【寺 歴】
伝えによると法界寺は現在の南箕輪村久保にある西念寺(文亀元年<1501>飯田 西教寺末寺として開山)が前身であり、江戸時代の寛永16年(1639)に時の飯田城主脇坂淡路守の知行地であった木下村の陣屋に勤めていた家臣達の関わりで、もともとあった御堂「法界堂」と合寺して「法界寺」になったといわれています。(西念寺は合寺の後、一時廃寺となったが天保2年<1831>に再建され、以降、法界寺の末寺となる) 中興察誉上人代の時、文政元年(1818)に浄土宗総本山「知恩院」の直末寺院となったほか、表門、鐘楼の建立・高遠の石工、守屋貞治作「佉羅陀山地蔵菩薩」の石仏建立がされるなどお寺の整備がすすみましたが、安政7年(1860)の火災により本堂、庫裡、庚申堂など境内の建物の多くを焼失してしまいました。その後、近代になった大正9年(1920)になって現在の本堂が建てられました。
本堂は過去の教訓から防火対策として同宗の満光寺(伊那市高遠町)の本堂を範とした土蔵造りになっています。
【法界寺の地蔵尊】
○箕輪町指定有形文化財
○指定年月日 昭和53年 1月23日 文政12年(1829)、高遠の名工、守屋貞治の晩年の作で、石材は、すべて大泉所の ものを用いている。貞治は、信仰心が厚く制作に当たっては常に念仏を唱えながらノミを振るったと言われる。右手をほほにあて、いかにして迷える衆生を救おうと物思いに耽っているかのような地蔵尊の姿に、仏にこめた貞治の心が感じられる。面長で、端正 な顔や流れるように淀みない衣のひだ、など円熟した作者の手わんがうかがわれる。 貞治は生涯に336体の石仏を造ったといわれ、3年後の天保3年に行年67才で没した。尚、祭典は毎年4月23日~24日に行われる。 (箕輪町教育員会資料より)
住 所:〒399-4601 長野県上伊那郡箕輪町大字中箕輪11986
貴船神社
この神社は高遠第2・3保育園北に鎮座しています。山間部の閑かな集落の氏神様で、入口に立つと境内の隅々まで見渡せるので開放的な感じが強く、境内は左側に大きく開かれています。鳥居の奥に唐破風付き入母屋造りの拝殿、大きな鞘堂内に市指定文化財・一間社流造の本殿が建立され、木鼻や目抜き、脇障子等に彫刻が施されています。又、縁下には面白い狛犬も見られます。
御祭神:高龗神
祭礼日:4月・例祭
境内社:山王神社、山王神社他多数
由緒:貴船神社は山城国(京都府)愛宕郡貴船より、藤沢郷の総鎮守として永禄の終わり(~1569)から天正の初め頃(1573~)勧請され、水神である高オカミ神を祀り、祈雨の神として、御堂垣外、荒町、殿垣外の三集落の住民から厚い崇敬を受け、又、保科氏や鳥居氏など代々の高遠藩主の信仰も厚く、社殿の修築や寄進などを受けていたと伝えられます。
常盤橋における高遠石工と高遠石
高遠町の方なら知っている弁天岩は、藤沢川と三峰川の合流点にあります。弁天様は弁財天ともいい、昔から財宝、商売繁盛、芸術、水などの神様として衆生の信仰を集めてきました。日本3大弁天というと、神奈川県江ノ島、広島県宮島、琵琶湖就航の歌で知られる滋賀県竹生島を指し、しかも七福神のなかでもただひとり女性の神様として人気の弁天様です。大きな岩の上に祀られている、ここ藤沢川合流点の弁天様は、暴れ天竜の元凶である三峰川を鎮めるために建てられものと推測されます。
さてさて、弁天様はさておいて、実はこの弁天岩周辺の岩質のことが今回のテーマとつながります。普段は薄緑色の岩は、雨や淡雪などで濡れると、少し青みがかかった美しい色になります。地質学的な表現をしますと、弁天岩周辺の岩石は、火山活動によって、地中深くゆっくりと冷えて固まってできた「輝緑岩」と呼ばれる岩です。ここの輝緑岩は別名、「青石」とも「高遠石」とも呼ばれ、マグマが地下の深いところで時間をかけて冷えたために硬い性質をもっています。高遠町で産出する硬い岩は、ほかにも安山岩があって、藤沢川上流から得ることができます。
石に関してもう少し話をしますと、あまり知られていませんが、三峰川では日本で一番多くの種類の石を探すことができます。一説には、日本全国の石のうち70から80パーセントの石を拾うことができると言われています。それは三峰川の流れる、南アルプスの成り立ちに理由があります。
標高3,033メートルの仙丈ヶ岳に源を発する三峰川は、まず四万十帯(しまんとたい)という地層を南に流れます。四万十帯は砂岩や粘板岩を主にした地層です。流れは石灰岩層の秩父帯(ちちぶたい)を北流し、さらに緑色岩、礫岩の三波川帯(さんばがわたい)、中央構造線に沿ってさらに三峰川は美和ダムに向かって流れています。そして美和ダム付近からは西へ向い、高遠町にかけては、領家帯(りょうけたい)の地層となりますが、このあたりでは花崗岩やマイロナイト、輝緑岩、領家変成岩などが見られます。そのほかにも三峰川流域では、変成作用をうけたチャートや蛇紋岩、アンモナイトなどの化石も見られ、まさに石の宝庫なのです。 この日本の「石のデパート」のような三峰川流域で、2014年9月27日(土曜日)から30日(火曜日)にかけて日本ジオパーク全国大会が予定されています。日本ジオパークは、2008(平成20)年、糸魚川・有珠山・山陰・島原などともに、国内で初となる日本ジオパークとして「南アルプス(中央構造線エリア)ジオパーク」として認定されました。ジオパーク(GEOPARK)とは、「大地の公園」と表現し、地球の成り立ちや、大地のでき方を知ることができる場所、つまり公園をさします。地球活動の遺産を知ることでできる、いわば「地質遺産」で、ユネスコの管轄に所属しています。国内では、2013年9月現在で32ヶ所となっています。そのほかにも準会員16カ所、関心を寄せている地域が11カ所と全国200近い市町村が関わりをもっています。9月末にはたくさんのみなさんが高遠町・長谷を訪れる予定です。
ところで先ほどの「青石」・「高遠石」は、なぜ輝緑岩ではなく「高遠」という固有名詞がつけられているのでしょうか?もちろん明治時代以前には、輝緑岩や蛇紋岩、花崗岩、変成岩、チャートといった専門的分類の表現はなく、ごま石やまだら石、青石、黒石など色や模様による表現や、火打ち石、ろう石、砥石など生活のなかから生まれた名前で呼ばれていました。そうしたなか、わざわざ「高遠石」と地域を表す名称にはどのような歴史があったのでしょうか?それは中世からその名を知られ、江戸は内藤家の時代となって、全国にその名を馳せた技術集団、「高遠石工」の存在です。特に元禄年間以降は、石工たちは全国に散らばり、石仏であれば、精巧にして芸術性の高い作品を残しています。石工たちは狛犬や鳥居も造り、また石臼・石垣など、石に関わる仕事は、高い信頼を行き先々で得ながら評判をよび稼いでいたようです。その範囲は、長野県内はもとより、山梨県・群馬県・栃木県・東京都・神奈川県・愛知県・三重県や、遠くは山口県や福島県・宮城県・山形県にも及んでいます。もちろん駒ヶ根や飯島、箕輪などの上伊那地域にも広く高遠石工の作品は分布し、諏訪地方にも、双体道祖神で人気の安曇野あたりにも多く残っています。そして、日本各地を旅して稼いだ高遠石工たちは、いまの高遠にある、北原・守屋・柿木・保科・藤沢・清水・池上などの姓なのです。 高遠石工は江戸高遠石工といえば守屋貞治、その父親の孫兵衛、祖父にあたる貞七の、いわゆる「守屋三代」が有名です。守屋貞治の生まれたのは明和2年(1765)、教科書でお馴染みの「田沼意次の賄賂政治」その粛正を図った松平定信の「寛政の改革」の時代の頃です。守屋貞治の代表作は、高遠町から長谷に三峰川を渡る「常盤橋」のたもとに佇む「大聖不動明王」や高遠町建福寺に数多くある作品のなかでも有名な「願王地蔵菩薩」、「如意輪観音」などが知られています。ちなみに貞治は生涯340体ほどの石仏を彫ったとされています。
このように高遠石工のすぐれた作品の材料となったのが、高遠で産出された輝緑岩や安山岩であり、石工の名声とともに「高遠石」として知られていったわけです。高遠石工の技術と、彼等が使った石材には「高遠」の固有名詞がつけられたのです。現在の花畑地籍、高遠ダム直下には、優良な材料として輝緑岩の採石場がありました。松倉や片倉にも材料に適した、安山岩の産出場があり、三峰川流域その支流、藤沢川流域は高遠石工の活躍するバックグラウンドが展開していたわけです。
菩薩像傍の石仏、道祖神、庚申塔、甲子塔、お墓の石塔や城の石垣、馬頭観世音、石の祠、神社の狛犬と鳥居、常夜灯、道しるべ、そして生活にあった石臼など、高遠町には自然のなかから生まれた石に、数々の手を加えた作品は数多くあります。藤沢川の谷から高遠の街にかけてのたくさんの野仏には、遠く、土俗で素朴な人々の姿や声が聞こえてくるかのよう錯覚すら覚えます。とりわけ、私の好きな建福寺の願王地蔵菩薩によせて、にごりのない微笑みと気品は何度も足を運びたくなる、高遠石工の傑作といえる作品です。
「清流」 まほら伊那市民大学 平成26年度修了記念文集 掲載
八幡神社・日吉神社
日吉神社社殿は、隣接する八幡神社とともに当初より数度の補修、屋根葺替えが施されており、日吉神社社殿は昭和38年(1963)に解体修理が行われた。現在、勾欄[こうらん]、縁束、板壁、浜床[はまゆか]、破風板の一部が取替えられているが、その他の部材は当初のもので解体修理に取替えられた部材の内、当初のものはすべて各社の小屋裏内に保存されている。この解体修理のほか、数度の補修においてもよく当初の形式、手法が踏襲されてきている。
部材は長年の風雪により著しく風化しているが、虫害は比較的僅少で桃山時代の技風を示す蟇股[かえるまた]の牡丹、鴛鳥等の彫刻も一部破損はしているが原形を保っており、また、時代の特色を表わす妻飾、組物[くみもの]の彫刻も優れたものが残存していることから、建築年代は桃山時代末と思われる。
護国之寺
護国之寺(ごこくしじ)は、岐阜県岐阜市にある高野山真言宗の寺院である。
山号は雄総山(ゆうそうさん)。
本尊は十一面千手観世音菩薩。
美濃三十三観音霊場第十七番札所。美濃四国札所八十八番。美濃七福神(布袋尊)。国宝の金銅獅子唐草文鉢をはじめ、数多くの岐阜県、岐阜市指定重要文化財がある。
伝承によれば、746年(天平18年)、聖武天皇の勅命により行基が開山したという。この寺の開山に関しては、奈良の大仏造立に関わった「日野金丸」(ひのきんまろ)の伝説がある(後述)。
1590年(天正18年)、兵火により焼失する。江戸時代、再建が順次行われた。現在の建物は元文 – 宝暦年間の建立である。
上記の鉢に関して次のような伝承がある。聖武天皇は東大寺の大仏を造立するため、優れた仏師を探すための使者を日本各地に派遣する。その中で、美濃国に派遣された使者が芥見(現在の岐阜市)の願成寺に滞在した時、夢の中で、「明日の朝、最初に出会った人物が探している人物である」とのお告げを聞く。翌朝、美濃国雄総(現在の岐阜市)で使者が出会ったのは、川で牛を洗っていた日野金丸(ひのかねまろ)という童子であった。使者の前で、金丸はその場で粘土で仏像を作る。その出来の良さから使者は金丸を奈良へ連れて行く。金丸は大仏建立の責任者として活躍する。
大仏落慶法要の最中、突然、紫雲が現れ、空から音楽が流れ出した。そして空中から鉢が現れた。空から「釈尊がこの大仏造立の功績をたたえ、釈尊由来の鉢を授けることとなった」という言葉が聞こえてきた。聖武天皇は功績のあった日野金丸にこの鉢を授けた。金丸はこの鉢を納めるために、故郷に護国之寺を建立したという。日野金丸は死後、十一面千手観世音菩薩像となり、護国之寺の本尊となったとも伝えられている。
金丸については、次のような言い伝えもある。1970年代、この辺り(岐阜市日野)の郷土史について研究していた教師(山田)の話によると、金丸(金王丸)は護国之寺と長良川をはさんだ南(左岸)側にある日野(昭和初期までは右岸側の一部も日野村であった)の童子(故に日野金丸)で、お坊様(使者)が来た時に作った仏像は田んぼの土で作ったということである。大仏建立に貢献し授かった鉢を、初めは地元に建てたお堂に納めていたが、長良川の出水時に流されそうになったことから、対岸の高台に移したという。また、お堂があったとされる地区は、今でもその時の名残から堂後(どううしろ)と呼ばれている。
【県】護国之寺宝篋印塔
雄総山護国之寺は、天平時代に創建されたと伝えている古刹である。
この塔は、自然石の上面を平らにした台石上に置かれ、基礎・台座・塔身・笠・相輪の五石からなる。銘文から、この塔が願主の近縁者供養のために建立されたことが伺える。台座や塔身の高さと幅との比率や笠の構造、また方立ての型式や外傾の度合などから、銘文の嘉元2年(1304)、14世紀初めごろの建立とみられる。
美濃地方に現存する在銘の宝篋印塔としては、最も古いもののひとつであり、また大型の塔として、その保存状態も比較的良好で、貴重なものである。
岐阜別院
本願寺岐阜別院(ほんがんじぎふべついん)は、岐阜県岐阜市にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院(別院)である。開基は准如上人。
岐阜市には、東西両別院がある。真宗大谷派(東本願寺)の別院は、真宗大谷派岐阜別院。
1570年~1590年頃、本願寺11世顕如上人が美濃国に巡教の折に、美濃国厚見郡西野(現岐阜市西野町)の土豪、一柳直高(一柳直末、一柳直盛の父)が信徒となって帰依する。一柳直高の没後、その墳墓のそばに一寺が建立されたことが始まりと伝えられている。
1603年(慶長8年)、准如上人が当地を巡教した際に、一柳直盛が父の一柳直高の遺命により申し出、この寺は本願寺の坊舎とされ、岐阜御坊もしくは西野御坊と呼ばれる[1]。
1876年(明治9年)に名称を岐阜別院と改められる[1]。
本堂は、1645年(正保2年)には再建されるが、1713年(正徳3年)全焼、1720年(享保5年)に再建されるが、1945年(昭和20年)7月9日、岐阜大空襲により山門、鐘楼、経蔵等を除く本堂などが焼失する。現在の本堂は1951年(昭和26年)の再建である。
1975年(昭和50年)、岐阜市芥見南山3丁目に「岐阜別院芥見分院」が建立される。
【県】岐阜別院本門
宝暦6年(1756)の建立で、門の形式は4脚門に属し、様式はほぼ唐様[からよう]の様式を用い、屋根入母屋造[いりもやづくり]本瓦葺、規模はこの種の4脚門としてはまれにみる大型なものである。中心部の柱は円柱、その他は角柱を用い、柱下には唐様特有の石製礎盤をおき、虹梁[こうりょう]・頭貫[かしらぬき]の木鼻[きばな]には唐獅子・象鼻などの彫刻を施し、頭貫下の幕板には波形の彫刻を入れ、台輪[だいわ]には飾金具を打ち、門の中心柱両脇の腰羽目・欄間などにも菱組みの欄間、貫下には花狭間[はなざま]の彫刻を用いている。中央間両開き桟唐戸上部幕板にも桐その他の彫刻を入れるなど荘厳さをましている。組物は二手先[ふたてさき]詰組尾垂木[おたるき]入り・二軒扇垂木[ふたのきおうぎたるき]、両脇には左右対照にほぼ前記同様の脇門を設けるなど正に豪華なものである。なお、この門は総欅で、彫刻装飾の多彩なことなど、よくこの時代の特徴を表している。
【県】岐阜別院裏門
寺伝は北方陣屋の冠木門を移築したという。建立年代は明確ではないが、寺伝のいうように元禄頃とみるべきであろうか。構造的には棟門に属し北方陣屋にもこの種の門は数少なく、歴史的にみて、貴重な存在である。
銀閣慈照寺
慈照寺(じしょうじ)は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は東山(とうざん[1])。本尊は釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山である。
「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
室町幕府8代将軍足利義政は文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺(現・浄土院)のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った当初(1465年)は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つであった恵雲院(戦国時代に廃寺)の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された[2]。
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた[3]。なお、造営自体が完了したのは義政死去後である。
戦国時代中期の天文19年(1550年)には第12代将軍足利義晴とその子で第13代将軍義輝により慈照寺の裏山に中尾城が築かれ(短期間で廃城)[4]、末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったことによる[5]。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉であった。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。
1952年(昭和27年)3月29日には庭園が、国の特別史跡および特別名勝に指定された。1994年(平成6年)12月17日には「古都京都の文化財」として ユネスコ世界遺産に登録されている。
かつて浄土寺の鎮守社で、後に慈照寺の鎮守社となった八神社が境内地の北にある。
阿弥陀寺
阿弥陀寺(あみだじ)は、京都市上京区にある浄土宗の寺院。山号は蓮台山。院号は総見院。本尊は阿弥陀如来。織田信長の墓があることで知られる。
天文24年(1555年)に浄土宗の玉誉清玉が、近江国坂本に創建したのが当寺の始まりである。その後、清玉は自身と縁のある織田信長からの帰依を得ると、上京の今出川大宮に寺基を移す。
天正10年(1582年)6月2日に信長が本能寺の変で自害すると、清玉は自ら合戦中の本能寺に赴いて信長の遺灰を持ち帰り、墓を築いたとされている。後に織田信忠の遺骨も二条新御所より拾い集め、信長の墓の横にその墓を作ったという。さらに本能寺の変によって討死した名の分からぬ多数の犠牲者も当寺に葬って供養したという。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉の京都改造により現在地に移転した。
延宝3年(1675年)11月25日に火災にあい、信長の木像、武具・道具類などの遺物が焼失した。焼け残ったものは大雲院に移されたが、同院でも再び火災にあって今ではほとんど残っていない。
美作国津山藩の4代藩主森長成は毎年6月2日に法要をし、信長公百年忌も執り行ったというが、森家の改易後は御茶湯料の寄進はなくなったとする。
1917年(大正6年)に勅使が来訪し、当寺の信長の墓は「織田信長公本廟」として公認された。
六波羅蜜寺
当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。
上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。
現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。
なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。
開山の空也上人
第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(948)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。
上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。定盛は上人の遺風を伝えて茶筌を作り、これを世に広め、子孫は有髪の姿に黒衣をまとって踊り、念仏しながら瓢をたたいて市中を徘徊した。これが今六斎念仏として伝わっている。当山の空也踊躍念仏はさらにその源流である。
延算寺
延算寺(えんさんじ)は、岐阜県岐阜市にある高野山真言宗準別格本山の寺院である。山号は岩井山。本坊と東院とは500m程離れている。ここでは本坊と東院の双方について記述する。
本坊の本尊は薬師如来。別名を「たらい薬師」という。東院の本尊は薬師如来。別名を瘡神薬師(かさかみやくし)という。美濃四国札所であり、延算寺東院は八十番札所。延算寺本坊は八十五番札所。皮膚病に利益があるといわれ、東院には皮膚病に効果があるという霊水がある。
伝承によれば、815年(弘仁6年)、空海がこの地で霊水を見つけ、薬師如来を祀ったのが起源であるという。
地元に伝わる昔話によると、805年(延暦24年)、唐から帰国した最澄が因幡国岩井郡岩井に滞在し、クスノキで3体の薬師如来像を彫り上げた。そのうち一体が空を飛び、美濃国岩井で座禅を組んでいた僧侶の前に現れたという。驚いた僧侶は像をお祀ろうとしたが粗末な仏堂しか造れず、地元の農民が用意した新しい盥の上に安置したという。このことから、「たらい薬師」と呼ばれるようになったという。空海がこの地を訪れた際、この薬師如来をお祀りする寺を建立し、薬師如来を盥の上に安置した僧侶は空海の弟子となったという。
864年(貞観6年)、定額寺となる。
昌泰年間頃、天然痘(皮膚病の説あり)を患った小野小町が、お告げにより疱疹、瘡を直すために延算寺に7日間こもる。夢で「東に霊水がある。その水を体にすり込むと良い。」とお告げを聞き、その水をすり込むと完治する。この際、その霊水に延算寺の薬師如来を模した石仏を祀ったという。これが東院の始まりであると伝えられている。
かつては大規模な伽藍であったというが、幾たびかの戦火で焼失する。現在の本堂は1643年(寛永20年)再建である。