郡上おどり
郡上おどり
郡上おどり(ぐじょうおどり)は、岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、三大民謡(郡上節)に数えられる。
中世の「念仏踊り」や「風流踊」の流れを汲むと考えられている。盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758年〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
郡上おどりの由来
民謡は土から生れる、といわれているが、郡上おどりも山紫水明の里から、そこに住む人たちによって生れたものである。
私たちの祖先が、その時代における生活や感情を、素朴に唄い踊った民謡や踊りは、その源流がどこにあるにせよ、幾多の変遷を経て人々の息吹きのなかに育てられ、なお今日の、現代に生きる者の胸にもひしひしと迫ってくるもののあるのは、言いしれぬなごやかさに郷愁を感ずるからであろう。
郡上おどりの起源はさだかでないが、四百年ほどの伝統を持つといわれている。徳川三代将軍家光公の時代、ときの郡上領主であった遠藤左馬介慶隆は、八幡城の戦いや、天下分目の関ケ原合戦(慶長五年、一六〇〇)の後、その軍功を徳川家康に認められて、故領である八幡城へ復帰し、一郡二万七千石の領主となって、城郭を修理し庶政を整え、慈恵寺の開基や愛宕神社の勧請につとめた。
また戦雲ようやくおさまったなかで、寛永四年(一六二七)郡内における人心の安定と平和を楽しむために、その当時、所々方々で行なわれていた盆踊りを、宮や寺の境内あるいは門前町などで、踊り振りをよくするように奨励させたと伝えられている。
遠藤氏四代目の備前守常友は、時の将軍家綱の覚え目出たく、寛文七年(一六六七プ幕府に請うて八幡城の大改築に当った。また城下町の整備に尽して、願蓮寺や最勝寺を近郷から八幡へ移し、洞泉寺を建立した。
なお、町振りを良くした町家に褒美を与えたりして、城下町としての要件を備えたところから、ここに始めて城主格から城主としての待遇を受けることになった。
さらに書画に秀いでた文人であり、民衆の和楽にも深い親しみと理解があったとされているから、ようやく整然となった町並みで、士農工商の融和をはかるために盆踊りを奨励されたので、踊りはますます盛大となり、領民に心のよりどころを与えてきたものと思われる。
幕末のころ城下では、七大縁日の盆踊りが恒例になっていた。七大縁日とは、旧六月十六日八坂神社の天王祭(上ケ洞)・七月二日大乗寺の三十善神祭(向山)・七月七日洞泉寺の弁天七夕祭(尾崎)・七月十四日から十六日までの孟蘭盆会(橋本町、新町)・七月二十四日桝形のうら盆地蔵祭(桝形町)であり、この山深い奥美濃の純朴な里人たちによって、歌い継がれ踊り続けられてきた。これは、山間地における唯一の社交の場であり、また最大の娯楽でもあったからであろう。
現在では、信仰と和楽をもとめる人たちの願いをあつめて、あの町この町に縁日の祭りと踊りが立ち、七月中旬から九月初旬にかけて「郡上おどりの夕べ」が繰り広げられている。老若男女の踊り手が、ときには数千人の一団となり、音頭や囃子にあわせて手拍子を揃え、無心に踊りぬく姿はまことに壮観なものであり、ことに徹夜で踊り明かす盆の四日間は、七重八重の輪がひろがり、郡上おどりならでは、見ることも、また味わうこともできない一大絵巻である。
この郡上おどりは、往年の画伯・岡本一平先生の言われたように「見る踊りではなく一諸になって踊り楽しむもの」である。誰でもどんな服装でも、気軽に輪の中に入って、手や足を動かしているうちに、踊れるようになるのが、郡上おどりの面白さであり魅力であるとされている。
また踊りの種目も多く「古調かわさき、かわさき、三百、春駒、ヤッチク、げんげんばらばら、猫の子、甚句、さわぎ、まつさか」と十曲を数える。このうちの七曲の配列をみて、東京大学の教養学部・体育史の石津政雄先生が、科学的に解明され、郡上おどりは運動生理学上きわめて合理的である。と発表されている。
すなわち、準備運動の「かわさき」本運動の「三百・春駒」骨休めの「ヤッチク」を中に、最高の「げんげんばらばら」から「猫の子」へ、整理運動の「まつさか」へと、ひとまわりするようになっている。しかしこの順番は、必ずしも一定したものではなく、その時の踊り場の調子を見て、硬軟・緩急の踊り種目を組み合わせてゆくもので、夜明かしで踊っても楽しくおどれ、音頭取りも囃子方もなお踊り子も、ともに疲れきることのないように仕組まれており、古老や先達の編み出した最高の演出である。
とおい祖先から伝承されてきた、この素朴にして心豊かな文化遺産を、誇りある郷土民謡として守り育てるとき、郡上おどりは、山と山とに囲まれたこの土地の習俗とともに、郡上を訪れる人たちの旅情をかきたててやまないであろう。
郡上おどりの特色
一、里人の結合性
奥美濃の辺境にあって人情のこまやかな里人たちが、いつの時代いかなる圧制の場合にもくずれることなく、つねに心のよりどころとして育てあげてきたのが「郡上おどり」である。
純朴と勤勉そして忍耐力の強さは、山間の狭小な痩せた土地と寒冷のなかに生きてきた先祖から、次ぎつぎに受け継いだ郡上の根性とでもいうべきであろう。しかもそれは、村むらの団結に支えられた不屈の精神をあわせもっていたのである。
宝暦年間における郡上一揆の「傘連判状」は、神文に対して平等の責任を負うように円型に名前を連ねたものであり、目的遂行を誓い合った統合性の現われである。この決死の盟約があったからこそ、四年半にもわたる長期間の抗争を続けることができたのであり、その結果は、同時代における百姓一揆のほとんどが一つの悲願として終わっているのに対して、郡上のそれは、領主改易まで追い込んだのであった。
こうした郡上人の精神や根性に支えられてこそ、この歌や踊りを親から子へ孫へと伝承し、数少ない娯楽の一つとして今日まで伝えてきたものである。
ニ、徹夜の盆踊り
盆の八月十三日から十六日まで四日間は、徹夜で踊り明かす習慣が古くから行なわれており、昭和三十年代ころまでは宵の口から翌朝六時ごろまで踊られていた。今日では公衆衛生や交通安全等の見地から午前四時までに改められているが、いずれにしても、長時間にわたって踊り続けるには、それなりの変化と盛りあがりがあるからであろう。
夜を徹して踊り明かすためには、単調さをさけた歌や踊りの種類が必要でその点郡上おどりの、かわさき・三百・春駒の歌詞は、七・七・七・五調であっていずれにも通用し緩急の妙を得ている。しかも、かわさきと三百は音頭取りと踊り子との唱和形式をとっていて、音頭取りが一つの歌詞を唄うと、踊り子が唱和しその四の句を二度返し三・四の句へとつづいている。
なお歌詞のあいだには、「アソンレンセ」とか「ホイ」という短い囃子詞をいれて、音頭取りと踊り子の意気のふれ合いを深めている。また春駒は威勢のよい踊りであるところから、歌の返しはしないがやや長い囃子詞の「七両三分の春駒 」によって、踊り全体を調子づけているのである。
このようにして、歌詞の自由な選択と返し歌や囃子詞によって、相当に長い時間を楽しむことができるのである。さらには、古調かわさきや猫の子・さわぎ・甚句などを組み入れ、また、げんげんばらばち・ヤッチク・まつさかなどの口説き歌をあわせ用いることによって、踊りの単調感を少なくし、囃子方の疲労度を救うようになっている。 口説き節はもともと仏教音楽から出た唄い方であるといわれ、鎌倉時代の平家琵琶の中にもこれがあったとされている。口説きの歌詞は七七調または七五調の連続したもので、曲節も平板になりやすいところから、音頭取りは歌詞の内容によって、リズミカルに唄いあげることに心をくだいている。特に「ヤッチク」と「まつさか」の歌詞は長いので一節ごとに踊り子が声を揃えて「アラ、ヤッチクサッサ」とか「コライ、コライ」や「ア ヨイヤナー ヤートセー」と囃子詞をいれて、歌と踊りを盛りあげているのである。
三、盛大な縁日おどり
幕末のころから行なわれていた七大縁日のほかに、その後年を経るにしたがって、神典薬師祭・電気地蔵祭・毛付市夏祭・城山地蔵尊祭・およし祭・秋葉祭・恵比須祭・慈恩寺弁天祭・十八観音祭・弘法祭・宗祇水神祭・宝暦義民祭・岸剣社川祭・凌霜隊慰霊祭・小野天神祭・犬啼水神祭等々が、各町内の縁日にちなんで逐次増加されてきた。
これらの縁日踊りでは、それぞれの特色を生かした工作物、たとえば電気地蔵祭には電気仕掛けの造り物が飾られ、農家の多いところでは野菜で作った動物、器用な人のいる所では物語り風の人物像、はてはお化けや判じ物、京祇水では連句と狂俳の掛け行燈など、夕涼みと踊りをかねての楽しい夏の風物詩となっていた。
縁日踊りへ踊り屋形が出るようになってからは、各町内における踊り場も、盆さながらの風情となり、観光客のなかでも郡上おどりの良さにほれこんだ人びとは、盆のごったがえすような時よりも、むしろゆったりとして自由に踊れる、縁日踊りを選んで来られるような傾向になってきている。
いま全国的に有名な、いくつかの民謡踊りは、おもに七月から九月の間に、いずれも二晩か三晩を盆踊りとして行なわれているものであり、縁日踊りというものはみられない。
このように、踊り期間が二か月余におよぶところは、郡上おどり以外にその例をみないのである。
出典 :『重要無形民俗文化財 郡上おどり』(郡上おどり保存会・平成一〇年四月一日)より一頁から二〇頁 抜粋
1.郡上おどり資料
郡上踊りの一連の所作
動画
01 古調かわさき ~ 05 猫の子
06 さわぎ ~ 10 まつさか
01 古調かわさき
天正年間(一五八〇年代)に、伊勢の参宮道者によってもたらされたという踊りが、山紫水明の郡上の里で、さまざまな変遷をたどりながら、その風土にあったものとして磨きあげられてきたものである。
現在、国の無形文化財に指定されているなかの「古調かわさき」は、輪踊り【原文まま】で時計の針の逆回りであり、その手振りや足の踏み方などを見ても、昔の農耕の所作が取り入れられており、歌詞も飾り気のない庶民生活に根ざしたものや、作業歌が残されていて、いかにも奥美濃の純朴な人情・風俗に似つかわしい踊りである。
02 かわさき
今日、郡上おどりの代表的な踊りとされている「かわさき」は、大正三年(一九一四)に開かれた共進会(生糸・蚕・茶・材木・薪など)に上演するため、戸塚鐐助氏(元川合村長)が、郡上之曲「花のみよしの」を作詞され、その節付けは杵屋六満左師に、また花のみよしのの踊りのなかに、古調かわさきの動きを取り入れた、新かわさきの振り付けを西川倉寿師が担当されたのである。
大正十一年に郡上おどり保存会が結成されて、この新「かわさき」を世に出そうと尽力され、その後、歌詞は卑猥なものを改めるためにて一般から募集して、曲も新しくととのえられた。
この上品な歌詞や落ち着きのある曲、あるいはリズム感にあふれる踊りは、全国民踊大会においても、健全な大衆娯楽であるとして推奨され、庶民全般の馴染みぶかい民踊といわれ、各地の盆踊りにも取り入れられて盛大に催されている。
03 三百
郡上の宝暦騒動は、前後五年にも及んで、駕籠訴や箱訴をおこなうまでに進展した。その結果、百姓一揆の主たった者は処刑され、城主の金森家も改易されるに至った。
その後を受けて、郡上・越前のうち四万八千石を給せられた青山幸道は、こうした物情騒然たる藩内の情勢を警戒し、政治対策には一段と腐心したようである。宝暦九年(一七五九)六月、丹後の宮津から入部に際して、供の者の長途の労をねぎらい、また藩内から出迎えた者にもその志をめでて、三百文づつを与えたといわれている。
それに感激した里入たちが、湧きおこる声とともに欣喜雀躍して、そのころに踊られていた地踊りを思わず披露におよんだといい、その踊り姿が「三百」とよばれるようになったのである。
04 春駒
八幡城の領主遠藤慶隆は、天正年間(一五八二ころ)郡内の馬を城下に集めたといわれている。それは畜産奨励の意味と、戦国の余塵がただよっていたので、軍馬徴発の必要性があったからであろう。
毛付市(徴馬の制)は、毎年土用入り後七日目(七月二十七、八日ころ)に、八幡城一之門前の芝野で検査を受け、一定の基準に合格した馬は、その印としてタテガミの一部を刈り取って門内に入れ、さらにその中から所要の軍馬頭数を徴発した。徴収される馬には高価な代償を与えて、馬の飼育を奨励したという。また徴発もれとなった馬は、翌日からの馬市場で売買され、タテガミ落しの馬は特に高値を呼んだ。この毛付市へは他領から入ってくる者も数多く、相当な賑わいであったことが想像される。
この毛付駒に鞭打って走る勇ましい姿が、威勢のよい踊りの動きとなったものであり、宇治川の先陣争いの名馬磨墨以来、馬にゆかりのふかい郡上の地にふさわしい、活気にあふれた〝郡上マンボ〟ともいう踊りである。
05 猫の子
郡上地方の農家では田畑が少ないので、古くから養蚕が副業の第一として盛んに行なわれてきた。昔から伊勢神宮の神職の装束を織る糸には、主として郡上の生糸が用いられたという。平安時代からの「延年舞い」で有名な、白山長滝神社における豊蚕祈願祭は、養蚕農家の信仰をあつめ、豊作のために長滝花を授かるというものであった。
養蚕農家の多い郡上では、猫を飼うところも増え、猫は蚕を食い荒らす猟取り用とし、あるいは愛玩用としても可愛いがられた。
子猫のあいらしい所作をまねしたこの踊りは、若い衆たちが在来の踊りに飽き足らないで、即興的に唄い踊ったものと思われ、歌詞にも字足らずや字余りがみられ、また方言も入っており、足腰を奔放に動かす愉快なものである。
06 さわぎ
元禄時代に流行した騒歌は、遊里で三味線や太鼓を用いて賑やかに唄ったものであり、また地方での騒ぎは、酒宴などで賑わしく唄い踊ったことをいったものである。
江戸中期以降には、郡上の領主も城下町の商工業を盛んにするために、各地から商人や職人を招いて店や仕事場を開かせ、これらには特別に運上を免じて保護したので益々繁栄をつづけた。
さわぎの歌も、他所からの出入りを許された旅芸人などによって伝えられたものであろう。郡上ではこの踊りに三味も太鼓も入れないが、派手な手拍子と、ことさらに踏み鳴らす履物の音が勢いよく響いて、見物衆を興奮させる。歌詞には男女間の情緒を唄ったものが多いようである。
07 甚句
甚句という盆踊り歌は、地の句が訛ったものといわれ、各地の歌詞にもその地方で唄いつがれたものが多い。
また一説には、越後国の甚九という人が始めたものだともいわれている。詩形はほとんど七・七・七・五調からなるもので、囃子詞や節回しはそれぞれに異っており、郡内でもまちまちである。
江戸時代末期から流行したといわれる相撲甚句は、力士が土俵で余興に唄ったもので、この囃子詞は「ドスコイ、ドスコイ」であるが、郡上甚句は「トコ、ドッコイ、ドッコイ」となっている。
08 げんげんばらばら
郡上領主青山氏の時代に、城下である殿町に屋敷を築いて下御殿と称した。領主は在国中の多くをここですごし、本丸へ行くのは式例のときだけであったという。
げんげんばらばらは、御殿女中の手毬突きの様子が、優雅な踊り姿になったもので、歌詞の元歌は古くから郡上地方で一般に唄われていた、童歌とか糸引きの座繰りの歌であった。手毬突き遊びには数多くの歌詞を必要としたので、口説調の盆歌や子守歌などもうたわれ、また各地の珍らしい歌も取り入れられたものである。
したがって、歌い始めの「……何事じゃ」は、今度の歌はどんなことかという問いかけであろう。その題意は、子供の片足跳遊びのケンケンが、雉子の鳴声と混同し、羽根をばたつかせて子を思うところから「ケンケンバタバタなぜ鳴くね、親がないか子がないか」という手毬歌として唄われるようになり、これが訛ったものであるともいわれている。
09 やっちく
承応の時代(一六五三ころ)から、四竹打ちといって、扁平な竹片を両手に二個ずつ持って打ち鳴らしながら、小唄や踊りをすることが流行し、これを願念坊主(ちょんがれ)といった。
四万八千石の城下町として栄えた郡上八幡へは、江戸末期になるといろいろな旅芸人が入りこみ、中でも両方の手に八枚の竹片を連ねて打ち鳴らしながら「鈴木主水」や「八百屋お七」の祭文を哀調をこめて門付して唄い回ったのが、人々の共感を呼んで踊り化したといわれている。
歌詞には、この土地が生んだ責重な歴史である、「郡上宝暦義民伝」や「郡上藩・凌霜隊」なども作られており、囃子詞の「アラ、ヤッチクサッサ」は(あら、八竹サが来た)という、それがそのものずばりの題名になったと思われる。
10 まつさか
江戸時代に盛んに行なわれていた、伊勢神宮へのお陰参りで、諸国から集ってくるその参詣者たちが、伊勢の古市あたりで習いおぼえた「木遣」の 松坂越えて坂越えて坂の峠で日が暮れて……。という木遣音頭を、郷里へ帰ってから、その土地の盆踊り口説きに同化してひろめたものといわれている。
郡上の「まつさか踊り」の囃子詞にある「ア、ヨイヤナ、ヤートセ」は、伊勢音頭の「ヤートコセ、ヨ―イヤナ」の変化したものである。踊りの手振りや足の運び方が比較的単調であるのに、長い伝統をもっているということは、その歌詞が諸種の語り物から、地元の名所案内や、郷土の伝説などにつながる口説節になっていて、多くの人々から愛着をもって迎えられているからであろう。
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