飛騨の史跡 ~ 江戸伝馬町牢屋跡(大原騒動受刑者) ~
飛騨の史跡 ~ 江戸伝馬町牢屋跡(大原騒動受刑者) ~
伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷因獄へ移転までの江戸の牢獄であった。
面積は2,600坪余。大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏が収容されていた。また独立の牢獄として揚座敷が天和3年(1683年)に設けられ、御目見以上の幕臣(旗本)、身分の高い僧侶、神主等が収容された。身分の高い者を収容していたため、ほかの牢より設備は良かった。
大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていたが、犯罪傾向が進んでいることが多かった無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪影響を与えるのを避けるため、宝暦5年(1755年)に東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになった。また安永5年(1775年)には独立して百姓牢が設けられた。女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容された(女牢)。
<飛騨の百姓が収監される>
安永2年(1773)4月下旬、飛騨の大原騒動の首謀者嫌疑により大沼村久左衛門、町方村治兵衛に江戸への出頭命令がきた。2人は江戸に着くとすぐに伝馬町牢屋に入れられてしまう。同年6月8日、町方村治兵衛牢死。8月8日には町方村治兵衛が牢死した。そのようなことがあってか、後安永5年には百姓専用の牢が設置された。
二人の死亡後、北品川の宿では飛騨の百姓たちが駕籠訴の相談をしている。安永2年7月26日、江戸で駕籠訴が決行されている。