勝山市の伝統行事・祭礼
勝山市の伝統行事・祭礼
走りやんこ
その起源は火消勢揃駆出と考えられる。近世の19世紀中頃から3月20日下河原で股引をはき火事装束で勢揃駆出しが行われるようになる。
近代に入り『大野郡誌』に「やんこ」として紹介されているのが従来行われてきた勢揃駆出しと思われる。そこには毎年春季演習が終った後、勝山町で余興として行われる消防の走り合いと紹介されている。春季演習とは消防の演習を指し、明治29年(1896)4月13日、全町の六割を焼いた勝山大火を契機に、この日を消防演習日とした。勝山大火のあと、江戸時代の勢揃駆出しの伝統を受け継いで「やんこ」が始められたものと思われる。現在は「走りやんこ」といわれ毎年4月13日に行われ勝山の春の風物詩となっている。朝方、消防署の鳴らすサイレンを合図に演習が始まり、引き続いて「走りまとい」をバトンにして分団対抗リレーの形で行われる。長淵の茶所橋をスタートし本町を通過し長山公園がゴールである。
『郡誌』の記述が幕末期の勢揃駆出しの姿をよく伝えていると思われるので一部抜粋してみる。旗振りといって子供が旗を振って先駆けをする。出発点は町の北端の長渕区で、予め定められた通過順路を通り到着点は長山講武台である。選手には火消(消防)各組から選ばれた選りすぐりの機敏な者が選ばれる。競技に先立って選手に元気をつけるため雛卵が与えられ、脚には酒を吹きかける。号鐘を合図に半裸体の姿で頭には色手拭の鉢巻を巻き、四尺の柄のついた「走り纏」を持って走る。纏は次々とリレーされ最後にトップでゴールについた者が決勝点にある標旗を纏で突き刺す、これをブンデン突ちという。競技が終ると着順で各組が行列を整えて町内を巡り歩く。行列の先頭になることが最も名誉なこととされた。勝山市の指定文化財。
花火大会
花火を打ち上げる記述は近世の史料にも見られるが定期的なものではなかった。新聞に花火の記述が見られるのは昭和8年(1933)である。但しこれも現在のお盆の時期ではない。始められた時期ははっきりしないが、旧盆に九頭竜河畔で打ち上げ花火が定期的の行われるようになるのは昭和20年代後半と考えられる。
観音さまのおすすめ
現在行われている行事を簡単に紹介すると次のようである。行事そのものは2月11日に行われる。前日、子供たちは「観音さまのおすすめー」と高唱しながら各家を回り玄米を集めて歩く。婚礼など慶事のあった家が宿になり、その家に青年たちが集まり臼と手杵で米をかつ。その際囃し歌が歌われる。つきあげた米は鉄の大鍋で男たちによって仕草おかしくかしかれる。そのあとは塩味のお粥に炊かれ男が給仕して宿に集まった女性に振舞われる。男たちが女性に給仕してまわるが、その際も「観音さまのおすすめー」と囃し、何杯も無理やりお代わりさせ常に山盛りにする。以上が行事のあらましである。
お粥をつくるのは小正月の「小豆粥」行事の名残と思われる。男性が臼で米をかちお粥にし、それを山盛りにして女性に腹一杯食べさせる風習は、安産・豊穣を祈る「粥杖」行事の変形かと思われる。子供が「観音さまのおすすめー」と集落内を米を集めて歩くのはまれびと訪問を思わせ、いずれも小正月に行われる行事と関連している。
このように白山信仰から出発しながらも江戸時代においては村人の精神的紐帯として、近代に入ると村の伝統行事として、観音祭礼が位置付けられていることがわかる。勝山市の指定文化財。
御前相撲
令和元年の神明神社での相撲大会は9月15日に行われた。現在は昭和29年(1953)の市制施行を記念した市民体育大会、最初の国体開催の翌年に始まった勝山市地区対抗相撲が合わせて開催されている。この相撲の起源は御前相撲に始まる。享保14年(1729)8月15日、「神明角力之節入道様(小笠原信辰)山田団之丞屋敷ニ御見物」と史料に見られる。史料上では左義長より古い歴史がある。
神明社は勝山町の惣社として長い伝統を持ち、祭礼日は旧暦8月14~15日だった。相撲は興業として行われるのではなく「湯の花相撲」として、神明社への奉納相撲として行われてきた。一方、小笠原家の鎮守である八幡社でも同日に相撲が行われていたが、怪我人が多いとの理由で、天明期(1781~89)の末以降は神明社でのみ行われるようになる。また、八幡社の祭礼日と神明社の祭礼日が重なっていたため、文化11年(1814)以降は17~18日に固定された。相撲は18日に行われ藩主直々に観覧されたことから御前相撲と称されるようになった。
御前相撲は明治以降も続けられ昭和18年に戦争激化で一旦中止となり、戦後再度復活したが出場者が少なくなったため43年に中止された。ところで戦時下の昭和17年体力増強の意味もあり、勝山町主催の町内対抗相撲が開かれるようになった。こうした伝統を踏まえて市体協を中心に44年から形を変えて神明相撲が復興されたのである。
村岡山ちょうちん登山
昭和46年(1971)村岡青年団による登山道の整備が行われ、翌年から「かちやまちょうちん登山」が始められた。例年お盆の8月17日に村岡小学校グランドに集合して行われる。
村岡の地名は、「朝倉始末記」に「…村岡山ニ城郭ヲ拵テ寺門ヨリ持ナラバ…」と見られ、中世山城跡と知られる村岡山に因んでいる。長尾山と並んで松茸を多く産し、元禄4年(1691)に勝山に入部した小笠原氏は、藩の直轄林(おたてやま)とした。以後「御立山」を通称とした。
天正2年(1574)一向一揆勢は平泉寺攻撃の際、戦術的に拠点となるこの山に城を構え、平泉寺を焼亡に導いた。この戦勝を記念して村岡山を勝山と名付けた。翌3年柴田義宣は城を構え北袋(勝山盆地)を支配し、その一族の勝安も在城したが、同8年袋田村(現勝山)に城を移した。
大師山たいまつ登山
昭和43年(1968)に開催された第1回目の福井国体を契機にその前年、猪野瀬公民館と勝山公民館が地元片瀬区の協力を得て市民に呼びかけ実現した。毎年8月13日に行われ市民みんなのたいまつ登山として発展した。
滝波のお面さんまつり
滝波地区には「お面さんまつり」といわれる三百年近く続く伝統行事が現在も受け継がれている。お開帳と称し現在は2月11日、旧暦では1月11日に行われてきた。祭礼は三つの翁面の開帳と烏帽子着(名替え)祝いの二つの行事から成る。この二つの行事がいかなる理由で結びついたかはよくわからない。史料のうえでは宝永6年(1709)には現在の形に近い行事が行われていたようである。貞享2年(1685)に著された『越前地理指南』の滝波村の項に、「児権現の社アリ 古キ翁面三アリ」とある。
三体のお面が滝波村に伝えられるまでの経緯について、享保4年(1719)の「お面さん由緒書」(滝波区有文書)により。言い伝えも援用しながら述べる。
七山家の一つ小原の一揆が平泉寺から奪った神宝のうちに七つの神面があり、子供がもて遊んでいたところ村中に疫癘が起こった。そのため一旦はこの面は滝波川に捨てられたが、たまたま天正15年(1588)1月11日に滝波村の村長がこのうちの三体を拾った。村ではこのお面を敬い祭っていたところ数々の奇瑞が起こったので、百年前から祭礼を行うようになった。普段は穢れをふせぐため筺に納めておき、それぞれ翁面は天照太神社に、尉は春日社に、三番そうは住吉社に分置してきた。中世以来平泉寺では能楽が行われておりその面を戦利品として村に持ち帰ったと考えられる。翁面が戦利品かどうかは別にして、平泉寺を中心とした白山信仰の一つのよりどころとして信仰されていったものと思われる。勝山市の指定文化財。
谷のお面さん祭
2月16日区長宅(現在は谷教会)で金屏風を立て、これに面をかけ、〆縄を張り、酒、するめ等を供える。部落民は豊作を祈り区長が参拝してお神酒をいただく。使用するのはお面(4面)金屏風である。沿革は天正2年(1574)平泉寺焼き討ちの時小原村民が持ち出したお面7面のたたりを恐れ川へ捨て、このうち4面を谷村民が拾い祀ったといわれる。残り3面は滝波で祀られている。勝山市の指定文化財。
谷のはやしこみ
8月15日に、地区の中心の谷教会(寺)から村社伊良神社まで、様々な仮装をして練り歩き、境内で謡、三番叟、神楽などの芸能を奉納する。本来は2月16日に行われる「お面さん祭り」のときに五穀豊穣を祈願して行われていた。村の過疎が進み昭和47年(1972)に途絶えたが、平成12年(2000)に復活した。区の出身者が帰省しお盆に行われるようになった。
『勝山市史 風土と歴史』によれば、16日は谷の「いんねん」に当たり区長宅で午後、青年は変装してお神楽の用意をして伊良神社の境内に雪で二間四方位、高さ2尺ほどの壇を作り、その上にむしろを敷いてお神楽を舞う。はやしはつつみ太鼓と笛である。その後、赤色の帷子高烏帽子姿のお稚児さん(男子1人)が三番叟を舞う。舞は片足をあげて舞う、柴田義宣が谷の大西宗左衛門に最初の一突きで馬の脚を刺され、馬が脚をあげたため義宣は討たれたという。この所が殿切原といい、稚児の舞ともいう。片足をあげて舞うのはこの伝説から出たという
年の市
例年1月の最終日曜日に行われる「年の市」について、『大野郡誌』は次のように記している。「師走の26日に本町通りで年の市が行われ、近郷山家の素人商人・町商人・旅商人を交え、早朝より定めの場所に忙しく店を出す。神仏の棚飾、年頭の縁起物、台所用具、下駄、その他食料品に至るまで街上に陳列する。これらを買求め四方から多くの人が集まり喧噪を極める」。
正徳3年(1713)の史料に「当村近郷の市場は小笠原様の城下勝山と申所である」。文化8年(1811)の史料には、「勝山城下では月に6回の市が立ちそこで万事諸商事が行われる」。以上のように記され、勝山町が近郷農村の経済の中心であったことがうかがえる。町内の延享5年(1748)の史料には1年を通しての市について記している。そこには「三月朔日之市」「半夏生」続いて6月1回、7月3回、8月1回、「十二月廿一日」「十二月廿六日之市」と9市が挙げられている。
「年の市」はここで言う「二十六日市」と当初は呼ばれていたようである。始まった時期は明確ではないが、相当古い時代から旧暦の12月26日に開かれ、近郷から多くの人たちが集まるようになったのは幕末期と思われる。市は農間稼として作られた藁製品や木工品を売り、一方で正月を迎えるための日用雑貨を買い整える役割を担っていた。明治末期の年の市の風景を『鹿谷民俗史談』を以下のように描写している。
「書出の来ている店々を支払に回るが、この日は支払が殺到するので、店でも玄関に鼎という大きな五徳を据え、甘酒の鍋をかけて沸かし、支払人に甘酒の供応をする。…本町通りには中央を流れている川の上に桟敷を作り、戸板を掛け渡したりして、色々の品を並べて売っていた。北谷あたりから出した木製品を販売する店が賑っていた。…香具師も大勢来て今の神明様の前あたりから、長淵の新保屋さんの前まで、ずらりと露店が並び身動きの出来ない程の人通りであった。」
弁天桜
雪を頂いた大日連峯を背景にした弁天桜のその美しさはまさに絶景である。この弁天桜の起源をたどると以下のような経緯を経て現在のような景観となった。
大正12年(1923)~13年、関源右衛門町長は町会の承認を得て吉野桜三百本を購入。二百本を九頭龍川堤防上に、百本を長山公園に植えたのが始まりである。しかし雪害と肥料不足で5~6本のみ助かり残りは枯死してしまった。その後昭和2年(1927)に下後区の世話役をしていた市橋定吉氏が、私財で吉野桜五百本を堤上に植樹。同5年に更に堤上の下に二百本、長山公園に百本植樹した。
市橋氏と下後区青年会の施肥と手厚い保護で樹はすくすくと育ち、昭和8年以後は同青年会の大々的な宣伝効果もあり県下でも知られるようになった。同9年の新聞によると4月26日満開となり連日7千~8千の花見客が訪れた。
戦後昭和24年、桜の樹齢も26年で見頃となり、4月10日~16日迄「はなまつり」が開かれた。花火の打ち上げ、長柄おどり、歌合戦など各種の催しが長山公園も含めて開催された。昭和42年の記事には、お国自慢もあり名花として弁天桜を県下一とし、次いで城を春景とした丸岡城の桜をあげている。