金山
金山
飛騨支路・金山
かなやま 金山<下呂市金山町>
益田(ました)・馬瀬(まぜ)両川合流点付近一帯。濃飛両国の境で、飛騨益田郡、美濃郡上(ぐじょう)・加茂・武儀(むぎ)の各旧郡の接する地。地名の由来は、昔当地で金が採鉱されたことによるという(金山町誌)。古くは「延喜式」にすでに「金山河渡子」が見えている。木曽川の支流飛騨川がその支流郡上川と合流する箇所に、金山湊(かなやまみなと)がある。
〔近世〕江戸期~明治22年は金山村。中切・井尻・奥金山とその対岸田淵の4支村があ る
〔近代〕 明治23年~ 金山町。はじめ武儀郡に所属。昭和3年国鉄高山本線延長工事が竣工して益田川対岸大船戸に飛騨金山駅が開設され、渡船に代わって金山橋新設。
〔近代〕金山 昭和30年~現在の金山町の大字名。昭和30年益田郡金山町成立に伴い、それ以前の金山町域をもって大字とする。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』238~239頁 角川春樹発行 昭和55年
金山の事情―尾張藩領と美濃―
関ヶ原の戦い後、尾張国の清洲に家康の4男松平忠吉(ただよし)が入部した。しかし忠吉は慶長12年(1607)に没したので、家康は代わりに9男義直(よしなお)を甲府から入部させた。家康は慶長15年(1610)から名古屋城築城を各大名に命じ、慶長17年(1612)に城は完成した。大阪の役後、名古屋城に立ち寄った家康は、義直に木曽山と木曽谷の支配権を与えた。翌元和2年(1616)に、義直は駿府から名古屋に移り住んだ。尾張藩では、元和3年(1617)を「お仕置き初め」といって、本格的な藩政が始められた年であった。
尾張藩が美濃国内に、最初に領地を与えられたのは、慶長17年(1612)であったが、本格的に美濃国内に領地が広がっていくのは大阪の役後であった。元和元年(1615)に木曽山の加増に伴い、木曽材運搬の拠点である錦織(にしこおり)(八百津町)・兼山・太田(美濃加茂市)などの村や町が、さらに長良川中流の上有知(こうずち)(美濃市)など、3万2,000石余りの領地が尾張藩に与えられた。さらに元和5年(1619)には岐阜町や美濃和紙産地の牧谷(まきだに)の村々や揖斐川三湊の村など4万8,000石余りが与えられたため、最終的には8万9,000石余りの領地を、美濃国内に領有することになった。また、美濃国内には尾張藩に付属させられた家臣の領地が3万7,000石余りあったので、合計すると12万7,000石余りの領地となった。今尾(平田町)には付(つけ)家老の竹腰氏、駒塚(南濃町)には同じく付家老の石河(いしこ)氏、八神(やがみ)(羽島市)には毛利氏、久々利(可児市)には木曽衆が、野上(八百津町)には稲葉氏がそれぞれいた。寛永期(1624~1644)以降、美濃国内で最大の大名は大垣藩(戸田氏)の10万石であったが、尾張藩は大垣藩よりも多くの石高を美濃国内で領有していた。経済的にも、交通の要地を押さえ、美濃国内では最大の大名となった。また元禄13年(1700)には、高須藩主として松平義行(尾張徳川光友の3男)が3万石で入部した。これによって高須藩は尾張藩の支藩となった。
尾張藩は美濃国内の経済や交通の重要な拠点を押さえていた。木曽谷や飛騨南(みなみ)方(かた)(宮峠以南)の材木を流して、集散地である木曽川の錦織(にしこおり)や、飛騨川の下麻()生(しもあそう)で、筏(いかだ)に組み、白鳥湊(名古屋市)に流した。中山道の宿場であった御嵩(みたけ)・伏見・太田・鵜沼も領有し、木曽谷と並んで中山道も押さえた。
長良川では上有知、生糸の産地として江戸中期以降成長する曽代(そだい)村(美濃市)、和紙の大矢田(おやだ)村・御手洗(みたらい)村・蕨(わらび)村(いずれも美濃市)などが尾張藩領であった。長良・木曽に挟まれた羽島地域で美濃縞地帯の在郷町の竹ヶ鼻周辺も領有していた。さらに、かつての美濃国の最大の城下町であった岐阜町は、関ヶ原の戦い後は城はつくられず、元和5年(1619)以降は尾張藩領になった。岐阜町は、尾張藩主の別荘地的な位置づけで、歴代の藩主は「岐阜御成(おなり)」と称して、鵜飼見物と金華山登山をした。また、寛永13年(1636)、長良川役所を早田(そうでん)村馬場から岐阜の中川原へ移し、上流からの材木や舟荷を管理した。
揖斐川筋では上・中流域は大垣藩が押さえていたが、揖斐川三湊は尾張藩が領有し、下流域は尾張藩の支藩である高須藩3万石が押さえていた。
尾張藩では領有する村々を国奉行配下の郡(こおり)奉行が支配していた。9代藩主宗睦(むねちか)の地方(じかた)制度改革で、陣屋を領内の拠点に設け、代官を常駐させて支配した。美濃国村々を管轄する代官所は北方(一宮市)、太田(美濃加茂市)、鵜多須(うたす)(愛知県八開村)、上有知(美濃市)などであった。岐阜町には岐阜奉行(通称岐阜町奉行)が元禄8年(1695)から任命されていたが、天明3年(1783)からは忠節村や早田村などの地方支配も命ぜられた。
<参考文献> 岐阜県編集『わかりやすい岐阜県史』252~253頁 岐阜県発行 平成13年