桂泉院
現在は田中の里にあるが、最初は法憧院曲輪にあった。開山は月哺禅師で、正平8年(1353)に時の城主であった高遠太郎家親が月哺禅師の高徳を聞き、城の鎮護の寺としたと言われる。その後、文禄元年(1592)に上野国松井田の補陀寺の住僧であった荊室広林が来て、どんな人でも出入りができる城外に移すよう勧め、清い泉の湧き出る桂の木の傍にうつして、龍澤山桂泉院と称するようになった。
梵鐘は県宝であり、勘助桜、仁科盛信の位牌堂、武田信虎の墓が伝えらえれ、守屋貞治の石仏などがある。
美篶刈る信濃の国上伊那の郡その名も高遠の里なる、龍澤山桂泉院の由緒をたづねまいらするに、今を去ること云々。
九七代後村上天皇の代丹波の国曹洞宗永澤寺の名僧月浦和尚、正平八年(1353)高遠の地に遍歴して来る。城主は木曽義仲六世の孫木曽又太郎家村の嫡子高遠太郎家親、和尚の高徳を聞き、城内に宝冠釈迦如来を安置し高遠城鎮護の寺とし、法瞳院と称す。開山月浦和尚、開基高遠太郎家親なり。
正親町天皇の天正元年(1573)甲斐の国主武田信玄の五男仁科五郎盛信公城主となり、板町村沖の平に存す諏訪大神を信仰し城内に遷宮、法腫院の僧に大神のお祭りも行わせる。
天正十年(1582)織田勢の攻勢により、仁科五郎盛信公の霊を弔い、霊牌を同院に納め。蒼龍院殿源晴清公成嶽建功大居士と血脈を誼号す。後陽成天皇の文禄元年(1592)二月二十九日群馬県松井田の大泉山補陀寺の十二世荊室廣琳大和尚高遠の地に来て法幡院に住す。その時の城主は内藤修理亮昌月で内藤修理信豊の子で和尚とは兄弟なり。これより大泉山補陀寺の末寺となる。
和尚の徳を仰ぎ、近隣の人々集まりしも城内にて誰でも白由に出入りできず、法化もできないので板町村龍ケ澤に庵を設けて住す。ある夜年たけたる翁ありて、戒法を授けてくださるように請い奉る、そこで「百丈野狐」の戒法を授けたところ、翁忽ち白龍となり桂ケ池のほとりに現れて、法施に清らかな泉を出しましょうと、高遠三泉の一「桂井の水」が湧きでて現在にいたる。和尚の高徳を聞き、城主昌月公村民とともに法腫院の堂宇を龍ケ澤に移し、その所の名をとりて、龍澤山桂泉院と命名す。
慶長五年(1600)三月二十九日である。中興開基内藤修理昌月。中興開山荊室廣琳大和尚。その後歴代の高遠城主に信仰され、十一月二十五日を開山忌とした。城主が参拝に来られるので、庫裡の書院の間を一段と高くし、高遠八ケ寺の一となり、高遠城鎮護の寺となる。内藤駿河守頼寧公より田地を与えられた。伊那市美篶洞泉寺・長谷村非持正随寺を末寺とす。