郡上おどり
郡上おどり(ぐじょうおどり)は、岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、三大民謡(郡上節)に数えられる。
中世の「念仏踊り」や「風流踊」の流れを汲むと考えられている。盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758年〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
郡上おどりの由来
民謡は土から生れる、といわれているが、郡上おどりも山紫水明の里から、そこに住む人たちによって生れたものである。
私たちの祖先が、その時代における生活や感情を、素朴に唄い踊った民謡や踊りは、その源流がどこにあるにせよ、幾多の変遷を経て人々の息吹きのなかに育てられ、なお今日の、現代に生きる者の胸にもひしひしと迫ってくるもののあるのは、言いしれぬなごやかさに郷愁を感ずるからであろう。
郡上おどりの起源はさだかでないが、四百年ほどの伝統を持つといわれている。徳川三代将軍家光公の時代、ときの郡上領主であった遠藤左馬介慶隆は、八幡城の戦いや、天下分目の関ケ原合戦(慶長五年、一六〇〇)の後、その軍功を徳川家康に認められて、故領である八幡城へ復帰し、一郡二万七千石の領主となって、城郭を修理し庶政を整え、慈恵寺の開基や愛宕神社の勧請につとめた。
また戦雲ようやくおさまったなかで、寛永四年(一六二七)郡内における人心の安定と平和を楽しむために、その当時、所々方々で行なわれていた盆踊りを、宮や寺の境内あるいは門前町などで、踊り振りをよくするように奨励させたと伝えられている。
遠藤氏四代目の備前守常友は、時の将軍家綱の覚え目出たく、寛文七年(一六六七プ幕府に請うて八幡城の大改築に当った。また城下町の整備に尽して、願蓮寺や最勝寺を近郷から八幡へ移し、洞泉寺を建立した。
なお、町振りを良くした町家に褒美を与えたりして、城下町としての要件を備えたところから、ここに始めて城主格から城主としての待遇を受けることになった。
さらに書画に秀いでた文人であり、民衆の和楽にも深い親しみと理解があったとされているから、ようやく整然となった町並みで、士農工商の融和をはかるために盆踊りを奨励されたので、踊りはますます盛大となり、領民に心のよりどころを与えてきたものと思われる。
幕末のころ城下では、七大縁日の盆踊りが恒例になっていた。七大縁日とは、旧六月十六日八坂神社の天王祭(上ケ洞)・七月二日大乗寺の三十善神祭(向山)・七月七日洞泉寺の弁天七夕祭(尾崎)・七月十四日から十六日までの孟蘭盆会(橋本町、新町)・七月二十四日桝形のうら盆地蔵祭(桝形町)であり、この山深い奥美濃の純朴な里人たちによって、歌い継がれ踊り続けられてきた。これは、山間地における唯一の社交の場であり、また最大の娯楽でもあったからであろう。
現在では、信仰と和楽をもとめる人たちの願いをあつめて、あの町この町に縁日の祭りと踊りが立ち、七月中旬から九月初旬にかけて「郡上おどりの夕べ」が繰り広げられている。老若男女の踊り手が、ときには数千人の一団となり、音頭や囃子にあわせて手拍子を揃え、無心に踊りぬく姿はまことに壮観なものであり、ことに徹夜で踊り明かす盆の四日間は、七重八重の輪がひろがり、郡上おどりならでは、見ることも、また味わうこともできない一大絵巻である。
この郡上おどりは、往年の画伯・岡本一平先生の言われたように「見る踊りではなく一諸になって踊り楽しむもの」である。誰でもどんな服装でも、気軽に輪の中に入って、手や足を動かしているうちに、踊れるようになるのが、郡上おどりの面白さであり魅力であるとされている。
また踊りの種目も多く「古調かわさき、かわさき、三百、春駒、ヤッチク、げんげんばらばら、猫の子、甚句、さわぎ、まつさか」と十曲を数える。このうちの七曲の配列をみて、東京大学の教養学部・体育史の石津政雄先生が、科学的に解明され、郡上おどりは運動生理学上きわめて合理的である。と発表されている。
すなわち、準備運動の「かわさき」本運動の「三百・春駒」骨休めの「ヤッチク」を中に、最高の「げんげんばらばら」から「猫の子」へ、整理運動の「まつさか」へと、ひとまわりするようになっている。しかしこの順番は、必ずしも一定したものではなく、その時の踊り場の調子を見て、硬軟・緩急の踊り種目を組み合わせてゆくもので、夜明かしで踊っても楽しくおどれ、音頭取りも囃子方もなお踊り子も、ともに疲れきることのないように仕組まれており、古老や先達の編み出した最高の演出である。
とおい祖先から伝承されてきた、この素朴にして心豊かな文化遺産を、誇りある郷土民謡として守り育てるとき、郡上おどりは、山と山とに囲まれたこの土地の習俗とともに、郡上を訪れる人たちの旅情をかきたててやまないであろう。
郡上おどりの特色
一、里人の結合性
奥美濃の辺境にあって人情のこまやかな里人たちが、いつの時代いかなる圧制の場合にもくずれることなく、つねに心のよりどころとして育てあげてきたのが「郡上おどり」である。
純朴と勤勉そして忍耐力の強さは、山間の狭小な痩せた土地と寒冷のなかに生きてきた先祖から、次ぎつぎに受け継いだ郡上の根性とでもいうべきであろう。しかもそれは、村むらの団結に支えられた不屈の精神をあわせもっていたのである。
宝暦年間における郡上一揆の「傘連判状」は、神文に対して平等の責任を負うように円型に名前を連ねたものであり、目的遂行を誓い合った統合性の現われである。この決死の盟約があったからこそ、四年半にもわたる長期間の抗争を続けることができたのであり、その結果は、同時代における百姓一揆のほとんどが一つの悲願として終わっているのに対して、郡上のそれは、領主改易まで追い込んだのであった。
こうした郡上人の精神や根性に支えられてこそ、この歌や踊りを親から子へ孫へと伝承し、数少ない娯楽の一つとして今日まで伝えてきたものである。
ニ、徹夜の盆踊り
盆の八月十三日から十六日まで四日間は、徹夜で踊り明かす習慣が古くから行なわれており、昭和三十年代ころまでは宵の口から翌朝六時ごろまで踊られていた。今日では公衆衛生や交通安全等の見地から午前四時までに改められているが、いずれにしても、長時間にわたって踊り続けるには、それなりの変化と盛りあがりがあるからであろう。
夜を徹して踊り明かすためには、単調さをさけた歌や踊りの種類が必要でその点郡上おどりの、かわさき・三百・春駒の歌詞は、七・七・七・五調であっていずれにも通用し緩急の妙を得ている。しかも、かわさきと三百は音頭取りと踊り子との唱和形式をとっていて、音頭取りが一つの歌詞を唄うと、踊り子が唱和しその四の句を二度返し三・四の句へとつづいている。
なお歌詞のあいだには、「アソンレンセ」とか「ホイ」という短い囃子詞をいれて、音頭取りと踊り子の意気のふれ合いを深めている。また春駒は威勢のよい踊りであるところから、歌の返しはしないがやや長い囃子詞の「七両三分の春駒 」によって、踊り全体を調子づけているのである。
このようにして、歌詞の自由な選択と返し歌や囃子詞によって、相当に長い時間を楽しむことができるのである。さらには、古調かわさきや猫の子・さわぎ・甚句などを組み入れ、また、げんげんばらばち・ヤッチク・まつさかなどの口説き歌をあわせ用いることによって、踊りの単調感を少なくし、囃子方の疲労度を救うようになっている。 口説き節はもともと仏教音楽から出た唄い方であるといわれ、鎌倉時代の平家琵琶の中にもこれがあったとされている。口説きの歌詞は七七調または七五調の連続したもので、曲節も平板になりやすいところから、音頭取りは歌詞の内容によって、リズミカルに唄いあげることに心をくだいている。特に「ヤッチク」と「まつさか」の歌詞は長いので一節ごとに踊り子が声を揃えて「アラ、ヤッチクサッサ」とか「コライ、コライ」や「ア ヨイヤナー ヤートセー」と囃子詞をいれて、歌と踊りを盛りあげているのである。
三、盛大な縁日おどり
幕末のころから行なわれていた七大縁日のほかに、その後年を経るにしたがって、神典薬師祭・電気地蔵祭・毛付市夏祭・城山地蔵尊祭・およし祭・秋葉祭・恵比須祭・慈恩寺弁天祭・十八観音祭・弘法祭・宗祇水神祭・宝暦義民祭・岸剣社川祭・凌霜隊慰霊祭・小野天神祭・犬啼水神祭等々が、各町内の縁日にちなんで逐次増加されてきた。
これらの縁日踊りでは、それぞれの特色を生かした工作物、たとえば電気地蔵祭には電気仕掛けの造り物が飾られ、農家の多いところでは野菜で作った動物、器用な人のいる所では物語り風の人物像、はてはお化けや判じ物、京祇水では連句と狂俳の掛け行燈など、夕涼みと踊りをかねての楽しい夏の風物詩となっていた。
縁日踊りへ踊り屋形が出るようになってからは、各町内における踊り場も、盆さながらの風情となり、観光客のなかでも郡上おどりの良さにほれこんだ人びとは、盆のごったがえすような時よりも、むしろゆったりとして自由に踊れる、縁日踊りを選んで来られるような傾向になってきている。
いま全国的に有名な、いくつかの民謡踊りは、おもに七月から九月の間に、いずれも二晩か三晩を盆踊りとして行なわれているものであり、縁日踊りというものはみられない。
このように、踊り期間が二か月余におよぶところは、郡上おどり以外にその例をみないのである。
出典 :『重要無形民俗文化財 郡上おどり』(郡上おどり保存会・平成一〇年四月一日)より一頁から二〇頁 抜粋
1.郡上おどり資料
郡上踊りの一連の所作
動画
01 古調かわさき ~ 05 猫の子
06 さわぎ ~ 10 まつさか
01 古調かわさき
天正年間(一五八〇年代)に、伊勢の参宮道者によってもたらされたという踊りが、山紫水明の郡上の里で、さまざまな変遷をたどりながら、その風土にあったものとして磨きあげられてきたものである。
現在、国の無形文化財に指定されているなかの「古調かわさき」は、輪踊り【原文まま】で時計の針の逆回りであり、その手振りや足の踏み方などを見ても、昔の農耕の所作が取り入れられており、歌詞も飾り気のない庶民生活に根ざしたものや、作業歌が残されていて、いかにも奥美濃の純朴な人情・風俗に似つかわしい踊りである。
02 かわさき
今日、郡上おどりの代表的な踊りとされている「かわさき」は、大正三年(一九一四)に開かれた共進会(生糸・蚕・茶・材木・薪など)に上演するため、戸塚鐐助氏(元川合村長)が、郡上之曲「花のみよしの」を作詞され、その節付けは杵屋六満左師に、また花のみよしのの踊りのなかに、古調かわさきの動きを取り入れた、新かわさきの振り付けを西川倉寿師が担当されたのである。
大正十一年に郡上おどり保存会が結成されて、この新「かわさき」を世に出そうと尽力され、その後、歌詞は卑猥なものを改めるためにて一般から募集して、曲も新しくととのえられた。
この上品な歌詞や落ち着きのある曲、あるいはリズム感にあふれる踊りは、全国民踊大会においても、健全な大衆娯楽であるとして推奨され、庶民全般の馴染みぶかい民踊といわれ、各地の盆踊りにも取り入れられて盛大に催されている。
03 三百
郡上の宝暦騒動は、前後五年にも及んで、駕籠訴や箱訴をおこなうまでに進展した。その結果、百姓一揆の主たった者は処刑され、城主の金森家も改易されるに至った。
その後を受けて、郡上・越前のうち四万八千石を給せられた青山幸道は、こうした物情騒然たる藩内の情勢を警戒し、政治対策には一段と腐心したようである。宝暦九年(一七五九)六月、丹後の宮津から入部に際して、供の者の長途の労をねぎらい、また藩内から出迎えた者にもその志をめでて、三百文づつを与えたといわれている。
それに感激した里入たちが、湧きおこる声とともに欣喜雀躍して、そのころに踊られていた地踊りを思わず披露におよんだといい、その踊り姿が「三百」とよばれるようになったのである。
04 春駒
八幡城の領主遠藤慶隆は、天正年間(一五八二ころ)郡内の馬を城下に集めたといわれている。それは畜産奨励の意味と、戦国の余塵がただよっていたので、軍馬徴発の必要性があったからであろう。
毛付市(徴馬の制)は、毎年土用入り後七日目(七月二十七、八日ころ)に、八幡城一之門前の芝野で検査を受け、一定の基準に合格した馬は、その印としてタテガミの一部を刈り取って門内に入れ、さらにその中から所要の軍馬頭数を徴発した。徴収される馬には高価な代償を与えて、馬の飼育を奨励したという。また徴発もれとなった馬は、翌日からの馬市場で売買され、タテガミ落しの馬は特に高値を呼んだ。この毛付市へは他領から入ってくる者も数多く、相当な賑わいであったことが想像される。
この毛付駒に鞭打って走る勇ましい姿が、威勢のよい踊りの動きとなったものであり、宇治川の先陣争いの名馬磨墨以来、馬にゆかりのふかい郡上の地にふさわしい、活気にあふれた〝郡上マンボ〟ともいう踊りである。
05 猫の子
郡上地方の農家では田畑が少ないので、古くから養蚕が副業の第一として盛んに行なわれてきた。昔から伊勢神宮の神職の装束を織る糸には、主として郡上の生糸が用いられたという。平安時代からの「延年舞い」で有名な、白山長滝神社における豊蚕祈願祭は、養蚕農家の信仰をあつめ、豊作のために長滝花を授かるというものであった。
養蚕農家の多い郡上では、猫を飼うところも増え、猫は蚕を食い荒らす猟取り用とし、あるいは愛玩用としても可愛いがられた。
子猫のあいらしい所作をまねしたこの踊りは、若い衆たちが在来の踊りに飽き足らないで、即興的に唄い踊ったものと思われ、歌詞にも字足らずや字余りがみられ、また方言も入っており、足腰を奔放に動かす愉快なものである。
06 さわぎ
元禄時代に流行した騒歌は、遊里で三味線や太鼓を用いて賑やかに唄ったものであり、また地方での騒ぎは、酒宴などで賑わしく唄い踊ったことをいったものである。
江戸中期以降には、郡上の領主も城下町の商工業を盛んにするために、各地から商人や職人を招いて店や仕事場を開かせ、これらには特別に運上を免じて保護したので益々繁栄をつづけた。
さわぎの歌も、他所からの出入りを許された旅芸人などによって伝えられたものであろう。郡上ではこの踊りに三味も太鼓も入れないが、派手な手拍子と、ことさらに踏み鳴らす履物の音が勢いよく響いて、見物衆を興奮させる。歌詞には男女間の情緒を唄ったものが多いようである。
07 甚句
甚句という盆踊り歌は、地の句が訛ったものといわれ、各地の歌詞にもその地方で唄いつがれたものが多い。
また一説には、越後国の甚九という人が始めたものだともいわれている。詩形はほとんど七・七・七・五調からなるもので、囃子詞や節回しはそれぞれに異っており、郡内でもまちまちである。
江戸時代末期から流行したといわれる相撲甚句は、力士が土俵で余興に唄ったもので、この囃子詞は「ドスコイ、ドスコイ」であるが、郡上甚句は「トコ、ドッコイ、ドッコイ」となっている。
08 げんげんばらばら
郡上領主青山氏の時代に、城下である殿町に屋敷を築いて下御殿と称した。領主は在国中の多くをここですごし、本丸へ行くのは式例のときだけであったという。
げんげんばらばらは、御殿女中の手毬突きの様子が、優雅な踊り姿になったもので、歌詞の元歌は古くから郡上地方で一般に唄われていた、童歌とか糸引きの座繰りの歌であった。手毬突き遊びには数多くの歌詞を必要としたので、口説調の盆歌や子守歌などもうたわれ、また各地の珍らしい歌も取り入れられたものである。
したがって、歌い始めの「……何事じゃ」は、今度の歌はどんなことかという問いかけであろう。その題意は、子供の片足跳遊びのケンケンが、雉子の鳴声と混同し、羽根をばたつかせて子を思うところから「ケンケンバタバタなぜ鳴くね、親がないか子がないか」という手毬歌として唄われるようになり、これが訛ったものであるともいわれている。
09 やっちく
承応の時代(一六五三ころ)から、四竹打ちといって、扁平な竹片を両手に二個ずつ持って打ち鳴らしながら、小唄や踊りをすることが流行し、これを願念坊主(ちょんがれ)といった。
四万八千石の城下町として栄えた郡上八幡へは、江戸末期になるといろいろな旅芸人が入りこみ、中でも両方の手に八枚の竹片を連ねて打ち鳴らしながら「鈴木主水」や「八百屋お七」の祭文を哀調をこめて門付して唄い回ったのが、人々の共感を呼んで踊り化したといわれている。
歌詞には、この土地が生んだ責重な歴史である、「郡上宝暦義民伝」や「郡上藩・凌霜隊」なども作られており、囃子詞の「アラ、ヤッチクサッサ」は(あら、八竹サが来た)という、それがそのものずばりの題名になったと思われる。
10 まつさか
江戸時代に盛んに行なわれていた、伊勢神宮へのお陰参りで、諸国から集ってくるその参詣者たちが、伊勢の古市あたりで習いおぼえた「木遣」の 松坂越えて坂越えて坂の峠で日が暮れて……。という木遣音頭を、郷里へ帰ってから、その土地の盆踊り口説きに同化してひろめたものといわれている。
郡上の「まつさか踊り」の囃子詞にある「ア、ヨイヤナ、ヤートセ」は、伊勢音頭の「ヤートコセ、ヨ―イヤナ」の変化したものである。踊りの手振りや足の運び方が比較的単調であるのに、長い伝統をもっているということは、その歌詞が諸種の語り物から、地元の名所案内や、郷土の伝説などにつながる口説節になっていて、多くの人々から愛着をもって迎えられているからであろう。
郡上おどり オーラルヒストリー
中部国際空港(国際線)にデジタルサイネージを設置
知識基盤社会においては、様々な正確で良質な知識の集合体の整備が重要であるが、知識循環型社会の実現においては、様々な知的資料を集積した知識の集合体をどのように利活用するかが重要になる。また、様々な利用者が活用するためには結果よりも作業のプロセス情報が必要となる。意思決定結果より、意思決定のプロセスのほうが必要となる。即ち、知識循環型社会おいては結果のアーカイブよりプロセスのアーカイブが必要となる。
デジタルアーカイブについても、最終的な作品より作品を作成しているプロセスのデジタルアーカイブが重要となる。今回、飛騨高山匠の技DAについては、一位一刀彫や飛騨春慶塗の製作過程をデジタルアーカイブしている。このように、デジタルアーカイブする対象についても、知識基盤社会と知識循環型社会とは異なり、利活用することにより、新たな知識を創造する社会(知識循環型社会)に対応したデジタルアーカイブをする必要がある。
知識循環型社会においてデジタルアーカイブした飛騨高山の匠の技データベースが、2万件近い情報を非公開長期保存型データベースに保管している。この地域資源デジタルアーカイブを交通・観光に活用するために、デジタルサイネージへの展開を考えた。
デジタルサイネージは、一般に「サイネージ」と呼ばれることもありるが、「電子看板」、「電子広告」などとも呼ばれている。主な用途としては、紙に代わる新しい情報伝達媒体として利用されており、画像や動画などデジタルコンテンツとディスプレイを組み合わせて、紙のポスターやお知らせを置き換えて使われることが多い。
今回、飛騨高山匠の技DAした8万点の情報から知の増殖型サイクルのプロセスを抽出しデジタルコンテンツとして作成し、中部国際空港の国際線のブースに設置した。
地域文化デジタルアーカイブを用いた地方活性化のための交通・観光施設での広報活用
映像コンテンツ
デジタルサイネージでは以下の映像を順次放映しています。
① 飛騨高山匠の技ものがたり
② 飛騨高山匠の技ものがたり(英文)
③ 飛騨高山の匠の技とこころ
④ 飛騨高山の匠の技とこころ(英文)
⑤ 飛騨高山匠の技とまつり
⑥ 飛騨高山匠の技とまつり(英文)
飛騨民俗村(飛騨の里)
飛騨民俗村(ひだみんぞくむら)は、岐阜県高山市にある博物館(野外博物館)。飛騨の伝統産業(一位一刀彫、飛騨春慶塗、草木染めなど)の伝承保存、飛騨地方の民具の展示、合掌造りなどの飛騨地方の民家の移築保存がされている。
昭和30年代、御母衣ダムにより水没する合掌造り民家の矢篦原家(やのはらけ)住宅が横浜市の三渓園に移築されるなど、次々と貴重な民家が移築されていくことに対し、地元で保存していく考えで開業した施設である。
案内には「飛騨民俗村・飛騨の里」と表記される場合が多い。正確には昭和34年(1959年)開館の飛騨民俗館(現・民俗村)と昭和46年(1971年)開館の飛騨の里を合わせた施設を「飛騨民俗村」という。民俗村と飛騨の里は、約700メートル離れており、敷地内を徒歩で移動する。
敷地内には、飛騨地方の民家の建物約30棟(重要文化財4棟、岐阜県指定重要文化財7棟)が移築保存されている他、養蚕、林業といった貴重な民具が保管されている。一部は実際に触れることもできる。 工芸集落では、一位一刀彫、飛騨春慶塗、草木染め、機織りがなど伝承保存されている。工芸集落内では、わら細工、刺し子、壁飾り、草木染め、さるぼぼ、版画の製作の体験教室や、わら細工、刺し子、機織り、ひのき笠、バンドリ(雨や雪用の蓑。バンドリ「飛騨弁でムササビ」に由来)、ショウケ(ザルの一種)など民芸品作りの実演が行なわれている。 民家の他、山岳資料館(旧高山測候所)、土蔵、和紙漉小屋、バッタリ(唐臼)小屋、車田がある。 収集品の飛騨の山村用具と飛騨のそりコレクションは、重要有形民俗文化財に指定されている。
臥龍桜
臥龍桜最古の歴史
1100年もの間、臥龍桜はいろいろな世の中の移り変わりを見てきました。
天正年間(1573年~1592年)には、この地を治めていた、三木國綱三澤が、金森長近との戦いに敗れ大桜の根元に葬られたと伝えられています。
今日も根元に五輪塔が、柵の外右側に三木家の祖霊社が祀られています。
また毎年秋には、飛騨一宮水無神社の神主さんと大幢寺の和尚さん、三木家縁の人たちが30人ほど集まり、「三木祭り」といって祖先を供養しています。
この桜が初めてこの地に根付き、どのようにして育ってきたかを裏付ける資料は残っていませんが、江戸時代(元禄年間1680年)には、全国を行脚した旅の僧「円空」が、この桜を見て詠んだとされる歌が残されています。
※円空さんの歌「一の宮 神の御舟は はるはると 花の盛りも 長くさくらん」
「音に聞く 位の山の 榊はハ 手にとる度に 花かとぞ思ふ」
水無神社
創立鎮座の年代は神代にありと伝わりますが、古伝旧記が散逸して詳しい事は定かではありません。
歴史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867年)に従五位上の神位を授けられた記事にはじまります。
元慶5年(881年)には従四位上に昇叙され神位も累進し、中世の鎌倉時代以降には神仏習合が進み、神仏一体の両部神道として社僧を置き本地堂一宇を建てて釈迦像を安置し、水無(みなし)大菩薩を称するようになりました。
文明年間(1469年~1486年)の頃には当社には十二家の祝があり、棟梁家として山下、一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村の3700余石に達して、後にその各ヶが武士化して一宮党として隆盛となりました。
また、この頃には室町幕府へたびたび神や御巻数の進上があったり、大永元年(1521年)出羽国に住む治部宥範が本願のもと、神主藤原氏部少輔政治は所々を勧進して水無神社を造営上葺し、高原城の江馬時経、三仏寺万春後室の妙泉、一宮少納言、渚南兵衛、久々野田中左衛門太郎の人達が資金を寄進されたり、国土の安穏を祈願されたりなどと朝野の篤い崇敬をうけていた事が伺えます。
天文~弘治年間(1532年~1558年)の頃には、社家の一宮右衛門大輔国綱が松倉城主の三木自綱と姻戚関係を結び名を三木三沢と称し山下城主として、神職を家臣の森某に譲り武威を誇りましたが、天正13年(1585年)金森長近に滅ぼされ、これに伴い当社も衰徴しました。
高山藩主となった金森長近は在来からの一宮という神威を崇敬され、慶長12年(1607年)当社社殿の造営をはかり、宮、久々野の百姓を禁足して家並に手伝いを命じるなど厳しい規定を設け再興を進め、江戸時代に入り歴代の領主、代官、郡代の崇敬と一般庶民の篤い信仰に支えられました。
安永2年(1773年)飛騨一円をまきこむ農民一揆「大原騒動」が起き、当社が大集会の地となり、神職の山下和泉、森伊勢の両名が騒動に連座したと処罰され、山下、森両家に代わり安永7年(1778年)信州より梶原伊豆守家熊が招かれて、従来の両部神道を唯一神道に改めて阿弥陀堂、鐘堂、仁王門を撤去して社殿の大改修を行い、祝、社人、社司などと称した職名を宮司(大宮司)制に改め、安永8年(1778年)8月13日から15日までの3日間、飛騨国中の神々を招請して太々神楽を執行し神社の面目を一新しました。
これが現在まで続く「飛騨の大祭」の元であると云われています。
明治時代に入り明治元年(1868年)政府の発布した神仏判然令に基づき、神仏分離を進め社内にある仏像や仏教関係の古文書等多くを撤去し、明治4年(1871年)5月14日国幣小社に列格し、明治5年(1872年)6月太政官布告をもって世襲神主である社家を廃し、山崎弓雄を当神社権宮司に、市村成章を祢宜に任じて以降、戦後の神社制度の改正まで歴代官選の宮司が任命され、島崎藤村の父であった島崎正樹が明治7年(1874年)11月13日から明治10年(1877年)12月8日までの3年間ほどを宮司として在職しています。
昭和3年(1928年)9月20日には当神社より古例によって御即位禮用御笏を献上、昭和7年(1932年)11月1日には当神社濁酒(どぶろく)を例祭に使用することが公認されました。
昭和12年(1937年)神衹院の国営工事として前社殿の大造営がはじまり、御内帑金の御下賜があり国費20万円、県費5千円、飛騨三郡市町村負担2万5千円宮村負担3万円が計上され、昭和14年(1939年)に第一期工事が完了して11月18日に正遷座祭が行われました。
昭和20年(1945年)8月15日敗戦により御造営途中で国家管理を離れましたが、戦後の困難を克服し昭和24年(1949年)にほぼ完成にいたりました。
昭和21年(1946年)2月の官制廃止後は、宗教法人の飛驒一宮水無神社(みなしじんじゃ)として神社本庁に所属して現在に及びます。
①神馬
稲喰(いなはみ)の馬という木造の神馬2頭が神馬舎に安置されています。古くから神馬の伝説、「稲喰神馬(いなはみしんめ)」が語り継がれています。
稲喰神馬(黒駒)
作者は不詳、古来より名匠「左甚五郎」の作と言い伝えられています。
昔々に毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫の頃の稲穂を食ったとして村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地を荒らすことが止んだと伝えられます。
此の神馬は極めて素朴な作りだが、解体は至難の業と言われる。
祈晴の神馬(白駒)
元は黒駒で作者は飛騨の工匠の武田万匠とされます。明治15年に大池宮司が体は白く尾と髪が黒い川原毛と呼ぶ彩色に塗り換えました。その時に腹に武田の銘が入っていたといわれます。
古来祈晴れの神馬として連日の降雨、毎年例祭前の祈晴祭には神前に黒駒と共に引き揃えて祈晴祭を執行する古例があります。
明治36年に行われた大祭では、飛騨一円の博労衆が醵金(きょきん)して、再び黒馬に塗りかえ、その後に大正天皇の御大典の記念として現在の白月毛に化粧され、台輪も金具付きの立派なものになったといわれます。
これらの神馬は一宮の神馬として牛馬安全の信仰が極めて篤く、神札絵馬等にして授与しています。
神馬にまつわる伝承
「いななき神馬」
深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子をうかがうと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々ありました。
これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。
「稲喰神馬」
江戸時代の初期、番場ガイドの神田が毎夜田の稲を食べている馬がいる。
その馬が神社の黒馬に似ているので追っていくと走り出し、番場の納屋までいくと姿が消えてしまいました。
そしてそこの一間戸の板戸に浮彫の形で貼り付いてしまいました。これは神馬のいたずらであると考え、眼球をくり抜いたといわれます。
その戸板は拝殿に奉納され、明治初年に拝殿が破却されるまで掲げられていたと言われます。
春の高山祭「山王祭」
6世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭。高山祭とは春の「山王祭」と秋の「八幡祭」、2つの祭をさす総称で、高山の人々によって大切に守り継がれてきました。
このうち、高山に春の訪れを告げる「山王祭」は、旧高山城下町南半分の氏神様である日枝神社(山王様)の例祭です。毎年4月14日・15日、祭の舞台となる安川通りの南側・上町には、「山王祭」の屋台組の宝である屋台12台が登場。うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統行事も繰り広げられます。
祭の起源は飛騨の領国大名金森氏の時代(1585年から1692年)、屋台の起こりは1718年頃といわれ、巧みな人形の動きを披露するからくり奉納や、仕掛けが施された戻し車など、匠の技が生きています。
春の高山祭では動く陽明門とも称される「祭屋台」が12台曳き揃えられ、その豪華絢爛な姿を披露してくれます。また、闘鶏楽(とうけいらく)や裃姿(かみしもすがた)の警固など伝統の衣装を身にまとった総勢数百名におよぶ祭行列が、お囃子や雅楽、獅子舞に先導され祭地域をまわります。夜になると各屋台はそれぞれ約100個にもおよぶ提灯を灯し、艶やかに夜の闇を飾ります。飛騨人の意気が高まる高山祭。高山の揺るぎない誇りです。
古い町並(三町伝統的建造物群保存地区)
高山は、金森氏により商業経済を重視した城下町として形成され、城を取り囲む高台を武家屋敷、1段低いところを町人の町とした。この町人町の1部が現在の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)である。
町人地は武家地の1.2倍と広く、全国の城下町の平均が武家地7割、町人地3割であることから考えても町人地の広さに特色がある。商人の経済力を重視した金森長近の姿勢が現れている。城下町の中へは東西南北から街道が引き込まれ、飛騨における政治、経済の中心としての機能を持っていた。金森氏が治めた時代は107年間で、以後幕府直轄地157年間の時代が続く。
明治初期の高山は、周辺の村々が貧困にもかかわらず豪商を中心として栄え、人口1万4000人、岐阜県下1番の都市であった。しかし、都市化は他の地区より大幅に遅れ、昭和9年の高山線開通を機にようやく高山の近代化が始まったのである。
昭和30年代後半には観光客が目立ち始め、汚くなりつつあった宮川や町を、美しくしようという気運が高まった。川に鯉が泳いでいれば、大人は川にゴミを捨てないだろうと考え、子どもたちが宮川に鯉を放流し、それが市民運動へと発展していった。昭和41年、「上三之町町並保存会」が結成され、その規約には「会員が地域内において新築、改築する場合、前側だけでも町並にふさわしいよう自主的に創意工夫する」とされ、住民主導の町並保存の姿勢を示した。その後、昭和48年から49年にかけて奈良国立文化財研究所により高山市三町が調査され、昭和54年、同町は重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
町並みがのこされた背景には、次のような要因がある。高山線開通を境に商業発展地域は別の町内に移り、三町はしもたやが増えた。サラリーマン家庭が増えるにつれ建替えの必要もないためか、建造物がそのまま現在も残った。例えば、造り酒屋など間口14間(1間=約1.82メートル)と広い建物が改築されないままであるため、周囲の建物もそれに合わせるような結果になったこともある。敷地割がキチンとしていて、母屋、中庭、土蔵の配置が使いやすく、昭和前半まで、当時としては、部屋数が十分であった。国産の良材を使って、しっかりと建てており、今では材料、資金面からとても同じようなものは建てられないから壊すのはもったいないというわけである。三町はこのようにして、極端な変化を好まない風潮の中に残されてきた。住民が建物の確かな良さと、町並みを守る誇り、三町景観の価値観を認識した結果といえよう。
道路に面した部屋をミセと呼ぶ。屋根高は4.5メートルと低い。建物の間口は3間から4間と狭く、奥に深い。この町並みの保存には、生活する上での苦労話も多い。現代のライフスタイルから考えれば当然かもしれないが、例を挙げれば、部屋数が少なく、子ども部屋の確保が大変であるとか、軒高が低くて2階の部屋が窮屈であるということなどである。また、採光出来る部屋がわずかで、冬は大変寒く、ほおかぶりしをして寝なければならないほどであること、土産品を販売している家にとっては、間口部が狭く商品販売に影響があることなどの話も聞く。だが一方、不便なことばかりではない。中に入って見上げてみると吹き抜けの天井は今にも通ずる空間を利用した建築手法である。息苦しい感じがせず、自然光のよさ、光の帯が差し込む様はすばらしいものがある。
伝建地区内には町並保存会が4団体あり、研修旅行、自衛消防隊の防火訓練、町並み保存に関する話合いなどが自主的に行なわれている。
伝建地区内は、高山市伝統的建造物群保存地区保存条例により規制をされているが、上一之町など伝建地区内の外側でも市街地景観保存条例により景観保存地区を定めて緩やかな規制を加えている。
様々な規制、課題は多いが、三町伝建地区は高山の人たちの誇りである。住民が実際に生活しながら町並保存を持続してゆく活力を持ち合わせている。
(引用:https://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1001005/1001006.html)
建仁寺
建仁寺は建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えます。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。
(引用:https://www.kenninji.jp/)
祇園祭(八幡山)
町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っている。山の上の小祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~1788)の製作といわれる。水引は今までの金地花鳥仙園図唐繍にかわって昭和61年より十長生図の刺繍が用いられている。「十長生」とは不老長寿を意味する。前懸は慶寿群仙図で元禄3年(1690)に寄進されたものを昭和62年に復元新調したのである。見送は日輪双鳳人物文様の綴錦と藍地雲龍文様蝦夷錦がある。欄縁の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝えられ、朱塗鳥居の上には左甚五郎作の木彫胡粉彩色の鳩が飾られる。その他に美術品として海北友雪(1598~1677)筆の祇園会還幸祭図屏風(京都市指定文化財)を所蔵している。
The object of worship of the small Shinto shrine which located on this float is Hachiman, one of the most famous Japanese gods.
The miniature shrine on the float is decorated with gold foil, and it is said to have been made in the Tenmei period, between 1781 and 1788.
(引用:http://www.gionmatsuri.or.jp/)