越前国南条郡・今立郡の内七か村を金森左京家の知行所とした。内分知ではなく、越前国において独立した領知支配である。その七か村は次の通りである。すべて元幕府領であった村である。
南条郡
白崎村 (越前市白崎町) 九百三十五石七斗八升六合
清水村 (南越前町清水) 四百二十七石九斗二升六合
牧谷村 (同 牧 谷) 六百八石四斗六升八合
今立郡
上大坪村 (越前市上大坪町)百四十石一斗七升九合
萱(かや)谷村 (同 萱谷町) 二百三十四石四斗三升九合
大手村 (同 大手町) 二百二十一石七斗三升
西尾村(分郷)(同 西尾町) 五百四石一斗一升
合計 三千七十二石六斗三升八合
( )内は現在の地名
宝暦八年「成箇郷帳写」「金森可英知行所成箇郷帳写」より
ちょうど三千石ではなく、七十二石六斗三升八合を余計に給知されている。これは込高(こみだか)といって、知行所替の際に新しい知行地の年貢収納率(免)が低い場合、収入が減少しないように以前と同じ高にするため、余分に与えられた増高である。このような暖かい配慮があったという。
寄合衆とに分かれるようになった。前者は格式が高い家柄の名門の家が多かった。左京家はこの表御礼衆に属していた。交代寄合表御礼衆は、明治維新までに全国で二十家を数えた。左京家のような大名の分家であった家以外に、松平家の一門・譜代の家、織田・豊臣系の家臣、中世以来の豪族、守護大名系の家が属していた。
江戸城中では交代寄合表御礼衆の詰所は帝鑑の間や柳の間であり、左京家の詰所は柳の間で、そこは位階四位以下の外様大名や高家の詰所であった。左京家はまさに大名扱いであった。また江戸城において、大名と同様に表白書院で将軍に拝謁・御礼ができるので、表御礼衆と呼ばれた。
④ 江戸の金森左京屋敷
左京家の拝領屋敷は、芝三田魚籃(ぎょらん)坂下の江戸三田田島町(東京都港区白金一丁目三付近)にあった。延享四年(一七四七)の屋敷図によれば二千四百坪余りあった。左京家屋敷は規定より多くの坪数があり、優遇されていたものと考えられる。しかし屋敷図を見ればその坪数は多いが、屋敷の建坪は少なく、空き地が多かった。そこでこの空地を利用して自家用の野菜を栽培することは、他の武家屋敷と同様に公認されていた。
左京家の江戸屋敷は天保十五年(一八四四)安政四年(一八五七)の「江戸切絵図」によれば、三田魚籃下、現在の町名で言えば白金一丁目三付近で「西原病院」がある地であろうと考えられる。近くに古川が流れ、そこにかかる「四の橋」のやや南東にあたる場所である。現在古川の上には首都高速二号目黒線が走っている。その付近は病院やマンション、小さな町工場があって、とても武家屋敷の存在した地域とは考えられない。
金森家一族の菩提寺は左京屋敷に程近い、東京都渋谷区広尾にある臨済宗大徳寺派の祥雲寺であった。この寺は福岡藩主の黒田長政をはじめとする、多くの大名の墓が見受けられる。金森家にとって、あくまでも江戸における菩提寺であり、墓も「源姓金森累世之塔」となっており、江戸屋敷に関わる金森家全体の墓(金森家の総墓)とも考えられる。
京都には金森長近をはじめとする金森家歴代の墓が、同じく大徳寺の塔頭龍源院内にある。もとは同寺塔頭の金龍院に墓があったが、そこが京都市立紫野高校のグラウンド整備拡張事業のため、龍源院に墓は移された。
明治維新に際し、交代寄合表御礼衆二十家の中にあって、維新後の一万石への高直しを早急に行なって一万石を認められ、もと大名として華族となった家が、生駒家や平野家など六家があった。金森左京家は三千石であったため、さすがに一万石には届かなかった。左京家は藩主並の家格を持っていたため、華族昇格を他の表御礼衆とともに、維新政府に歎願したが認められず、左京家十一代の近明はさぞ悔しかったにちがいない。
家臣の中には帰農する者、東京に出て商工業に従事する者等さまざまであった。白崎町の左京家菩提寺の金剛寺へのお盆参りには家臣の子孫も年々少なくなっているという。
領主の城郭風の居館は破却され、居館東側にあった重臣達の屋敷もなくなった。十一代近明は重臣とともに小高い下荒井地区の居館から出て、白崎村平地の暦所地区に移り、家老や重臣と一緒に屋敷を建て生活をした。
大正十四年(一九二五)五月、牧谷村のかつて御用達役を務めた宮地儀兵衛らが中心となり、統治下七か村の有力者等から募金を行い、居館跡に神社風の「金森家之碑」を建てた。それも碑は故郷高山の方角に向いている。
『高山市史・金森時代編』より
関連資料
2-7 金森左京家
資料集
075_284_金森氏の分家・金森左京屋敷