城郭-19 小鷹利城(飛騨市) 古川町信包
小鷹利城は、別名を黒内城といい、『飛州志』によると、飛騨国司・姉小路氏の同族である小鷹利伊賀守の居城と伝えられる。姉小路3家(小島、古川、向)の向家(小鷹利家)に属する城とされる。
また、建武2年(1335)、飛騨国司姉小路宰相藤原頼鑑が黒内城を築いたが、後に小島城に移り、小鷹利城を家臣の黒内越中守に守らせたとも伝えられる。
小鷹利城はほとんど改変を受けておらず、残りがよい。本丸西側には十数本の畝状空堀群が設けられている。この畝状空堀群は、一部横堀を伴っており、広瀬城や向小島城、野口城と同型のものである。畝状空堀群は西側の尾根続き、すなわち湯峰峠方向のみに設けられている。畝状空堀群の他にもこの方面には堀切、土塁などの防御施設が集中している。また、西斜面には曲輪からの横矢が効いており、湯峰峠から攻めてくる敵の攻撃を遮断している。
東側尾根の麓には遺構は全く残っていないが、「桜の御所」と称する城主の下屋敷があったと伝えられる。
令和元年度の飛騨市教育委員会による発掘調査において、主郭で大小2棟の礎石建物が確認された。規模の大きな礎石建物は曲屋の形状で、8間×3間の西側に6間×2間が張り出している。もう1棟は2間×2間である。また、輸入された青磁碗や能登半島産の珠洲焼の甕などの遺物も出土している。
資料
⑦城郭-19 小鷹利城(飛騨市)
城郭-18 向小島城(飛騨市) 古川町信包
向小島城は、古川盆地北端の越中西街道をおさえる位置に所在する。街道をはさんで小島城と相対する。築城年代、築城者ともに明らかではない。『飛州志』では、「姉小路家族向何某居之」とある。向小島城は小鷹利城と2~3㎞しか離れておらず、小鷹利城同様、姉小路三家の向家(小鷹利家)の城であったと考えられている。
城の東側(古川盆地側)には、尾根を遮断する堀切とそれに伴う土塁が構築され、古川盆地側からの攻撃に備えている。
城の南西側の尾根には、畝状空堀群が設けられている。
昭和33年(1958)、地元の人々が主郭の樹木を伐採し、姉小路家の菩提を弔うための観音堂を建立している。
令和元年度の飛騨市教育委員会による発掘調査において、主郭では柱筋が通る柱穴列が発見され、掘立柱建物の存在が判明した。また、主郭南端では柱穴列と石材を並べ、大規模に切岸を造成した痕跡も確認された。城南西側の畝状空堀群とともに南西方面からの敵に厳重な警戒を払っていた。また、天目茶碗や瀬戸美濃産陶器などの遺物も出土している。
資料
⑦城郭-18 向小島城(飛騨市)
城郭-17 古川城(飛騨市) 古川町高野
古川城は、姉小路古川家の居城と伝わる。古川家は基綱・済継・済俊と続くが済俊没後13年で南飛騨の三木氏が古川家の名跡を継承する。なお、この継承は朝廷より正式に認められたものであった。三木氏はその後江馬氏を八日町合戦で打ち破り飛騨を統一するが、羽柴秀吉の命を受け飛騨に侵攻した金森長近に敗れ、飛騨は金森氏の支配するところとなる。
『飛州志』には古来古川二郎、塩屋筑前守秋貞が在城したと記載される。また、金森長近は飛騨討ち入りの際、まず古川城に在城し、その後増島城を築城し移ったと記載される。実際には増島城を築城したのは長近の養子・可重で、長近は高山城を築いて居城としているが、増島城及び城下町(飛騨市古川町壱之町、二之町、三之町)の成立は、古川城及び城下町(古川町上町)からの移転による。増島城の石垣は古川城の石垣を転用した可能性も指摘されている。
古川城は別名を蛤城といい、城内に存在した蛤石に由来する。蛤石は表面にハマグリ型の模様が認められる球状石で、『飛州志』によると金森長近が城内に存在する蛤石に由来して城の呼称を蛤城と改めた。蛤石は元来雌雄2個一対であったが、旱魃の際、雨乞いのために一石を山下の淵(宮川と考えられる)に沈めたところ雨が降った、このため一石となったと記載がある。
なお、蛤石にまつわる伝承として、専勝寺(飛騨市河合町角川)に所在する球状岩は、雨乞いのため沈められた一石が宮川下流で引き上げられたものである。金森長近が蛤石を高山に移そうとしたところ、城から離れるにつれ重くなり運べなくなったため高山への移設を断念し、古川城に戻すことにした結果、今度は城に近づくにつれ軽くなったなどと言い伝えられている。
資料
⑦城郭-17 古川城(飛騨市)
城郭-16 小島城(飛騨市) 古川町杉崎
小島城は、『飛州志』に「国司姉小路家代々居住ノ本城也」とあるように姉小路家の嫡流小島家の代々の居城である。姉小路家は、戦国時代に同じく地方へ土着し戦国大名化した伊勢国北畠氏、土佐国一条氏と共に三国司と並び称される家柄である。
岡村利平の記した『飛州志備考』によると、永仁2年(1294)には、姉小路家の使者が飛騨に下向したとの記録があることから、鎌倉時代には飛騨を領有していたようである。その後南北朝時代、家綱以後は飛騨国司としての飛騨における足跡が明らかとなる。
また、応永18年(1411)には、家綱の弟とも甥とも言われる第4代飛騨国司・尹綱が、広瀬常登入道とともに室町幕府に対して挙兵する(応永飛騨の乱)。
尹綱は小島城に拠って幕府の大軍を迎え撃ったという。幕府は京極高員、小笠原持長、朝倉左右衛門、甲斐小太郎らに尹綱追討を命じ、それぞれの領国である隠岐、出雲、近江、信濃、甲斐、越前などの兵3,500で攻め寄せ、尹綱は討死にしたという。南北朝合一(1392)後、両統迭立反故の動きに不満を抱き、乱の前年(1410)に後亀山法皇が吉野に出奔していることから、尹綱の挙兵はこの出奔に呼応したものといわれている。
応永飛騨の乱の後、姉小路家は小島家、古川家、小鷹利家の三家に分裂する。この三家はそれぞれ北朝より飛騨国司に任じられ、飛騨北部を支配する。古川家の基綱とその子済継は、和歌の名手として都でも知られ、宮中の歌会にも度々参加したという。江戸時代後期の高山の国学者・田中大秀は、姉小路基綱、済継を飛騨文学の祖と位置づけ、その功績を永久に顕彰しようとした。大秀の発願で建立された歌碑が細江歌塚で、姉小路家ゆかりの小島城山麓に建てられている。
戦国時代の飛騨は、飛騨北部を姉小路氏、高原郷を江馬氏、飛騨南部を三木氏が支配する。三木氏は、飛騨守護京極氏の家臣で竹原郷(下呂市)に土着したものである。姉小路氏は飛騨北部に進出する三木氏の圧力を受けることとなる。
天正10年(1582)三木氏は江馬氏を破り飛騨の覇権を手にした(八日町合戦)。この際小島家当主小島時光は、三木氏側として戦い、江馬氏の高原諏訪城から大般若経を奪い、これを小島城下の寿楽寺に納めている。なお、この大般若経は、岐阜県指定文化財となっている。天正13年(1585)、金森氏の飛騨進攻により小島城は落城し、小島氏も滅亡する。
小島城は、高原郷と小島郷を結ぶ神原峠の峠道が古川盆地に開ける交通の要衝に位置し、高原郷からの侵入を防ぐには絶好の立地といえる。
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⑦城郭-16 小島城(飛騨市)
高原諏訪城(飛騨市)
江馬氏の勢力圏を示す城館
北飛騨の雄・江馬氏が、古文書等に名が出てくるようになるのは南北朝期からである。応安5年(1372)12月14日の広瀬左近将監宛の「足利将軍家御教書案」に、江馬但馬四郎の名が初見される。それは、山科家領の飛騨江名子等が垣見右衛門蔵人等による押領を、押し止める役を広瀬氏とともに江馬氏に命じるもので、当時すでに、幕府からそのような公務執行を命じられるような信任を受けていた江馬氏の存在が見え、江馬氏と一族が高原郷各地に勢力を張っていたことを示す。
<国史跡江馬氏城館跡>
昭和55年(1980)3月、神岡町殿(現・飛騨市)一帯から和佐保にまたがる「江馬氏下館」「高原諏訪城跡」を中心に、「麻生野城跡」「石神城跡」「寺林城跡」「政元城跡」「土城跡」が、国の史跡指定を受けた。
江馬氏下館跡については、発掘調査が、第1次・昭和50~54年度、第2次・平成6~15年度に行なわれ、史跡整備工事が実施された。
<高原諏訪城跡>
頂上の削平地からは高原郷の多くの集落が一挙に眺望できる。
本丸跡には、「江馬侯城趾」の石碑が建っている。
<高原諏訪城上部機構(仮称)>
高原諏訪城から北の尾根続きで、高原諏訪城より標高で160m高い。
主郭は、北に堅堀と堀切を設けている。
<江馬氏下館跡>
下館の中心部である堀内地区は、飛騨市神岡町殿の字中通りにあり、土井ノ内、土井ノ上、ほりはたの地名が分布している。近くに字馬場もある。
<傘松城跡>
吉田の観音山(標高803m)の山頂にあり、呼び方は「からかさまつじょう」で、別名吉田城とも呼ばれている。
西側の長い尾根筋には堀切と土塁を設けて防御施設を集中させていて、西の古川や高山方面からの敵に備えたもので、16世紀終末ころ改修がなされたとある。その時期は、天正10年(1582)江馬輝盛が三木自綱と戦い、八日町で討死した後、大軍が押し寄せるのに対した時か、天正13年(1585)江馬時政が金森長近勢と戦い滅ぼされた時である。
城の形態としては、16世紀終末期のものである。
資料
⑦城郭-15 高原諏訪城(飛騨市)
城郭-14 牛臥山城(久々野町) 久々野
飛騨川と無(む)数(す)河(ご)川(がわ)が合流する地点にあり、牛臥山の南端、中腹にある。主郭の北側に2本の堀切があり、西側には小さい曲輪がある。
城郭の西側には「城下(しろした)」姓の家がある。
治承5年(1181)、木曽義仲の飛騨攻めの際の最前線の城であった。義仲は久々野町の切手城、片野町の石光山砦を落して最後に三福寺町の三仏寺城(平景綱の城)を落城させている。
資料
⑦城郭-14 牛臥山城(久々野町)
城郭-13 笠根城、板殿城(丹生川町) 笠根、板殿
笠根城は標高860m、板殿集落から続く尾根上にある。主郭の平地は東西14m、南北20mほどで、東からの尾根が行きやすく、西側は急斜面になっている。主郭の東側には2本の堀切があり、東側の大堀切は非常に規模が大きい。西側の主郭側の堀切は「三日月堀」とも提唱されている。主郭の北、東、南面には帯曲輪がめぐる。西、南方向には段郭がある。比高は130mもあり、現在登坂道はない。小笠原氏が関係する城と伝わる。
板殿城は笠根城の東方1.3㎞にあり、板殿集落の北にある。切通しから40mあまり登ったところに小さな堀切があり、さらに12m上がると8×6mの狭い平坦面の主郭がある。井戸某が築いたと伝わり、笠根城と関連する。
資料
⑦城郭-13 笠根城、板殿城(丹生川町)
城郭-12 森ケ城(丹生川町)
『飛騨軍艦』によると天文年間(1532~)に生津信濃守がいて城を構えていた。生津市氏は薩摩の人ともいわれ、森ヶ城の東北の法力地内に屋敷を持ち、生津屋敷の地名がある。生津氏の老臣に大谷蔵人がいて勢力を伸ばしていたが、三木直頼は大谷蔵人をそそのかして生津氏を殺させたが、自身も天文14年(1545)、直頼に打ち取られた。『飛州志』によると永禄年中(1558~1569)、森大隈守がいたといわれる。美濃金山(かねやま)の森氏の一族とされるが、定かではない。大隈守は時代的に考えて三木自綱に攻略されたと考えられる。
森ヶ城は、尾根の先端に位置し、尾根続きを4本の堀切で遮断している。特に内側の堀切は幅15m、深さ8mと規模も大きく、連続堀切となっている。主郭は、東西30m、南北20mの楕円形で、高い切岸を持つ。主郭の北西に二段の小規模な曲輪があり、その先にまた堀切がある。主郭より北東に下る尾根には小規模な曲輪が並ぶ。畝状空堀群があるが、畝の数も少なく、長さも短く比較的小規模である。畝状空堀群があることから、森ヶ城は戦国末期に改修されたと推定されている。
資料
⑦城郭-12 森ケ城(丹生川町)
城郭-11 岩井城 高山市岩井町西保木
岩井城は松洞山の西方の尾根端に築かれている。天然の要害で、平坦部の総長は約80m。主郭の標高は868mで細長い尾根上にある。北側、南側は自然の急斜面になっている。西と東に堀切があり、主郭の北面には腰曲輪がある。また小規模のいくつかの曲輪が東西にある。
南北朝時代、楠和田氏の後裔と称した和田新右衛門尉正武の城と伝わる。正武は室町時代初期頃、滝・生井・岩井の土豪となり、天文の頃(1532~1555)に三木直頼に滅ぼされたか、帰農したか詳細はわからない。城のある岩井町の地名に和田、和田向、和田ヶ洞があり、和田を名乗る家がある。
資料
⑦城郭-11 岩井城
城郭-10 五味原城(丹生川町) 折敷地五味原
「八日町の合戦」があった国府町八日町から荒城川を12㎞ほどさかのぼった丹生川町折敷地五味原に、地元では通称「しろやま」と呼ばれる山がある。急な山道を登り詰めると山頂には二重堀切、腰曲輪、主郭などがある。
必要最小限の防備しか持たないことから、短期間でつくられ、その直後に廃絶された可能性が高いと考えられている。荒城川上流部で峠の向こうの高原郷を防御する位置にあることから、江馬氏の築いたものであるとされている。
反江馬勢力が南から高原郷に進入するには、十三墓峠以外にトヤ峠がある。この城の背後にあるトヤ峠を越えると、江馬氏の領地高原郷に至る。八日町の合戦を前に江馬氏はトヤ峠の守りを固めた上で、十三墓峠から軍勢を率いて八日町へ進入したと推定されている。
<江馬輝盛寄進の鰐口>
五味原城と2.1㎞離れた折敷地住吉神社(丹生川町折敷地)に鰐口があり、銘に「江馬常陸介輝盛 寄進 奉掛住吉神社社頭 永禄三庚申」とあり、永禄3年(1560)江馬輝盛の支配がこの地に及んでいたことがわかる。