明宝寒水白山神社(奥宮)
寒水白山神社は岐阜県郡上市明宝寒水にある伊邪那岐命、伊邪那美命ならびに菊理媛命を祀る白山神社。旧村社。例祭で奉納される寒水の掛踊は日本国により重要無形民俗文化財に指定されている。
氏子の増田家が記したとみられる記録『家頭記寺組』よれば文正元年(1466年)に建立されたという。大永5年(1525年)には神社の南に別当寺の修善坊が開かれた。この寺はもと天台宗であったが、後に改修して現在では浄土真宗の本光寺となっている。寛文13年(1673年)に村内の住人、和田治郎左衛門が寒水の7社を纏めて氏神にしたいと領主の遠藤氏に申し出て聞き入れられ、天神社、宮ヶ洞社、若宮社、西の洞口社、村上社ならびに馬塞谷社を合祀した。その際に社殿を新たにしている。なお、これら六社のうち長久元年(1040年)の建立の天神社の祭神が菅原道真であるとされるほかは、祭神不詳である。宝永6年(1709年)に母袋村ないし栃洞村から2尊の観音仏とともに掛踊りが伝わる。これが現在でも行われる寒水の掛踊りの起源であるとみられる。現在に残る本殿は安永8年(1779年)から翌年にかけて造営されたもので、拝殿は天保13年(1842年)に再建されたものである。寒水の掛踊りが令和3年(2021年)に国の重要無形民俗文化財に指定され、翌年ユネスコ無形文化遺産に登録された。
本殿には聖観音菩薩の他に持国天と増長天、右脇殿は祭礼の際に十一面観音を祀り、左脇殿は天神を祀る。また、合祀した社から移した神鏡や20面に及ぶ[[懸仏]が安置されており、神仏習合の姿を遺している。
明宝 蛇岩
蛇岩(寒水)
養老年間に、深谷から見座にかけて、大蛇が棲んでいて人々を悩ました。たまたま、鳥帽子岳で修行中であった泰澄は、白山を切り開こうと思い立たれて、山を下つ、深谷口へさしかかられた。その時、大蛇が、大石の上で焔を吐きながら、もがき苦しんでいたので、泰澄は、ねんごろに祈祷して、それを成仏させられた。大蛇は、腐れはて、永く石上に蛇形を残した。泰澄は、それから、峯伝いに神谷の絶高を降り、天ケ滝で泊まり、八幡を経て上保川を遡っていかれた。(寒水史)
明治三十四年ごろ、道路の改修が行われていた時、例の蛇岩が、カンナリドチヘ落ちてしまった。そのまま歳月が流れて、昭和になった。たまたま、寒水から、他所に出ていた婦人が、身籠ったわけでもないのに腹が大きくなって、どうしても治らなんだ。困っていると、ある晩、その婦人の夢枕に蛇が現れて〈今、カンナリドチヘ落ちて、埋まっている。やるせなさにお前の腹を借りてはいったが、手厚く祀ってくれれぱ、お前の病気は治る〉と言った。その人が、蛇岩を揚げて、現在のところへ祀ったら、病気は治ってしまった。
(和田多喜談) -明宝村史-
明治末期の道路開設で破壊された蛇岩は誰にも気付かれず土砂と共に理没されていた。昭和代に寒水より岐阜に移住された石田花代と云う婦人があり。この人は身籠もった訳でもないのにお腹が大きくなって悩んでおられた。ある夜婦入の夢枕に大蛇が現れて「私はカンナリドオチで埋まって居るせつなさにおまえのお腹を借りて入ったが手厚く祀ってくれればお前の病は治る」と告げた。早速現場近くに住む和田梅平氏を頼り事の次第を打明けて調べたら天龍大神石蛇岩が発見され手厚く祀られた。快復。以来六十余年近住の人々は家内安全無病息災を祈り商売繁盛願望成就を希って供花の絶えた事はない。平成代になり道路改修のため移築される事となり梅平氏の孫にあたる和田昇氏を総世話人に蛇岩公園として整備された。同時に観音堂も建てられ尊像は近くに住む個人所有のものであったが天龍大神石にちなみ龍頭観音と広く世の中の平和と万民の幸せを願って祀られた。堂前の大石には古くより庶民に親しまれている弘法さまの足跡がある。修業中伊妙峠を飛び越えて気良村に移られる折に付けられたと伝えられる。 本分 細川義貞謹書
*参考 http://www.gifukoku.go.jp/mino/touge/038/body.htm