郡上長滝寺と飛騨匠
郡上長滝寺と飛騨匠
天台別院長瀧寺と藤原宗安
白山中宮長瀧寺は、奈良時代の養老年間(717-724)越前の僧泰澄の創建とされ、 平安時代から白山信仰の拠点となる。明治維新の神仏分離令で長滝白山神社と白山長瀧寺となり、 荘厳な伽藍殿堂が林立した白山中宮長瀧寺は、 明治32年(1899)4月10日の大火により堂社のほとんどが焼失したが、境内には石灯籠や堂塔の礎石など中世寺院遺構が点在する。幸い大正から昭和にかけて神社本殿と拝殿、長瀧寺の講堂などがもとの場所に再建され現在に至っている。
最初の大火は文久八年(1271) 10月にも神社仏閣十四棟、大講堂・鐘楼・経蔵は何も出せず全焼したが 40年後の応長元年(1311)七月四日に社殿再建に取り掛かる。
(以下は再建時の棟札に記載されていた)
上棟奉造立大講堂1棟 上棟
院主は唯性大徳 学頭(首席の教師)権律師の慶讃
大勘進(最高責任者の僧)法橋栄誠 小勧進(補佐)貞家大誠
惣在庁(役人の筆頭)阿闇梨光圓 並満山(寺全体)衆徒
大工肥前権守的宗里
飛騨権守藤原宗安
権大工は太郎太夫宗綱 孫太夫藤原宗行
音頭 右近太夫橘宗定 太郎太夫窓宗空 大工以上三十二人トアリ
1271年の焼失以来、明治32年4月10日に2度目の火災により再び焼失したのは真に残念だが、飛騨の匠として奈良時代に活躍した勾猪麿とこの鎌倉時代の藤原宗安の二人だけが史実として実在した飛騨の匠である。藤原宗安とその一統について「白鳥町教育委員会編集『白鳥町史 資料編』411^431ページ 白鳥町発行 昭和48年」に記録されている。