史跡-4 杖石(長倉)
高さ約70m、下部の周囲は250mの岩壁の丘である。歩道が整備されていて、鎖を頼りに登ることができる。
昔、弘法大師がこの地を訪れた時、自分の持っていた杖を道行く人に差し上げようといって地面に立てたままでその場を立ち去った。それがある日みるみる大きくなって今見るような岩になったと伝えられている。
上宝地区内吉野の笠石、岩井戸の蓑石とともに、この杖石は高原の三奇跡と言われ、弘法様にちなんで崇敬を集めている。
頂部には弁財天がまつられ、参詣すると良縁が授かるといわれている。
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④史跡-4 杖石(長倉)
史跡-3 長倉集落、棚田、桂峯寺
長倉地区は上宝町にあって、南向きの日当たりのよい集落である。かなり急な道路が建物の間を縫うように通っていて、最頂部に棚田があり、焼岳が正面に見られる。そこから少し下ったところに桂峯寺がある。寺からは長倉集落が見下ろせ、眺望がよい。
桂峯寺は釈迦如来を本尊とする臨済宗妙心寺派(龍泉派)の寺院で、山号は仁月山。飛騨三十三観音霊場28番札所である。
江馬氏2代当主の江馬朝方が鎌倉建長寺の夢窓疎石を招いて鎌倉時代の弘安年間に上宝町本郷の地に桂月庵として建立した。建立時は建長寺派であったが、室町時代の永承年間に江馬時直が越中国泰寺の正雲和尚を中興開山として寺基を現在の長倉の地に移した。江戸時代に妙心寺派となった。
寺宝として江戸時代に高山宗猷寺から当寺に渡った仏師竹内右門作の子安観音像のほか、幕末に高倉在靖により描かれた本堂の天井の龍の墨絵がある。他に竜頭観音など、いくつかの円空仏も所蔵する。
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④史跡-3 長倉集落、棚田、桂峯寺
史跡-2 荏野文庫と田中大秀墓
荏(え)野(な)文庫土蔵は国学者田中大秀の文庫蔵で、荏名(えな)神社の境内にあり、弘化2年(1845)、火災と鼠(そ)害(がい)に備え池の中に建てられている。天保15年(1844)6月29日釿(ちょうな)始(はじめ)。京都神楽が岡の土を運び、飛騨国内各社の注連縄を集めて苆(すさ)(つた、すたともいう)に使ったと伝えられる。上階の前面に明り窓をつけ、窓の上に大秀自ら「荏野文庫 弘化乙巳秋」としたためた木額が掲げてあった。
階下の正面に大秀の木像を安置する。木像は高さ45㎝、膝幅36㎝の坐像で左の背銘がある。
荏名神社再興斎主六十三翁田中大秀之像
天保十年己亥五月 京都田中松慶刻
田中大秀の墓は荏名(えな)神社から1㎞南方の小丘にある。大秀が生前松室岡(まつむろおか)と名づけ、墓所と定めた。3段の石段をのぼり、切石道を進と左右に春日燈籠1対があり、正面に大秀好みの、雅た標碑が立っている。「田中大秀之奥城」と刻まれた文字は、大秀の筆跡である。大秀の遺体は、標碑の後ろの小円墳に葬られている。
右側面には
齢六十二に成ける天保九年戊戌九月十日ここを墓所にさだめ松室岡と名づけて今日よりは我まつむろに蔭しめてちよのみどりを友とたのまむ
左側面には
大人の歌を聞て言ほぎけらく
いまよりは千代のあるじと松枝のあせぬ翠の色にあえませ
又後世人にいはまほしくてよめる
こころあらば植はそふとも我大人のしめいます木立きりなあらしそ
山崎弘泰
背面には
弘化四年丁未九月十六日歿
嘉永三年庚戌九月 田中弥兵衛寿豊建
大秀は、安永6年(1777)8月15日高山一之町薬種商弥兵衛博道の2男に生まれた。初名紀文、粟田知周・伴蒿蹊(こうけい)・本居宣長等に師事し、家号を湯津(ゆつ)香木(かつら)園と名づけた。弘化4年(1847)9月16日没、享年71、法号松室了郭居士。「養老美泉弁註」「竹取翁物語解」「落窪物語解」「土佐日記解」「蜻蛉日記紀行解」「荏野冊子」等の著述がある。
荏名神社の前、江戸街道と村道との分岐点に、大井帯刀郡代の元締手代菊田秋宜(あきよし)の建立(こんりゅう)した道分灯籠(みちわけどうろう)がある。風流な灯籠で、「左・江戸・みのぶさん ぜんこうじ」とある。
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④史跡-2 荏野文庫と田中大秀墓
史跡-1 荏名神社神橋とその周辺
荏名神社は江名子川と塩谷川の合流地点に鎮座する。大きな岩が存在する神域は、古来稲置の森と言われて小さな祠があった。文化12年(1815)飛騨が生んだ国学者田中大秀は延喜(905~)の昔に定められた飛騨八社の一社であったことを考証し、神域を整備し社殿を改築して境内の一隅に千種園と称する邸宅を立て、祭祀を怠らず著作と後進の指導に努めた。
荏(え)名(な)神(じん)社(じゃ)神(しん)橋(きょう)は大秀の設計による橋で、石造の橋台と梁が残っている。橋台の上部から長形の石材を上方斜めに突き出し、この上に2層の梁を結合させ最上層に桁を渡したもので、桁は失われているが撥橋(はねばし)として貴重なものである。天保15年12月設計の図面が現存する。
〈市指定〉昭和59年3月2日
〈所在地〉江名子町1290番地
〈時代〉江戸時代
〈員数〉1基、設計図2枚
橋(1基)梁の長さ4.3m、幅2.05m
設計図(2枚)
①荏名神社大前石(おおまえいし)御橋勧進記
②荏名神社大前石御橋之図 天保十五年十二月吉日 田中大秀敬白
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④史跡-1 荏名神社神橋とその周辺
飛騨の里-6 飛騨の里・行事
飛騨の里は野外博物館として季節によっていろんな伝統行事が行われている。入館者は花もち、しめ縄づくり、わらじ作り、サルボホ作りなど制作を楽しんでいる。雛様、端午の節句、巨大こいのぼりの展示、車田の田植えなど動きのある博物館になっている。
また各民家では常時煙が出ていて、建物保存に一役買っている。
(飛騨の里内の文化財)
◆国指定建物
旧若山家(高山市荘川町下瀧)、旧田中家(高山市冬頭町)、
旧田口家(下呂市金山町卯(う)の原(はら))、旧吉(よし)真(ざね)家(飛騨市河合町角川)
◆県指定建物
旧野首家(高山市片野町)、旧西岡家(白川村加須(かず)良(ら))、
旧新井家(高山市清見町池本)、旧富田家(飛騨市神岡町杉山)、
道上家 (飛騨市宮川町西加賀沢)、旧前田家(高山市奥飛騨温泉郷神坂)、
旧中(なか)薮(やぶ)家 (高山市一之宮町山下)、セイロ倉(高山市上宝町)
◆市指定 「飛騨の里建造物群」15棟
ハサ小屋、わらび粉小屋、杣小屋、木挽小屋、バッタリ小屋、匠堂、八月一日家など
<合計件数> *指定文化財のみ、他に移築建物がある
◆建物 国指定4棟 県指定8棟 市指定15棟 合計27棟
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③飛騨の里-6 飛騨の里・行事
飛騨の里-5 飛騨の里・景色
飛騨は、谷筋が違うと雪の質、量も違い、また太平洋側と日本海側では雪の量が全然違う。そのため同じ飛騨の中でも、建物や冬のソリなどの民具の形が違っていて、全国的にみて大変珍しい風土である。
昭和34年、白川村の御母衣ダム建設に伴い、古い合掌造り建物の若山家が高山に移された。貴重な建物である若山家を高山へ移して「飛騨民俗館」として出発、管理人には長倉三朗を委嘱した。その後、若山家の隣には片野町からクレ葺屋根の野首家(江戸時代)、桐生町から高山測候所(明治36年)などを移築している。
昭和44年、当時の元仲辰郎市長は観光資源の開発に大きな夢を託し、民俗館の西方に「飛騨の里」建設計画を議会にはかり建設をすすめた。場所は、戦国時代の山城・松倉城のふもとで、昔からあった農業用溜(ため)池(いけ)はそのままにし、山林を切り開いて三万坪の用地に民家を移築することにした。
合掌造りや板茸屋根の民家18棟が飛騨各地から集められ、昭和46年7月に1億9,600万円をかけて完成した。今、これらの民家を集めようと思っても不可能である。質の高い農村文化を集めた飛騨の里は、全国に先がけたもので、高山の大きな観光資源になった。
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③飛騨の里-5 飛騨の里・景色
飛騨の里-4 飛騨の里・大野家
大野家は益田郡阿多野郷野麦村(高山市高根町野麦)にあった。妻入りの民家は、飛騨では高根町の野麦、日和田、猪之鼻などの集落に点在するだけである。
入口の土間から家の中央を、裏まで抜けた大きな部屋は「いのま」と言われた。その両側には「ねま」、「ものおき」、「しけものびや(漬物部屋)」がある。
このような間取りは飛騨の一般的な農家にはないものである。江戸時代、南方山と言って幕府の御用材を伐採した杣人の小屋から住居に進展していったものであろうと考えられている。
大野家は明治初年に建てられ、江戸時代の家に比べると完成された形になっている。
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③飛騨の里-4 飛騨の里・大野家
飛騨の里-3 飛騨の里・道上家
〈県指定〉昭和50年7月17日(旧所在地 飛騨市宮川町加賀沢・かがそ)
〈時代〉江戸時代末期
桁行17.7メートル、梁間9.4メートル、入母屋造、茅葺、北・南面下屋附属板葺
この家は、越中の国境いにあって、宮川渓谷と越中西街道を隔てて富山県婦負(ねい)郡細入村の西加賀沢集落と相対している。
内部は平入りで、三室広間型を基本としている。「ドジ」に入ると右に「マヤ」、奥に「ニワ」がある。「ニワ」は屋内農作業の場で、板敷床になっている。「オエ」は、三間×四間半と広い。「オエ」の左横には仏壇のある「デイ」、エンのある「オクデイ」がある。中2階は養蚕と一部が居室になるが、人が頭を低くして歩ける程の高さである。
ケヤキ材の豊富なこともあり、太い柱、梁、桁は、幕府の御止木にもかかわらずケヤキを使用している。
内部構造は土地柄、越中の民家と共通性が強く、また外観は、茅葺の妻側を大きく切り取り、兜(かぶと)造りとしている。兜造りは中2階を明るくする民家形式で、山梨や関東など養蚕の盛んな地方に多く見られる。左右両側には、板葺の下屋を設け、左は懸崖造りとなっている。
昭和45年10月から翌年3月にかけて、民俗村へ移築された。また、昭和59年10月から翌年3月にかけて、建物全体のゆがみを修復するため、解体修理工事を行っている。
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③飛騨の里-3 飛騨の里・道上家
飛騨の里-2 飛騨の里・匠神社
飛騨の里構内の山側に、飛騨匠を祀(まつ)った匠神社がある。石段や狛犬、本殿、それを覆う「覆殿(おおいでん)」の建物で構成されている。
本殿は飛騨市河合町保(ほ)にあった「鈿女(うずめ)神社」の建物で、下小鳥(おどり)ダム建設により昭和44年に移転された。鈿女は天(あま)の岩屋戸の神話に出てくるアメノウズメノミコトで、芸能の神様と言われる。
また、覆殿は同市宮川町加賀沢(かがそ)の白山神社拝殿を、狛犬は丹生川から、石段は鈿女神社から移されていて、各地の神社の貴重なものが再び息を吹き返している。
覆殿は高山地域の拝殿と形態が違って、背が高くて立派な建物。天井は四角い枡で区切られた「格天井」になっていて、移築してから板に絵が施された。元名誉館長長倉三朗の提案で、42人の画家、絵師、職人によって、植物、樹木という一つのテーマで描かれた。
吉川菊麿、守洞春、松山文雄、長倉三朗、玉賢三、小鷹ふさ、袖垣治彦、岩島周一らが生き生きとした花を描き、高山の美術家の殿堂になった。匠神社の内部は絵画保存のために毎年6、11月の2回の期間限定で公開されています。
戸の窓は千鳥格子になっていて、匠神社の名にふさわしい伝統技術を取り入れている。高山市八軒町の岡本俊二氏の作。
昭和45年、下小鳥ダム建設により鈿女神社は、粟原神社(保地内粟屋谷)、白山社(舟原地内小川)とともに飛騨市河合町新名の白山神社に合併合祀された。
昭和45年7月5日、水没地保小学校で住民最後のお別れ会があり、保・舟原の両地区の住民589人、124戸は住み慣れた故郷に別れを告げた。
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③飛騨の里-2 飛騨の里・匠神社
飛騨の里-1 バッタリ小屋、水車小屋
水を利用し、天秤のように動く唐臼を、飛騨地方では「ばったり」という。杵が上げ下がりするときに出る「バッタバッタ」という音から名づけられたという。
米や稗をゆっくりと精白する臼で、少しの水でも動く。このバッタリは高山市荘川町三尾河(みおご)にあったもので、臼を二つ使って能率を上げるようにしている。ゆっくりと米や稗をつくバッタリの音は、山間ののどかな風情を感じさせてくれる。
資料
③飛騨の里-1 バッタリ小屋、水車小屋
天領時代-5 江名子川に架かる橋・下流からその2
金森氏は高山城下町をつくる際、東側の防御として自然の河川の江名子川を掘とした。空町と呼称される武家屋敷の場所東側を流れていて、北流する。
江名子川は、神通川水系の 1級河川で、豪雨時の水量が近年多くなり、河床の掘り下げ工事が行われ、深い川になっている。
川沿いに色彩舗装がなされて歩きやすい雰囲気になっていて、春の桜がきれいである。
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