中尊寺
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来 [1]。寺伝では円仁の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。
奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有する。
境内は「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されている[2]。2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された[3]。
平泉毛越寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
寺伝によると、嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされ、その後貞観元年(859年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。しかし、円仁開山のことは、確かな史料や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られる。
藤原清衡と中尊寺
奥州藤原氏の初代、藤原清衡は前九年の役のさなかの天喜4年(1056年)に生まれた。清衡の家系は藤原秀郷の流れを汲むという。清衡が7歳の時、彼の父藤原経清は、安倍氏に味方したかどで斬殺された。清衡の母は安倍氏の出であったが、夫経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚。清衡は清原武貞の養子として「清原清衡」を名乗ることになる。つまり、清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年の役で滅びた清原家の養子でもあった。清衡の兄弟には兄・真衡(清原武貞と先妻の子)と、弟・家衡(清衡の母と清原武貞の間に生まれた子)がいた。真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた。真衡の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡[4]は、清衡と異父弟・家衡に3郡ずつ与えられたが、これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じた。清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した。この一連の内紛を「後三年の役」と称する。この合戦のさなか、清衡は館に火を放たれ、妻と子を失っている。その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当する奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である「藤原」を名乗って「藤原清衡」と称するようになる。清衡は寛治3年(1089年)には陸奥押領使に任命され、嘉保4年(1094年)頃には居館を江刺郡豊田館 とよたのたち、奥州市)から、中尊寺のある平泉に移している。このように、藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている。
「紺紙金字一切経(中尊寺経)」のうち(1117年-1126年)
清衡が平泉にて中尊寺の中興(事実上の創建)に着手したのは長治2年(1105年)、50歳の時であった。この時建てられた堂宇は「最初院」または「多宝寺」と称され、『法華経』「見宝塔品」に登場する多宝如来と釈迦如来を本尊とするものであったが、その建築形式等の詳細は不明である。
現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年(1124年)と判明する。この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体(ミイラ)が安置されている。
平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立) などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみである。
落慶供養願文
中尊寺に関わる重要史料の1つに「中尊寺落慶供養願文」[7]と称されるものがある[8]。これは藤原清衡が天治3年(1126年)3月24日付けで、鎮護国家のために大伽藍一区を建立供養する趣旨と、その伽藍の概要とを記したものである。なお、願文の原本は伝わらず、現存するものは、延元元年(1336年)頃の北畠顕家筆と、嘉暦4年(1329年)の藤原輔方筆の写本[9]である。かつての通説では、この願文が中尊寺一山の落慶供養を表すものと解釈されていた。しかし、この願文の本文中には「中尊寺」という寺号が使われていないこと、願文中に列挙されている「三間四面檜皮葺堂」などの建物跡が現在の中尊寺境内に見当たらないこと、願文中に出てくる建物、橋、池などはむしろ同じ平泉にある毛越寺の旧伽藍とよく一致することなどから、この願文は毛越寺の建立供養に関わるものとする説が中川成夫によって提唱され、複数の研究者によって支持されている。また、この文書は天治3年3月24日付けであるが、天治3年は1月22日に改元して大治となっていることから、この願文は改元以前に作られた案文であると推定されている。
寺号
「中尊寺」の寺号については、天治3年(1126年)の経蔵文書が初出ともいうが、この文書自体に疑義がもたれている。そのため、確実な資料としては、歌人・西行が康治年間 (1142年 – 1144年)、この地を訪れて詠んだ歌の詞書(『異本山家集』所収)に「中尊と申所」云々とあるのが初出だとされている。
「中尊」は「奥州の中心に位置する」の意と解釈されている。中尊寺貫主を務めた多田厚隆は、「中尊」とは『法華経』「序品」にある「人中尊」に由来するとした[12]。しかし、「人中の尊」という意味の語から「人」字を省いたのでは意味をなさないとして、これに反対する見解もある。
中世以降
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、源頼朝の庇護を得て存続した。『吾妻鏡』に、当時の中尊寺から頼朝に提出された「寺塔已下注文」(じとういげのちゅうもん)という文書が引用されている。これは、時の権力者に提出する文書として、当時残っていた堂宇を書き出し報告したもので、当時の伽藍の実態にかかわる史料として信頼のおけるものとされている。これによれば、当時の中尊寺には金色堂のほかに、釈迦如来・多宝如来を安置した「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置した「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」(大長寿院)などがあったという。承元4年(1210年)5月、頼朝が藤原基衡の時の通り伽藍等を興隆するよう沙汰を残していたにも関わらず荒廃していると、中尊寺の僧侶から幕府に申し出があり、大江広元が奉行となり元のように年貢を送るよう、寺領の地頭に命令を下した[14]。中尊寺には、建武4年 (1337年) に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまった。
江戸時代には仙台藩領内となり、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われた。承応3年(1654年)からは仙台・仙岳院が別当寺となった。寛文5年(1665年)には江戸・寛永寺の末寺となった。しかし、元禄2年(1689年)に『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が、中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られる。
1909年(明治42年)に本堂が再建。1950年(昭和25年)に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体に対する学術調査が実施された。この結果、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に2代基衡、左壇(向かって右)に3代秀衡の遺体が安置され、右壇にはさらに4代泰衡の首級が納置されていることが判明した。1958年(昭和33年)には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。1962年(昭和37年)より金色堂の解体修理が行われ、6年後の1968年(昭和43年)に創建当時の輝きを戻すことになる。
現在は、泰衡の首級桶から発見された種子から発芽し、1998年(平成10年)に開花した蓮の花が「中尊寺ハス」として境内に植えられている(花弁が現在のものより少し細く、薄いのが特徴)。
中流・下流(長良川)(昭和33年)
長良川(ながらがわ)は、岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、三重県を経て揖斐川と合流し、伊勢湾に注ぐ木曽川水系の一級河川である。濃尾平野を流れる木曽三川のひとつ。なお、下流の一部では愛知県にも面し、岐阜県との県境を成している。四万十川・柿田川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれる。
幹川流路延長166km、流域面積1,985km2、河床勾配1/500から1/5,000程度の一級河川である[1]。流域内市町村は岐阜市・羽島市など13市7町、流域内人口は約88万人。流域の年平均降水量は山間部で約2,500~3,000mm以上、平野部で約2,000~2,500mmで[2]、年間総流量は年度によって増減するが約40億m3である。清流として有名であり、柿田川、四万十川とともに日本三大清流のひとつと言われ、中流域が1985年(昭和60年)に環境庁(現・環境省)の「名水百選」 に、また岐阜市の長良橋から上流約1kmまでの水浴場が1998年(平成10年)に環境庁の「日本の水浴場55選」に、2001年(平成13年)に「日本の水浴場88選」に全国で唯一河川の水浴場で選定された。「長良川鵜飼」で有名。本流に河川法で規定されるダムが存在しない事でも知られる。1994年(平成6年)に長良川河口堰が出来るまでは、本州で唯一の本流に堰の無い大きな川だった。
かつては下流域で木曽川・揖斐川と合流・分流を繰り返していたため、木曽川の「支流」という扱いになっていたが、木曽三川分流工事により、現在は堤防によって河口まで流路が分けられている。また、昭和初期まで中流域の岐阜市長良福光で長良古川と長良古々川が分派していたが、1939年(昭和14年)に完成した長良川改修工事によって締め切られ、現在の姿となった。締め切りによって生まれた約160haの広大な土地には岐阜県総合運動場(現・岐阜メモリアルセンター)、岐阜市立中学校(現・岐阜県立岐阜北高等学校)、岐阜県立岐阜商業高等学校、岐阜市立伊奈波中学校(2012年3月閉校)、岐阜市立明郷中学校(2012年3月閉校)、岐阜市立岐阜清流中学校(2012年4月開校)などの文化施設や教育機関、県営近の島住宅などの住宅団地が多数建てられ、岐阜市の発展の一助となった。なお、長良古川は「早田川」、長良古々川は「正木川」として、かつての流路を確認する事が出来る。
中・下流域では洪水から家屋を守るために大小多数の「輪中」が形成されており、現在もその一部が残されている。
また、流域市町村の小中学校や公私立高等学校の校歌にも、金華山とともに長良川が詠われている。
長瀧白山神社六日祭「延年の舞」(8方向撮影)
この芸能は、白山長滝神社の祭りに行なわれるもので、養蚕豊作を祈願する修正延年、六日祭、花奪い祭などとも呼ばれる。もと寺院(長滝寺)で行われたため、形式、内容とも古い延年の古風を遺し伝えている点、芸能史的に貴重なものである。
この芸能は、祭殿中央に菓子台を据え、神主、長老、学、中老、太鼓役、笛役などが左右にならび、まず長老の菓子ほめの詞があり、承仕【しようじ】が別座の者に菓子をくばり、菓子台を群衆に投げる。この長老、承仕の所作【しよさ】のあと、若輩が笛、太鼓に合わせて田歌をうたい、当弁の囃子舞、稚児の乱拍子、続いて田踊、大衆舞などが演じられる。特に田踊には小歌もうたわれるなど、延年の演出法としては特色のいちじるしいものである。
長瀧白山神社
長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町長滝に鎮座する神社である。日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。
明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、明治時代の神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離された。神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである(参道から左側が長滝寺、右側が長滝白山神社)。
社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。宗教法人としての登録名は「白山神社」。旧社格は県社。
伝承によれば、養老元年(717年)、白山中宮長滝寺として泰澄が創建したとされる。同6年には同寺にて元正天皇の病気平癒を祈願して効験があったことから、元正自作の十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の本地仏を安置し、白山本地中宮長滝寺に改称したという。
天長5年(828年)にはそれまでの法相宗から天台宗寺院へ改宗。同9年には白山三馬場の一つになる(『白山之記』)。馬場とは禅定道の起点のことであり、白山三馬場とは、美濃国の白山中宮長滝寺、加賀国の白山寺白山本宮(現白山比咩神社)、越前国の平泉寺白山神社である。平安時代の長滝寺は、白山三所、若宮社、大講堂、鐘楼、護摩堂、神楽殿、三重塔、法華堂、薬師堂など30以上の堂宇が建ち、6谷6院360坊を有していたという。文永8年(1271年)には火災により半数の建物を焼失。正応3年(1290年)には本殿が再建された。
宝徳2年(1450年)には比叡山延暦寺西塔院南尾一切経蔵院の末寺となる。
江戸時代には白山嶺上の管理を巡り、美濃馬場の白山本地中宮長滝寺、加賀馬場の白山寺白山本宮、越前馬場の平泉寺との論争が起きる。日本全国の白山神社の半数以上が白山本地中宮長滝寺系統の白山神社であったという。
慶応4年(明治元年、1868年)、神仏分離令により、長滝白山神社と長瀧寺に分離した。白山本地中宮長滝寺の建物のうち、白山三社、拝殿は長滝白山神社となり、大講堂、薬師堂、弁天堂、鐘楼、経蔵などは長滝寺となる。明治32年(1899年)に火災で社殿を焼失し、現在の建物は大正時代の再建である。長滝白山神社、長瀧寺、阿名院が共同で設置した宝物殿(瀧宝殿)は、2018年(平成30年)に郡上市に寄附され、郡上市の施設白山瀧宝殿となっている。
長瀧白山神社・六日祭準備の様子(花奪いの花作り)
毎年1月6日に長滝白山神社で「六日祭」が行われ、国重要無形民俗文化財の「長滝の延年」が古式ゆかしく奉納されます。
延年とは本来寿命を延ばすというめでたい言葉ですが、平安・鎌倉時代に奈良・京都の大寺院で催される遊宴芸能を指す言葉になりました。
「長滝の延年」は白山中宮長滝寺で大晦日から7日間行われた修正会の最後の日に若い僧や稚児が芸能で僧侶や神主を労い、また新年にあたり国家安穏、五穀豊穣を祈るものでした。
延年の舞の途中から勇壮な「花奪い」が行われるため、「花奪い祭り」とも呼ばれます。
この「花奪い」とは、拝殿の高さ6mの天井に吊るされた5つの大きな花笠を人梯子を組んで奪い合うというもので、この花を持ち帰ると、豊蚕、豊作、家内安全、商売繁盛になるといわれています。
長良川の上流から下流まで
長良川(ながらがわ)は、岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、三重県を経て揖斐川と合流し、伊勢湾に注ぐ木曽川水系の一級河川である。濃尾平野を流れる木曽三川のひとつ。なお、下流の一部では愛知県にも面し、岐阜県との県境を成している。四万十川・柿田川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれる。
幹川流路延長166km、流域面積1,985km2、河床勾配1/500から1/5,000程度の一級河川である[1]。流域内市町村は岐阜市・羽島市など13市7町、流域内人口は約88万人。流域の年平均降水量は山間部で約2,500~3,000mm以上、平野部で約2,000~2,500mmで[2]、年間総流量は年度によって増減するが約40億m3である[3]。清流として有名であり、柿田川、四万十川とともに日本三大清流のひとつと言われ、中流域が1985年(昭和60年)に環境庁(現・環境省)の「名水百選」 に、また岐阜市の長良橋から上流約1kmまでの水浴場が1998年(平成10年)に環境庁の「日本の水浴場55選」に、2001年(平成13年)に「日本の水浴場88選」に全国で唯一河川の水浴場で選定された。「長良川鵜飼」で有名。本流に河川法で規定されるダムが存在しない事でも知られる。1994年(平成6年)に長良川河口堰が出来るまでは、本州で唯一の本流に堰の無い大きな川だった。
かつては下流域で木曽川・揖斐川と合流・分流を繰り返していたため、木曽川の「支流」という扱いになっていたが、木曽三川分流工事により、現在は堤防によって河口まで流路が分けられている。また、昭和初期まで中流域の岐阜市長良福光で長良古川と長良古々川が分派していたが、1939年(昭和14年)に完成した長良川改修工事によって締め切られ、現在の姿となった。締め切りによって生まれた約160haの広大な土地には岐阜県総合運動場(現・岐阜メモリアルセンター)、岐阜市立中学校(現・岐阜県立岐阜北高等学校)、岐阜県立岐阜商業高等学校、岐阜市立伊奈波中学校(2012年3月閉校)、岐阜市立明郷中学校(2012年3月閉校)、岐阜市立岐阜清流中学校(2012年4月開校)などの文化施設や教育機関、県営近の島住宅などの住宅団地が多数建てられ、岐阜市の発展の一助となった。なお、長良古川は「早田川」、長良古々川は「正木川」として、かつての流路を確認する事が出来る。
中・下流域では洪水から家屋を守るために大小多数の「輪中」が形成されており、現在もその一部が残されている。
また、流域市町村の小中学校や公私立高等学校の校歌にも、金華山とともに長良川が詠われている。
長良川上流(昭和33年)
長良川(ながらがわ)は、岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、三重県を経て揖斐川と合流し、伊勢湾に注ぐ木曽川水系の一級河川である。濃尾平野を流れる木曽三川のひとつ。なお、下流の一部では愛知県にも面し、岐阜県との県境を成している。四万十川・柿田川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれる。
幹川流路延長166km、流域面積1,985km2、河床勾配1/500から1/5,000程度の一級河川である[1]。流域内市町村は岐阜市・羽島市など13市7町、流域内人口は約88万人。流域の年平均降水量は山間部で約2,500~3,000mm以上、平野部で約2,000~2,500mmで[2]、年間総流量は年度によって増減するが約40億m3である。清流として有名であり、柿田川、四万十川とともに日本三大清流のひとつと言われ、中流域が1985年(昭和60年)に環境庁(現・環境省)の「名水百選」に、また岐阜市の長良橋から上流約1kmまでの水浴場が1998年(平成10年)に環境庁の「日本の水浴場55選」に、2001年(平成13年)に「日本の水浴場88選」に全国で唯一河川の水浴場で選定された。「長良川鵜飼」で有名。本流に河川法で規定されるダムが存在しない事でも知られる。1994年(平成6年)に長良川河口堰が出来るまでは、本州で唯一の本流に堰の無い大きな川だった。
かつては下流域で木曽川・揖斐川と合流・分流を繰り返していたため、木曽川の「支流」という扱いになっていたが、木曽三川分流工事により、現在は堤防によって河口まで流路が分けられている。また、昭和初期まで中流域の岐阜市長良福光で長良古川と長良古々川が分派していたが、1939年(昭和14年)に完成した長良川改修工事によって締め切られ、現在の姿となった。締め切りによって生まれた約160haの広大な土地には岐阜県総合運動場(現・岐阜メモリアルセンター)、岐阜市立中学校(現・岐阜県立岐阜北高等学校)、岐阜県立岐阜商業高等学校、岐阜市立伊奈波中学校(2012年3月閉校)、岐阜市立明郷中学校(2012年3月閉校)、岐阜市立岐阜清流中学校(2012年4月開校)などの文化施設や教育機関、県営近の島住宅などの住宅団地が多数建てられ、岐阜市の発展の一助となった。なお、長良古川は「早田川」、長良古々川は「正木川」として、かつての流路を確認する事が出来る。
中・下流域では洪水から家屋を守るために大小多数の「輪中」が形成されており、現在もその一部が残されている。