沖縄の歴史上人物 吉屋チルー③
沖縄の歴史上人物 吉屋チルー③御茶屋御殿
吉屋チルーは17世紀頃に存在したといわれている琉歌人で、幼いときに遊廓へ売られ、ある男性と恋仲になるが裂かれ18歳で自死したと伝えられている。
御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)はかつて琉球王府の別邸で、国王が遊覧し冊封使などを歓待した場所であった。御茶屋御殿を主題とした吉屋チルーのものとされる琉歌がある。
(琉歌)拝(う)で拝(うが)んぶしゃ首里天加那志(しゅゆゐてぃんじゃなし)遊(あそん)で浮(う)ちゃがゆる御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)
(意味)拝顔すると去り難いのは首里の国王様であり、宴席で去り難いのでは御茶屋御殿である。
「御茶屋御殿」は1677年に作られ、茶道、生花、武芸などの様々な芸能が行われ、敷地内には望仙閣・能仁堂・茶亭が並び、周辺には築山や池、石造物が配されるなど、独特の意匠を凝らした庭園造りがなされていた。敷地の北側(現在は城南小学校が所在する場所)には菜園が広がり、そこでは様々な薬種の栽殖が行われていた。
御茶屋御殿の建造物は第二次世界大戦で全て破壊され、現在はカトリック首里教会および付属幼稚園、一部城南小学校が建ち、当時の面影を感じることはできない。私有地のため、教会入り口には「御茶屋御殿見学の際は教会事務所へ一声かけるように」との注意書きがある。
2000~2005年度に御茶屋御殿周辺の発掘調査を沖縄県立埋蔵文化財センターが実施し、報告書(沖縄県埋蔵文化センター 2003『御茶屋御殿跡遺構確認調査報告書』)を公開している。
第二次世界大戦によって破壊された「御茶屋御殿」の玄関前約40mの岩陰にあった石獅子は、1979年に戦前の写真をもとに修復され、1986年に那覇市指定文化財(有形民俗文化財)「御茶屋御殿石獅子」として登録されている。その後、石獅子のあった岩陰ががけ崩れの恐れが生じたため、現在は、御茶屋御殿より450m先、徒歩6分程度の「雨乞御嶽」付近に移さえている。石獅子と「雨乞御嶽」周辺は首里が一望できる展望台を備えた「首里崎山公園」として整備されている。
資料(メタデータ)