【研究】郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける地域資源の記録・管理法の研究
【研究】郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける地域資源の記録・管理法の研究
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブでは、郡上白山文化遺産の世界遺産登録への整備と新たな観光資源の発掘を目的とし、建造物、建築物群を含めた伝統文化遺産の新たな観光資源の発掘、衰退する白山文化遺産の記録、白山文化遺産の県域(岐阜・石川・福井)を超えた白山文化遺産デジタルアーカイブの構築を進めている。
しかし従来の地域資源のデジタルアーカイブでは、記録した地点や時間が不明で、活用することが困難であった。そこで、記録や管理の方法について研究することにより、活用しやすい記録・管理の方法を開発する。
第1章 緒言
地域資源のデジタルアーカイブとしての構築を進めていく中で、知的創造サイクルを実現するためには、それを有効的に活用できる形で記録・管理する必要があると考えた。デジタルアーカイブの授業を通して学んだことを生かして、白山文化遺産の失われていく地域文化芸能を記録することにより、世界遺産への登録支援を行う。
第2章 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける記録・管理方法
① 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブ
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブでは、郡上白山文化遺産の世界遺産登録への整備と新たな観光資源の発掘を目的とし、建造物、建築物群を含めた伝統文化遺産の新たな観光資源の発掘、衰退する白山文化遺産の記録、白山文化遺産の県域(岐阜・石川・福井)を超えた白山文化遺産デジタルアーカイブの構築を進めている。
② 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブにおける記録・管理方法
従来の地域資源デジタルアーカイブでは、写真と場所を説明するメタデータ、位置情報、撮影日を記載している。メタデータに記されているものは大まかな場所や歴史などである。位置情報はクリックするとGoogle mapで詳細を確認することができる。
また、管理方法については記録した順に郡上白山文化デジタルアーカイブのページに管理している。
③ 地域資源デジタルアーカイブにおける記録管理の問題点
はじめに記録方法の問題点について述べる。複数枚の画像が並べられているため、記録した地点が不明である。また、どの写真が何を示しているのかが不明である。建造物単体で撮影すると、その場所の中のどこにあるものなのか、位置関係がわかりづらい。一方向から撮影されたものでは、横から後ろから見た様子が不明である。位置情報はGoogle mapで把握することができるが、実際にどのような場所に位置しているのかは分かりづらい。撮影日は記載されているため、季節は分かるが、時間帯までは不明である。
次に管理方法における問題点について述べる。郡上白山文化デジタルアーカイブのページに一括でまとめられているため、データを開かなければ、岐阜県・石川県・福井県のうち、どこで撮影されたものか、またいつ撮影されたものなのかが不明である。今後も記録データは増え続ける一方で、データを検索し、活用しようとする際に時間がかかることが問題点である。
第3章 新たな地域資源デジタルアーカイブの記録管理手法
① 新たな地域資源デジタルアーカイブの記録手法
はじめに多方向からの撮影により、どのような場所に位置するのか明らかにするため、Google mapだけではなく画像データを載せる。記録する場所に入る前に、周囲8方向を撮影し、道路や周辺の建物も記録する。また、記録場所の中に入った時に再度周囲8方向を撮影することにより、どのような場所なのか、どこに何が所在するのか、位置関係も明らかにする。
次に多視覚での撮影により、正面から見た情報だけでなく、周囲8方向から見た情報を得ることができる。どのような建物なのかがわかりやすくなる。
また、カメラの時間情報を利用し、記載することで撮影日だけでなく、撮影した時間帯も明らかとなる。
② 管理方法
管理方法については、岐阜県・石川県・福井県で分けることにより、どこに何が所在しているのかすぐにわかる。
日毎に管理すると、例えば同じ場所であっても、冬に撮影したものが必要な時に、検索し活用することが容易となる。
第4章 新たな地域資源デジタルアーカイブの試行
既に記録されている地域資源を再度活用しやすい形で記録・管理する。世界遺産登録への整備に向けて今後の記録・管理方法を試行する。
長滝白山神社
長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町長滝に鎮座する神社である。日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。
明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、明治時代の神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離された。神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである(参道から左側が長滝寺、右側が長滝白山神社)。
社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。宗教法人としての登録名は「白山神社」。旧社格は県社。
伝承によれば、養老元年(717年)、白山中宮長滝寺として泰澄が創建したとされる。同6年には同寺にて元正天皇の病気平癒を祈願して効験があったことから、元正自作の十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の本地仏を安置し、白山本地中宮長滝寺に改称したという。
天長5年(828年)にはそれまでの法相宗から天台宗寺院へ改宗。同9年には白山三馬場の一つになる(『白山之記』)。馬場とは禅定道の起点のことであり、白山三馬場とは、美濃国の白山中宮長滝寺、加賀国の白山寺白山本宮(現白山比咩神社)、越前国の平泉寺白山神社である。平安時代の長滝寺は、白山三所、若宮社、大講堂、鐘楼、護摩堂、神楽殿、三重塔、法華堂、薬師堂など30以上の堂宇が建ち、6谷6院360坊を有していたという。文永8年(1271年)には火災により半数の建物を焼失。正応3年(1290年)には本殿が再建された。
宝徳2年(1450年)には比叡山延暦寺西塔院南尾一切経蔵院の末寺となる。
江戸時代には白山嶺上の管理を巡り、美濃馬場の白山本地中宮長滝寺、加賀馬場の白山寺白山本宮、越前馬場の平泉寺との論争が起きる。日本全国の白山神社の半数以上が白山本地中宮長滝寺系統の白山神社であったという。
慶応4年(明治元年、1868年)、神仏分離令により、長滝白山神社と長瀧寺に分離した。白山本地中宮長滝寺の建物のうち、白山三社、拝殿は長滝白山神社となり、大講堂、薬師堂、弁天堂、鐘楼、経蔵などは長滝寺となる。明治32年(1899年)に火災で社殿を焼失し、現在の建物は大正時代の再建である。
長滝白山神社、長瀧寺、阿名院が共同で設置した宝物殿(瀧宝殿)は、2018年(平成30年)に郡上市に寄附され、郡上市の施設白山瀧宝殿となっている。
参道入口
いにしえの参詣者たちも通った白山中宮長瀧寺の入口
「天台宗 白山長瀧寺」「表本宮 白山神社」と記された石柱が並ぶ姿に、神仏習合の名残が感じられる。
表参道
神社境内へと続く参道の両側には、昔は多くの僧坊が建ち並んでいた。
宿坊・坊中
かつての宿坊であった経聞坊、宝幢坊の建物が当時の様子を今に伝えている。
金剛童子堂
長滝を起点とする行者道から白山を目指す人たちが入山のための儀式を行った場所。金剛童子堂の前には、峯入り儀式のための護摩壇が残されている。
入口
白山瀧宝殿
長滝白山神社・白山長瀧寺・阿名院の三社寺の文化財を納めた収蔵施設である。白山長瀧寺所蔵の国の重要文化財である「釈迦三尊像と四天王像」などが拝観できる。
石灯篭
境内の中央に建つ石塔籠は、鎌倉時代の正安4年(1302)の寄進銘が刻まれており、国の重要文化財に指定されている。
境内
牛王石
長滝白山神社境内にあるこの石は白山中宮長瀧寺ができる前からあるとされ、石徹白の白山中居神社の磐境同様に、太古の自然信仰に基づく紙が下りる場所であったともいわれている。
参集殿
境内周囲
拝殿周囲
拝殿
現在の拝殿は、明治32年の大火で本殿と共に焼失したものを大正年間に再建したものである。ここでは毎年1月6日に「六日祭」が行われ、「長滝の延年」の舞と、拝殿天井に吊られた花笠の花を奪い合う「花奪い」が行われる。
本殿
長滝白山神社は明治初年の神仏分離までは白山中宮長瀧寺として長瀧寺と一体で東海地方の白山信仰の拠点として栄えた。本殿の三つの社は、中央に白山御前峰、東に別山、西に大汝峰(越南智)のご祭神が祀られている。
白山長瀧寺大講堂
天台宗の寺院、白山長瀧寺の大講堂。かつては長滝の僧侶たちが集まって法会を開き、仏教経典を学んだと伝わる。明治32年の大火で焼失する前は、本尊として大日・釈迦・阿弥陀の3如来と四天王などを祀り、神社拝殿とは渡り廊下で繋がっていた。
宝篋印塔
白山千ヶ蛇池
三重塔跡・開山堂跡
白山瀧宝殿の木造釈迦三尊像が安置されていたとされる三重塔が建っていた場所。塔は中世の大地震や大風により倒壊し失われたと伝えられる。また、塔に隣接して白山を開山した泰澄大師を祀る開山堂があったと伝えられる。
常行堂跡
かつて長滝の僧侶たちが修行を行った建物として、常行堂と法華堂の二つの建物が建っていたと言われる。
行者の小径
入峯堂跡
白山で修行する修験者たちが、山に入るために7日間の修行を行ったとされるお堂があった場所。山伏たちは、ここから山中の修行場を巡り白山へ登った。
経蔵(薬師堂)
古い絵図では薬師堂として描かれ、江戸時代には宋版一切経の経蔵ともなっていた場所。明治時代の大火で焼失した後、薬師如来像を祀る薬師堂として再建された。
弁財天
白山中居神社
白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町石徹白に鎮座する神社である。伊野原の郷には、9000年前より人々が住み着き(島口遺跡確認)、本社は縄文時代より、磐境に国常立尊の降神を仰ぎ、祭祀が斎行されたのが始まりで、現在は、七月第三日曜日の夏祭りに、石徹白創業祭が、磐境神事として、執行されている。ご本殿の創設は、景行天皇12年(83)に、白山の真南は、宮川の上流、長龍滝と短龍滝の間、朝日直射し、夕日輝く処に、伊弉諾尊を祀り給えのご神託のあったのが、正月中の日であった。養老元年(717)越の大徳泰澄大師が白山を開闢の時、当社に3年間滞在し、別山を上社とし、中居神社を下社とした白山参道並びに、中居神社を整備なされた。鵜葺草葺不合尊の二の峰社・神鳩社・今清水社・美女下社等も含めて、神仏混淆となり、鳥居も両部鳥居になった。
駐車場
大鳥居周辺
神仏習合の面影を残す両部鳥居。
鳥居から宮川橋まで
宮川橋(布橋)
鳥居と境内の間を流れる宮川は、世俗の世界と神の世界の境界と言われていた。
境内
大宮殿
西相殿
東相殿
本殿
昔、山中の古喜美(こきび)、名を武比古(たけひこ)が、正月15日に、夢のお告げを授かりご本殿を建てたのが始まりと伝えられている。
時恰も、景行天皇の12年壬午年(83年)6月15日にして、吉備武彦命国家鎮護のため伊邪那岐の大神をこの地に祀られた文献の併設に始まる。
その後、元正天皇の養老年中、国の大徳泰澄白山を開かれる時、社殿を修覆され、社域を拡張されましたが、神仏混交の元ともなった。本殿の彫刻は江戸時代の作で県重要文化財に指定されている。
御手洗大磐・夫婦磐
長龍泉(長走滝)から短龍泉(イカダバの滝)までの渓流を宮川といい、その中ほどにある御手洗大磐には、水神、瀬織津媛が祀られていて訪れる人達の心をきよめ、ひでりを救ってくださると伝えられている。
ひと昔前までは、宮川は姫神が鎮座される渓流として白山へ登る人や、神社へお詣りする人は、橋を渡るときには川へ賽銭をささげて渡っていたそう。
浄安杉
白山中居神社の裏山にある大きなスギで、地上1.8mのところで幹が2幹に分かれた姿が特徴である。
注連張
上在所の入り口、神様の領域といった注連縄の印がある。上在所は中居神社の社域となり、そこで生活する人たち(社家・社人)を清めるためのしめ縄で、注連張を通ることで清め祓われるということである。
石徹白は雪の多い土地であり、普通の神社は鳥居を設けるが、鳥居の代わりに注連縄を設けたという言われもある。
白山比咩神社
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町にある神社である。白山比咩神社は、全国三千余社の白山神社の総本宮であり、加賀の国の一ノ宮として篤い崇敬を受け、「白山さん」と呼ばれて親しまれている。
石川、福井、岐阜の3県にわたり高くそびえる白山は、古くから霊山信仰の聖地として仰がれてきた。ふもとに暮らす人々や遥かに秀麗な山容を望む平野部の人々にとって、白山は聖域であり、生活に不可欠な“命の水”を供給してくれる神々の座であった。
やがて山への信仰は、登拝という形に変化し、山頂に至る登山道が開かれた。加賀(石川県)の登拝の拠点として御鎮座二千百年を越える白山比咩神社は、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮である。
表参道駐車場
一の鳥居
神域への玄関にあたる鳥居。曲線を用い、装飾を施した明神型の大鳥居は高さが6.4mもあり、石造りでは日本有数の大きさである。この鳥居は、昭和11年(1936)に建てられたものですが、白山比咩神社には長らく鳥居がなく、白山七不思議のひとつといわれていた。一の鳥居の奥に、杉や欅(けやき)、楓(かえで)などの樹木に覆われたおよそ250mの表参道が続く。
表参道
琵琶滝
表参道の中ほどにある滝。清冽な谷水を手取川に注いでいる。
御神木(老杉)
表参道手水舎前にあり、注連縄が掛けられている。根元の周り約12m、胸高幹周り約10m、樹高約42mの巨木で、樹齢はおよそ800年といわれている。(白山市指定天然記念物)
手水舎
清冽な水があふれる手水舎。建物の柱には、神社のある旧鶴来地区ゆかりの木彫りの獅子がある。表参道、北参道、南参道の3カ所にそれぞれ趣の異なる手水舎がある。
・表参道
・南参道(亀岩)
・北参道
二の鳥居
三の鳥居
大ケヤキ
境内神門前にあり、堂々とした姿が目を引く。胸高周り約5m、樹高25m、推定樹齢は1000年と伝わっている。(白山市指定天然記念物)
神門
一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居をくぐった先にあり、神門越しに望む拝殿は風情が感じられる。
神馬舎
白山比咩大神を乗せて白山に登拝するといわれる神馬の姿を、白山麓の大欅を素材に奉製。絢爛豪華な装飾が見事である。
荒御前神社
神門の傍らに鎮座する境内摂社。荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神の4柱が祀られている。荒御前大神は、『日本書記』の中に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵した際、守護した神として登場する。
1
白山奥宮遥拝所
離れたところから白山山頂の奥宮を拝む遥拝所。神門をくぐった右側にあり、大汝峰、御前峰、別山の「白山三山」の形をした大岩が祀られている。毎月1日と15日の月次祭(つきなみさい)では、神職による遥拝が行われている。
外拝殿
切妻造り、銅板葺き、檜造りの優美な姿の外拝殿。もともとは、大正9年(1920)に建てられた旧拝殿であったが、昭和57年(1982)の増改築で外拝殿になった。その後ろに、直会殿(なおらいでん)、拝殿、幣殿(へいでん)、本殿までが一直線に並ぶ。
御神木(三本杉)
昭和58年(1983)の5月21日に石川県で開催された「第30回全国植樹祭」において、昭和天皇が境内の杉の種をお手まきされた。この杉は、その時の苗木を御神木として植樹したものである。
遊神殿
平成20年(2008)に御鎮座二千百年を迎えたことを記念して、平成19年に新築された。参拝者の受付、控室、休憩所として利用されている。
社務所・授与所
参集殿
南参道
禊社・禊場
体を清め、罪やけがれを洗い流す場。平成18年に造られた禊場には、白山の伏流水を利用した滝もあり、荘厳な雰囲気が漂う。
吉住社
禊場の横に鎮座する境内末社。住吉社は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から戻って禊を行った際に生まれた底筒男尊(そこつつのおのみこと)、中筒男尊(なかつつのおのみこと)、表筒男尊(うわつつのおのみこと)の三柱をご祭神とし、禊祓いの神として崇敬されている。
南参道駐車場から三宮交差点まで
北参道駐車場
白山比咩神社宝物館
古来朝廷を初めあまねく上下の信仰崇拝の対象となってきた名社であり、宝物・什器の珍重すべきものが多くある。多数の宝物は「国宝」または「重要文化財」等に指定され、日本の歴史と伝統を物語る貴重な文化財として保護されている。
車祓所
白水霊水
延命長寿の霊水として名高い白山水系の伏流水。北参道手水舎横に湧き出ており、遠方から水を汲みに来られる。
白光苑
昭和33年(1958)に境内の北東に造られた自然にあふれた庭園。鬱蒼(うっそう)とした木々が一帯を覆い、静寂な雰囲気が漂う。
芭蕉句碑
元禄2年(1689)に、奥の細道の途次の松尾芭蕉が、白山の姿に感銘を受けて詠んだ句が刻まれている。『風かをる 越(こ)しの白嶺(しらね)を 国の華 翁』
平泉寺白山神社
平泉寺白山神社は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺に鎮座する神社。養老元年、越前の僧泰澄によって開かれたとされる。平安時代後半には天台宗比叡山延暦寺の末寺となった。戦国時代には四十八社、三十六堂と、六千の坊院が建ち並び、自領は九十石・九万貫、僧兵は八千を数えたと伝えられる。天正2年(1574)に一向一揆の攻撃を受けて全山が焼失した。後に再興されたが、境内はもとの一割ほどにすぎなかった。明治始めには神仏分離令に基づき寺号を廃して白山神社と改めた。平成元年(1989)から始まった発掘調査では、白山神社境内から数百メートル離れた山林や田畑の下から、なだらかな斜面を階段上に造成した坊院跡(僧侶の住居跡)や、縦横に張り巡らされた石畳道が発見され、中世「宗教都市」としての姿が明らかになってきた。
下馬の大橋
菩提林の入り口に橋がある。この橋は下馬の大橋と呼ばれています。人々はここで馬を下りて、川で汗をぬぐい、身を清め、ここから先は歩いてお参りした。川でみそぎをしている姿が古い書物に描かれている。
菩提林
修行の場へ至る参道入り口から続く林は菩提林と呼ばれてきた。菩提とは、煩悩を断ち切り悟りの境地へ至ることを意味する。杉の大木だけではなく、高山にしかないブナの大木や珍しい沙羅やヤマナシの老木もある。千年の歴史を感じさせる厳粛な雰囲気である。
旧参道
菩提林に700メートル続く石畳の参道は、千年前から現存する道路である。石畳に使われている石の裏には法華経の文字が書かれており、僧達が経文を唱えながら女神川(おながみがわ)から手渡しで運んで石畳を作ったと言われている。石畳の道はかつてもっと奥まで続き、西念寺の横を通り坊地の池の奥あたりまで続いていた。石畳は、1986年(昭和61年)に日本の道100選に指定された。
牛岩・馬岩
その昔、昼でも暗い菩提林の中を参拝者が進むと、大きな牛と馬が道いっぱいに横たわっていて遮っていた。たいていの人は逃げ帰るが、ある男が毎晩牛と馬を飛び越えてお参りを続けた。夜が明けると牛と馬の姿はなく、道の両側に二つの大岩になっていたという言われのある岩である。
鳥吠小路
白山平泉寺に身を寄せた源義経一行に対し、当時の長吏が「明朝、朝一番に鳥が鳴いたら門が開く(ので早く出立しなさい)」と伝え、一行を逃したという小道。
結神社
この中には二つの大きな石が祀られている。二つ同時に天から降ってきたものと伝えられ、縁結びの神様とも言われている。
常夜灯
昔は毎晩あかりが灯された。村の若者が「良いお嫁さんをもらえるように」と願いを掛けて石をひろい常夜燈の傘の上に向かって投げたと言う。傘の上に石がのると願いが叶うそと言う。
泰澄大師廟
平泉寺白山神社を開かれた泰澄大師の供養塔。室町時代に作られたもので、高さは1メートル47センチあり、その時代の供養塔としてはたいへん大きなものであった。泰澄が平泉寺を開き、修行の日々を過ごしたので建てられたもの。泰澄大師の墓は越前町にある大谷寺(おおたんじ)にある。供養塔の前にある石は、「弁慶の足跡」と呼ばれている。塔を背にして立つと足が速くなると言われている。しかし、塔の方に向いて立つと足が遅くなるとも言われているので注意が必要である。
顕海寺
1574年(天正2年)一向一揆により全山焼失したが、その難を逃れた賢聖院(げんじょういん)の顕海僧正(けんかいそうじょう)は9年後二人の弟子と共に平泉寺を再興した。後に顕海は玄成院(賢聖院の漢字表記が変わる)を弟子の専海に譲り、自ら隠居寺にした寺が顕海寺である。
駐車場から精進坂まで
精進坂
昔はこの坂より上には魚の持ち込みは禁止されていた。菩提を求めて身を清め慎むということで「精進坂」と呼ばれてきた。
一の鳥居
一の鳥居から二の鳥居まで
白山神社社務所
一向一揆で平泉寺が焼失した時、難を逃れた顕海僧正が9年後に戻ってきて住まいとしたのがこの玄成院。現在は社務所でお札やお守り、朱印を受けられる。
国名勝 旧玄成院庭園
500年ほど前、室町幕府の将軍を補佐した管領 細川高国(ほそかわたかくに)による作庭と伝えられ、昭和5年(1930)旧文部省により国の名勝の指定を受けている。社務所横の入り口から庭園に入ることができる。入場料50円。
飼葉料
桃山時代、拝殿の内に掲げられている絵馬から夜中に神馬が抜け出して村の田畑の作物を喰い荒したので、この場所を馬の飼葉料にしたと伝えられている。現在も草を刈り残している。
御手洗池
平泉寺の名称由来の池。泰澄が清水の湧く地に向かい祈っていると、一人の女神が現れ「私の本当の姿は白山の頂上にある。早く登ってきなさい」と告げ、泰澄は女神の導きにより白山の頂上を目指した。この池は昔「平清水」(ひらしみず)と呼ばれ、平泉寺の呼称のもととなっている。女神の立たれた岩は池の中央にあり「影向岩(ようごいわ)」と呼ばれている。
御神木
三又に分かれた杉は泰澄のお手植えと伝えられている。幹が途中から3つに分かれ、白山三山(御前峰・大汝峰・別山)を象徴していると言われている。
八幡神社
二の鳥居
この鳥居は両部鳥居で、神仏習合の形式である。鳥居は一向一揆で消滅したが、1778年(安永6年)に再建された。中央の額には「白山三所大権現」と書かれており、中御門天皇の皇子・天台座主・公遵法親王の筆と伝えられている。鳥居の中央に屋根がついているのはこの額を護るためである。額内の三所とは白山の御前峰、大汝峰、別山 を指している。二の鳥居をくぐると白山神社拝殿が見える。
かおり風景百選
正面の額に「中宮平泉寺」とある拝殿は、江戸時代に作られた寄棟檜皮葺(よせむねひわだぶき)で平安時代の風情を残している。1574年(天正2年)の一向一揆で全焼する前の拝殿は、幅が46間(およそ83メートル)あったようで京都の三十三間堂より大きな建物であった。左右に点在する礎石が当時の大きさを物語っている。
拝殿の中には十数面の絵馬があり福井藩主松平家の奉納品が多く、ほとんどが勝山市の文化財に指定されている。その中でももっとも古い絵馬は1598年(慶長3年)のものである。
拝殿から本社まで
本社
白山の主峰である御前峰の神・伊弉諾尊(いざなみのみこと)をお祀りしている。本社は1795年(寛政7年)に第12代福井藩主・松平重富により再建された。総欅(そうひのき)の入母屋造榑葺(いりおもやづくりくれぶき)。外観は白木造りですが、内部は美しく彩られている。
御本社を中心に右に別山社、左に越南知社を配するのは、白山を構成している3つの山と神々をあらわしている。今は失われているが、中世から近世にはさらに金釼社(かなつるぎしゃ)と加宝社(かほうしゃ)が加えられ、五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であった。
本社の内扉は33年に一度開けられる(御開帳)。次の御開帳は2025年(令和7年)5月である。
昇り龍・降り龍(くだりりゅう)
唐破風(からはふ)を支える柱に見事な昇り龍と降り龍の彫刻が施されている。
別山社
本殿に向かって右の社を別山社といい、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祀っている。天忍穂耳尊は、天照大神(あまてらすおおかみ)の子、天孫降臨された瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父にあたる。
越南知社(おおなむちしゃ)
本殿に向かって左の社。大己貴尊(おおなむちのみこと)を祀っています。大己貴尊は大国主命(おおくにぬしのみこと)とも言う。
本社から三の宮まで
開山社
納経所跡
平安の頃より六十六部といって滅罪の経典である法華経を写経し、その一部ずつを日本六十六ヶ所の神社に納めながら諸国を巡礼した。とくに江戸時代には盛んに行われ、越前での納経所は当社だけである。境内にある結神社の傍らには「天下泰平 日月晴明」「大乗妙典六十六部廻國供養塔」と刻した石碑が現存している。
楠木正成の供養塔
かつてはここに三之宮の拝殿があった。楠木正成の甥の恵秀律師(えりゅうりっし)がこの拝殿でお勤めをしていると楠木正成が鎧甲の武者姿で目の前に現れたので、恵秀律師が不思議に思い調べてみると、この日に正成が湊川の合戦で戦死していたことを知る。その後恵秀律師は供養の石塔を建てた。1336年(延元元年)建立。
1574年(天正2年)の一向一揆の時に拝殿は焼失し、この石塔も一部失われたが、1668年(寛文8年)に福井藩主松平光通の奉納により補修して周囲に玉垣をもうけた。
三の宮
祀られているのは、栲幡千々姫尊(たくはたちぢひめのみこと)で安産の神様として知られている。参拝するとお産が軽くなるといういわれがあり、お参りの帰りに社務所で腹帯を求められる。
白山禅定道
三之宮の裏に泰澄大師が登ったとされる白山への登山道がある。この道を白山禅定道、または越前禅定道と呼ぶ。1996年(平成8年)に歴史の道100選に選定された。
謀反岩(むほんいわ)
16世紀中ごろ、大石垣を築くため、弟・玉泉坊が持つ大石に対抗し兄・宝光院がこの場所の岩を掘り出そうとした。朝倉義景が巨石を運び合う争いを収めたが、岩を運べなかった兄・宝光院がこの大岩の前で弟・玉泉坊を滅ぼす方法を企んだと伝えられている。
南谷発掘現場(みなみだにはっくつげんば)
1574年(天正2年)の一向一揆で平泉寺が焼失してから、多くの建物跡が土に埋もれてしまった。勝山市では平成元年から平泉寺の発掘調査を行い、これらの調査によって当時の生活様式や屋敷の大きさ、数などが明らかになってきた。昔の平泉寺がいかに栄えていたか発掘の成果については「歴史探遊館まほろば」に詳細を展示している。
南谷坊院跡
南谷の薬医門 出土した礎石と石垣をそのまま利用して坊院の門と土塀を復元した。
中世の石畳
山を切り開き、町並みを安定させるために石が用いられていた。坊院跡には中世最大規模の石畳が張り巡らされている。石垣には、石を割る技術「矢穴技法」の跡がある。
若宮神社・大杉
1574年(天正2年)の一向一揆で平泉寺が焼失した際に残ったという大杉のひとつ。
南谷発掘地から精進坂下まで
大地蔵跡
南大門跡
歴史探遊館まほろば
石徹白地区
上在所コミュニティー
上在所の集会所。5月から10月までの期間、毎週日曜日は青空市と喫茶店が開設されている。青空市では山菜や地元の採れたて新鮮野菜を販売している。
御輿宿(杜)
石徹白清住邸
白山信仰の色濃く残る家で御神前の間と御霊(みたま)の間が別々に作られている。御神前の間には天照大神と中居神社氏神様が、御霊の間には先祖が祀られている。
明治29年(1890年)に建てられ、築後119年が経過している。
石徹白大師堂
明治初年の神仏分離の際、白山中居神社などの仏像や仏具を祀るために建てられた。
奥州藤原秀衡の寄進と伝えられる「銅造虚空蔵菩薩坐像」は県下唯一の傑作といわれ、昭和43年に国の重要文化財に指定されている。
石徹白郵便局
威徳寺
石徹白農村センター
石徹白住民の集会場所。葬祭等にも利用されている。
JA-SS JAめぐみの石徹白SS
郡上市立石徹白小学校
石徹白小学校は全校児童12名、職員8名の小さな小学校。
一人一人の児童を大切にした、きめ細やかな教育が行われている。運動会、文化祭、スキー大会などは、地区の人々の協力のもと行われており地区全体で子供たちを育てていこうという暖かい小学校である。なお同じ敷地に石徹白保育園もある。
郡上市役所 白鳥高齢者保険福祉支援センター
高齢者の憩いの場であり、地域医療の場として利用されている。毎週月曜日午後に医師の来診がある。
城山跡
中世(16世紀末頃)の武将、児河合(こかわい)は初代石徹白城主であり神主であった。その石徹白城の城郭跡。
白川郷
白川郷・五箇山の合掌造り集落は、飛越地方の白川郷と五箇山にある合掌造りの集落群である。日本の原風景ともいうべき美しい景観をなすこの合掌造り集落が評価され、1976年に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、さらに1995年には五箇山(富山県)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
飛騨地域の中でも、村は山ひだが険しい地域となっており、その急斜面地の間を縫うように庄川が流れ、その流域に集落が形成されている。また、村は日本有数の豪雪地帯であり、かつて秘境と言われてきたのは、これが冬季に周辺との交流を遮断したからである。
であい橋
秋葉神社
白川八幡神社
和銅年間に創建されたという歴史ある神社。毎年10月14日、15日には「どぶろく祭」が開催され、訪れた参拝者にどぶろくが振る舞われる。人気アニメのモデルとなっており、足を運ぶファンも多い。
神田家
160年以上の歴史を刻む、風格ある合掌造り民家。間取りや小屋組み(合掌木)など、きわめて完成度の高い合掌造り家屋である。和田家から分家して居を構えたのが神田家の始まりで、ここで酒造業を興している。
和田家
白川郷の合掌造り集落で最大の規模を誇る和田家住宅は、式台付きの玄関など格式の高い造りを持ち、江戸時代初期と見られる建築文化の粋を今日に偲ばせている。和田家は、国の重要文化財にも指定されている。和田家は天正元年(1573)以来、代々「弥右衛門」の名を継ぎながら、江戸時代には名主(庄屋)や番所役人を務めるとともに、白川郷の重要な現金収入源であった焔硝(えんしょう)の取引によって栄えた。
明善寺
白川郷集落内の真宗大谷派の寺院。
鐘楼門
明善寺創建以来作られたもので飛騨の匠の作りで、延べ人足1425人を要したと記されている。
本堂
今から約260年前の延享5年創立。飛騨高山の国分寺の塔建立ゆかりの棟梁「水間字助」により木積され数年を要して建築された。
明善寺庫裡
およそ200年前の徳川末期に、飛騨高山の棟梁大工と地方の棟梁大工と、正副棟梁が協和して三年間の工作で完成したもの。釘、カスガイ等を一切使わず、クサビの他は「ネソ(マンサクの若木)」、「ワラナワ」でしめくくった特殊なもので、茅葺の切妻屋根は雪を落とすため、60度に近い急勾配になっている白川郷の5階建て合掌造りとして最大随一のものである。
萩町城跡展望台
展望台までの所要時間:シャトルバス約10分、バスターミナルから徒歩約20分。
JA/ATM
奥左エ門
白川郷で大正三年に建造された奥左エ門は、合掌造りではない和風建築の伝統的建造物。合掌造りで使われていた柱を使った母屋と増築した総ひのき造りで漆喰壁が特徴の書院座敷から成っている。
本覚寺
秋葉神社
村
せせらぎ公園駐車場
道の駅白川郷
地元の菓子や白川郷で生産された加工食品、飛騨の地酒など、品揃え豊かなお土産店。季節のメニューが人気の食事処。合掌造りの全てがわかる合唱ミュージアムを併設。
飯島八幡神社
10月18日~19日にかけてどぶろく祭りが開催される。