天領時代-3 五ケ村用水取り入れ口
五ヶ村耕地用水路は、五ケ村用水堰堤の左岸側から取り入れられ、大野郡花里村、西之一色村、上岡本村、下岡本村、七日町村の五ヶ村の農業用水であった。明治6年には森佐兵衛らがこの用水を使って織る洋式製糸場を花里村に建て、80人が雇われている。
また五ケ村用水堰堤の右岸側から取水される神明用水の方では、明治21年、永田吉右衛門が水力による三星織工場を開業した。
宮川の五ケ村用水堰堤の左岸で取水した用水は、現在も花里町、高山市役所辺りを流れて苔川に合流する。
資料
②天領時代-3 五ケ村用水取り入れ口
天領時代-2 三町用水、神明用水
高山城下町をつくるとき、国主となった金森長近は南北に長い通りの商人町を3本つくった。長近は城下町全体の都市計画をする中で、商人町は東側から一、二、三番町の順に整備を進め、三番町は最後の方になっている。
上三之町(三番町)の道路幅は430年前の道路幅がそのまま現在に至っていると思われる。今は、側溝が切石積みになっているが、江戸時代の水路は、道路側は厚い板であった。40年くらい前に上二之町の側溝工事の際、コンクリート側溝を掘削すると木製板の水路壁が発見されたことがある。板は水にひたっていると腐らず、ずいぶん前の木製板の水路が残っていた。
上一~上三之町の側溝の水は片野町(対岸は千島町)の五ヶ村用水堰堤で取水して流れてくる。宮川の右岸は神明用水に、左岸は五ヶ村用水として流れてゆく。神明用水は江戸時代の中頃に、「三町用水」として商人たちが商人町に防火用水を引こうと片野町に取水口を設けたのが始まりである。享保8年(1723)、町年寄の矢島氏が発起人となり、名工松田太右衛門が工事の世話人となった。
三町用水は神明用水と呼ばれるようになり、市政記念館の場所で一之町、二之町、三之町へと分配されている。昔、故八野忠次郎さんは、三町用水は①防火、②菜洗い、③消雪溝や水まきの用途であったという。
水の流れは100ⅿで1ⅿ下がる勾配で、高山盆地の地形傾斜がそうなっているので地形に沿った水路である。
資料
②天領時代-2 三町用水、神明用水
天領時代-1 下呂・武川久兵衛墓地、温泉寺
元禄9年(1696)武川久兵衛四代倍行(ますゆき)は弟藤助を伴って、下呂湯之島を発ち江戸へ向かった。4年間江戸に滞在し木材商栖(す)原角(はらかく)兵衛(べい)と知り合い、木材の消費流通、資金調達等綿密な調査研究を行ない、元禄13年(1700)、奥羽下北半島の南部大畑に木材商飛騨屋を開業した。倍行27歳の時である。
恐山の北の山々の伐木を搬出し江戸との交易を行なった倍行は、更に蝦夷地の豊富な唐(とう)桧(ひ)山(やま)に意欲を燃やした。元禄15年蝦夷地松前の福山に店を構えて、海産物の交易を行ないながら唐桧山の開発にかかった。松前から遠い僻地である東蝦夷地の臼(有珠)山を運上金1人年間825両で仲間経営として請負い、毎年、杣夫・米運搬夫・鍛冶等174人を使用し、春3月の雪解けを利用して川を下し、江戸へ輸送した。
平秩(へづつ)東作(とうさく)の「東遊記」に『飛騨国下呂という所に久兵衛といふもの、70年程前江戸町人と乗組て此木を伐出し、巨萬の富を得たり。…飛騨屋はソウヤ・アッケシ・クナシリの辺の産物を引請るといふ…』と書かれているように、近江商人が蝦夷地の千石場所で巨利を得ているのに対して、飛騨屋は僻地に踏入り悪条件を克服して木材産業を開発した。
飛騨屋第二代倍正(やすまさ)の代、養父の遺業を継いで北海道からの木材移出を伸ばした。しかし、寛政元年(1789)国後のアイヌの戦いがもとで幕府と松前藩による直接経営となり請負場所の引揚げが行なわれた。飛騨屋第四代(武川家としては第7代、養子)益郷(ますさと)の時、90年にわたる事業を断念する結果となった。
温泉寺は、武川家第3代九右衛門倍(ます)良(よし)が、武田氏の菩提寺である恵林寺(山梨県甲州市)と深い因縁を感じて建立した武川家の菩提寺である。
資料
②天領時代-1 下呂・武川久兵衛墓地、温泉寺
金森時代-4 近江商人の町・近江八幡
天正13年(1585)、豊臣秀次は八幡山山頂に近江八幡城を築いた。そして本能寺の変で主を失った安土の城下町をここに移している。縦12通り、横4筋の整然とした町を整備した。10年後に城は廃城となったが城下町はそのまま栄えた。近江商人の町である。
高山城下町の中の商人町は近江八幡の商家とよく似ており、高山の商人町の建築は近江商人との関係が考えられる。特にベンガラとススを混ぜ合わせて塗る色彩はよく似ている。
資料
①金森時代-4 近江商人の町・近江八幡
金森時代-3 金森氏の転封先・上山城と武家屋敷
飛騨国主第6代金森頼旹は元禄2年(1689)4月、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の奥詰衆(将軍のそばに仕える重要な役)に、同年5月には「側用人」(将軍と老中を取り次ぐ重役)に任じられ、出世した。しかし、翌3年4月、綱吉の考えに合わず免職、翌4年6月には、なぜか江戸(東京)での屋敷替えを命じられた。
そして元禄5年(1692)7月28日、出羽上山(山形県上山市)への転封(国替え)を命じられ、高山城下町は上を下への大騒ぎになった。これにより金森氏6代による飛騨国の統治は終わった。
金森氏転封(国替え)の理由は、頼旹の素行(日頃の行ない)が原因、幕府の財政困難、幕府が飛騨の山林資源や鉱山資源に目をつけたのでは、などと考えられている。
上山へ移動した金森氏武士団一行は家族を含めて4~5千人といわれる。元禄5年(1692)10月2日出発、120里(約480㎞)の行程を18日間で上山に到着している。1日あたり6時間半歩き続けるという困難な日程であった。
金森家の藩主はもとより、家臣団の居館を準備するのは大変で、1ヵ月前に派遣された先発隊の別所氏、馬場氏が領地請取の手続きを完了し、受け入れ準備を急いだ。
城跡から少し下がったところの沼のそばに重臣の屋敷が設けられ、周囲に家臣団の屋敷がつくられた。しかし第6代頼旹は江戸から遠く離れた上山へ参勤交代に行かず、江戸の屋敷にずっといたという。
資料
①金森時代-3 金森氏の転封先・上山城と武家屋敷
金森時代-2 高山城の大手道
高山城は、織田信長が築城した安土城の直後に構築され、軍事的機能を最優先させた形の城とは異なっている。御殿風の古い城郭形式を持ち、外観2層、内部3階の構造を持つ天守(写真)を備えているのが特徴である。
一番高い所に本丸屋形、中腹の二之丸は東と西に平地を持ち、西側に藩主の屋形、東側は庭樹院(金森氏第6代頼旹(よりとき)の母)が住んだ屋形であった。現在は二之丸公園となっているが、西側跡地には、昭和35年、荘川村(現荘川町)中野から照蓮寺が移築されている。三之丸には勘定所と8棟の米蔵があり、水堀が東側と北側をくの字形に囲んでいた。現在は飛騨護国神社が建ち、三之丸にあった御蔵は高山陣屋へ移築されている。
元禄5年(1692)、金森氏第6代頼旹は突然出羽国(山形県)に移封となり、金森氏転封後は金沢藩が城番を勤めた。しかし、元禄8年幕府の命により高山城は完全に破却され、廃城となってしまう。
南方向から本丸に登る大手道は神明町の枡形という場所から正雲寺坂を通って神明町の高台住宅地を通る。山道を通って公園整備で作られた大手門の右を通り尾根へと通じる。尾根からは岡崎蔵(モミの木平)を通って直接本丸に到達する。大手方面には3つの木戸があり最初の木戸がモミの木平にあってこれが大手門になる。
資料
①金森時代-2 高山城の大手道
金森時代-1 高山城の搦手道
高山城跡は高山市街地にある都市公園となっていて、通称城山、別名を臥牛山、邑山(はざん)ともいった。金森氏入国以前は、「天神山城」と呼称され、飛騨の守護代であった多賀出雲守徳言によって、文安年中(1444~1449)に築城され、近江の多賀天神を祀ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれた。安川通りあたりに「安川村」があってそこが城下であった。永正年間(1504~1521)には高山外記が在城、「高山」の地名は「多賀山」あるいは高山外記の「高山」から名づけられたという。
天正13年(1585)7月、金森長近は秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜った。最初は大八賀郷の鍋山城に城を造ろうと考えたようだが、天神山古城跡を選んでいる。飛騨のほぼ中央に位置し、開けた盆地があり、しかも東西南北の街道を交差させることができるので最も適所と考えた。
築城は天正16年(1588)から始まり、慶長5年(1600)までの13年で本丸、二之丸が完成し、以後金森氏第2代可重(ありしげ)によってさらに3年で三之丸が築かれ、慶長8年(1603)までに16年かけて完成させた。
城への道は北方向からが搦手道で三之丸、二之丸、中段屋形、本丸へと通じ、常の大手道とも言った。
資料
①金森時代-1 高山城の搦手道
栗林公園
栗林公園の平庭部の広さは、東京ドーム3.5個分にあたる約16.2ヘクタール。これだけでも大名庭園の中では最大級ですが、背景となっている紫雲山を含めた面積は、なんと東京ドーム16個分の約75ヘクタールにも及び、文化財に指定された庭園の中では日本一の大きさを誇ります。
国の特別名勝に指定されている庭園の中で最大の広さをもつ栗林公園は、歴代藩主が百年余りの歳月をかけて完成させた大名庭園。松の緑濃い紫雲山を背景に、6つの池と13の築山を巧みに配し、江戸時代初期の回遊式大名庭園として、すぐれた地割り、石組みを有し、木石の雅趣に富んでいます。また、春のウメ・サクラ、夏のハナショウブ・ハス、秋のカエデ、そして冬のツバキと四季折々の風物にも恵まれ、ここに咲く花々は、一歩一景といわれる変化に富んだ美しさを一層醸し出します。全体にかけて生み出す美しい風景が、明治時代に発行された高等小学読本には、「日本三名園」(水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園)よりも「木や石に風雅な趣がある」と記されているほど。
栗林公園の歴史や文化の紹介、伝統的工芸品の展示を行っている商工奨励館のほか、美しい景色を眺めながら抹茶や煎茶がいただける掬月亭などもあります。
旧青山別邸
青山家は明治・大正を通じ、にしん漁で巨万の富を築き上げました。その三代目、政恵が十七歳の時、山形県酒田市にある本間邸に魅せられ大正六年から六年半余りの歳月をかけ建てた別荘が旧青山別邸です。
旧青山別邸は平成22年、国より登録有形文化財に指定されました。
約1500坪の敷地内に木造2階建てで建坪は190坪。家屋の中は6畳~15畳の部屋が18室、それぞれに趣が異なり、金に糸目をつけず建てられた豪邸です。
青山留吉、政吉の親子二代に亘り財を成し、青山家最盛期の大正6年、二代目政吉が娘夫婦の民治・政恵と共に、別荘の建設にとりかかりました。
当時、にしん大尽と呼ばれた政吉は、美意識が高く、一流好みでした。 その為元場とは違う芸術的な建築物を目指し、約6年半の歳月を要して完成させました。
三代目政恵は17歳の時、山形県酒田市の本間家邸宅に幾度となく招かれ、その豪勢な建物に魅せられていました。 当時、本間家は「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と言われる程の日本一の大地主でした。 父政吉が別荘の建築にとりかかった時に、政恵は「あの本間邸以上のものをこの祝津に建ててやろう」と決心したのでした。
にしん御殿(旧青山別邸)建築費三十一万円、当時、新宿の有名デパートの建築費が五十万円ほどと言いますから、この別荘の豪邸ぶりがおわかりいただけると思います。
政吉は、山形県酒田から宮大工の棟梁 斎藤子之助、石垣清治郎、土門市太郎を呼び寄せ、その指揮の下、左官頭 佐藤朝吉、 建具頭 西野岩吉、瓦師頭新家長松、石工頭 福田喜太郎、佐藤丑太郎をはじめ総勢五十数名の職人たちが技を競い合いました。
材料は酒田より欅を大量に運ばせました。 積雪の多い北海道では珍しい瓦葺き屋根、軒下はすべて手彫りによる彫刻が施されました。 また、床や柱は欅の春慶塗り、漆くい壁、神代杉の幅広天井、うぐいす張りの廊下、端から端まで継ぎ目のない一本物の長押し。 紫檀、黒檀、タガヤサン、白檀を使った書院づくりの床の間。 ふすまの引き手は七宝焼(当時は宝石と同価値)。 欄間は、竹、紫檀、白檀に彫刻が施されている。 建物の三方に庭があり、家族だけが見るために造った池泉庭、松と石を組み合わせた、趣深い枯山水の中庭など数え上げるときりがありません。
また、狩野派の流れを汲む日本画の絵師たちが競って描いたふすま絵、書も見事なものです。