平安京 羅城門跡
平安京 羅城門跡
羅城門跡
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた。弘仁7年(816)に大風により倒壊し、その後に再建されたが、天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることがなかった。11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が『小(しょう)右(ゆう)記(き)』にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたと思われる。
付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていないが、東寺の木造兜(と)跋(ばつ)毘(び)沙(しゃ)門(もん)天(てん)立像(国宝)や三(さん)彩(さい)鬼(おに)瓦(がわら)(重要文化財、京都国立博物館寄託)はこの門にあったものと伝えられている。 平成20年3月 京都市
*説明版より
矢取地蔵尊
本尊は矢取地蔵尊。石像で右肩に矢傷の跡が残っている。左手に宝珠、右手に錫杖、矢を持つ。かつては矢負地蔵とも呼ばれた。
天長元年(824)、日照り続きで人々は飢えと渇きに苦しんでいた。そのため淳(じゅん)和(な)天(てん)皇(のう)の勅命により、東寺の空(くう)海(かい)(弘(こう)法(ぼう)大(たい)師(し))と西寺の守(しゅ)敏(びん)僧(そう)都(ず)が神泉苑の池畔で雨乞いの法会を行なった。
先に守敏が祈祷するも雨は降らなかった。対して、空海が祈祷すると3日3晩にわたって雨が続き、国土が潤った。
これにより守敏は空海を恨み、ついに空海を羅城門の近くで待ち伏せて矢を射かけた。すると1人の黒衣の僧が現れ、空海の身代わりとなって矢を受けたため、空海は難を逃れた。
空海の身代わりとなった黒衣の僧は地蔵菩薩の化身であったため、その後の人々はこの身代わり地蔵を矢取の地蔵と呼び、羅城門の跡地であるこの地に地蔵尊を建立し、長く敬ってきた。
現在の地蔵堂は明治18年(1885)に、唐橋村(八条村)の人々により寄進され建立されたものである。
*説明版より
資料集
124_132_平安京 羅城門跡