吉島家・日下部家
吉島家
江戸初期に整備された越中街道沿いにあり、江戸時代後半から民家が建ち並ぶようになった町人地にある。主屋、倉は明治40年(1907)に建てられ、に国の文化財に指定。大工西田伊三郎が、建築士の考え方で建てた、バランスの良い優れたデザインの建物である。間口が広く、2階の階高を抑え建物全体が低いので、道路幅との均衡がとれている。建物全体は、間口約26m、奥行約26m。大工は主屋を川原町西田伊三郎が、座敷を吉城郡上宝村の内山新造が建てた。
吉島家の初代は文政6年(1823)に没した休兵衛で、代々生糸、繭の売買、金融、酒造業を営んだ。明治8年(1875)高山の大火後翌9年再建、しかし明治38年(1905)再び類焼し、明治40年に再建されて現在に至る。
隣つづきの日下部家と異なるところは、軒下にセガイ天井がなく、前側2階の柱間が広い。内部の吹き抜けを見ると、棟まで1本で通した檜の大黒柱は太く美しい。大黒柱に組み込まれた吹抜部分の梁組は、丁寧に鉋で仕上げられ、漆を塗られている。天窓から差し込む幾筋かの光が、斜めにこの吹抜けを通る構造はすばらしいものがある。約1.8m毎の梁組と小屋組の構成は優美で端正。大梁を、ウシ梁という。断面的に下部を細くすることにより、下から見上げたときに松の太鼓腹が美しく見えるように意匠を工夫している。
2階の床は三段形式になっており、家長が上段を、家人が中段と下段を使用していたようである。春慶塗のふすまや障子、桐の欄間など贅を尽くしている。
参考文献 『高山市史・建造物編』
日下部家
江戸初期に整備された越中街道沿いにある。昭和41年、主屋、文庫倉、新倉の3棟が国指定。主屋は明治12年(1879)、倉は明治12年。明治8年(1875)の大火で焼失後、東側の角屋敷から現在地に移り、明治12年(1879)1月22日上棟式が行なわれた。大工は名工川尻治助である。前庭をつくり、棟の高い2階家を建てることは江戸時代に許されなかったが、明治になって棟梁川尻治助が力量を発揮して造った住宅である。建物全体は、間口約25m、奥行約29mである。
蓄積していた良材で組み上げられた「オエ」、「ドジ」上の見事な梁組、美しく整った座敷まわり、よく整備された中庭などに風格の高さが現れている。内部へ入って見上げると、整然としてしかも躍動美のある梁組が見られ、磨き上げられた光沢がまた美しい。檜の大黒柱とウシ梁と呼ばれる大梁、束や梁・桁などが規則正しい軸組を構成し、構造美を演出している。ウシ梁は断面的に下部を細くすることにより、太鼓腹を美しく見せている。木組の構造美を見せる意匠である。畳が全部で147畳も敷いてある大きな旧商家である。
前側軒裏のセガイ天井、箱庇、出格子、角柄窓、隅切窓は前面の計算された調和と建築美をかもし出す。
ニワの奥に蔵が2棟(北側と南側の蔵)現存する。現在、日下部家では2棟とも文庫蔵(南側は展示場)としている。南側にある文庫蔵(新倉)の入口戸内側は、卍くずしの文様を、薄く削って、その中に青色を塗彩した精巧な技法である。高山には例がない文様と色調である。屋根下の蛇腹と出桁のプロポーションが良く、西洋的な様相を見せる。
参考文献 『高山市史・建造物編』