岐阜城
(岐阜城)史跡の概要
岐阜城跡は、金(きん)華(か)山(ざん)(稲(いな)葉(ば)山(やま))に築かれた山(やま)城(じろ)で、稲(いな)葉(ば)山(やま)城(じょう)、井(い)口(ぐち)城(じょう)とも呼ばれていた。戦国時代に美(み)濃(の)国(こく)を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)が天下統一の拠点とした城としてもよく知られている。
建(けん)仁(にん)年間(1201~1203)頃に二(に)階(かい)堂(どう)氏(し)が最初に城を築いていたと言われているが、実態は不明である。大永5年(1525)頃、ここが守護方と長井氏の争いの舞台になったため、少なくともこのころには城として利用されていたと考えられる。天文5年(1536)には斎(さい)藤(とう)道(どう)三(さん)が拠点としていたことが分かり、以後は義(よし)龍(たつ)・龍(たつ)興(おき)と、斎藤氏3代の居城となった。永(えい)禄(ろく)10年(1567)、斎藤氏を追放し美濃を攻略した信長が、城に大きく改修を加え、岐阜城と名を改めた。その後、慶(けい)長(ちょう)5年(1600)の関ケ原合戦の前哨戦で落城し、廃城となっている。
信長入城後の改修には、石垣のほか巨(きょ)石(せき)列(れつ)を用いるなど、その構築技術に近世的な要素がうかがえる。また、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスや京都の公家である山(やま)科(しな)言(とき)継(つぐ)等の訪問記録が残されている点、山麓では貴重な庭園遺構群が見つかっている点も、岐阜城跡の特徴と言える。
岐阜城の城域は、ほぼ現在の金華山国有林の範囲に相当し、山麓居館を含めた約209ヘクタールが史跡指定範囲となっている。居館跡や自然地形も含めて、山全体が城として機能していたことが分かる。
説明板より
信長公の居館跡
信長公の居(きょ)館(かん)跡(あと)では、これまでに5か所の庭(てい)園(えん)跡(あと)が見つかっているが、平成25年度に調査されたA地区のものが最大の規模を有する。大規模な池の背後には、高さ20mを超える自然の岩(がん)盤(ばん)を加工して巨大な背景として用いている。岩盤には2筋の滝が流れ、池に注いでいたとも考えられる。また橋に関連すると考えられる遺構の発見により、中(ちゅう)心(しん)建(たて)物(もの)があるC地区とは橋によって結ばれ一体として利用された可能性が高くなってきた。このような庭園は他に類のないものであり、信長居館の特徴の一つとなっている。
説明板より
川原町(湊町・玉井町・元浜町)の由来
長良川の川(かわ)湊(みなと)として繁栄した川原町は、古くは中河原(なかかわら)と呼ばれ、ここを貫いている表通りは中世からの古い道筋で、斎藤道三公、織田信長公の城下町の時代には市場も開かれていた。
近世から近代を通して、上流からの和紙や木材などを扱う大きな商家が軒を連ね、長良川流域の拠点として栄えた。落ち着いた佇まいを見せる町並に、切(きり)妻(づま)平(ひら)入(い)り、窓に格(こう)子(し)を施し、壁を真(しん)壁(かべ)造(づくり)漆(しっ)喰(くい)仕上げにした伝統的な町家が並んでいる。
今、あなたが立っているこの広場一帯は、かつては長良川の遊水地となっていて、木材や鵜飼観覧船なども入り込んでいた。商家の裏側には玉石垣の上に黒壁土蔵が並んでおり、川とともに生きてきた営みを今に伝える。
ここから仰ぎ見る金華山は、今も昔も変わらぬ姿で聳(そび)えている。緑の山麓の合間に望む朱色の三重塔は、大正天皇の御即位を記念したものである。風(ふう)光(こう)明(めい)媚(び)な金華山において、町家の中から最も美しく見えるポイントとして指示したのは、川原町の商家に逗(とう)留(りゅう)していた日本画家の川合玉堂画伯である。
長良川と金華山に抱(いだ)かれた川原町は、古くからの伝統を受け継ぎ、未来に伝えるまちとしてここにある。
川原町町づくり会
説明板より
正法寺の文化財
金(きん)鳳(ぽう)山(ざん)正(しょう)法(ぼう)寺(じ)は、この地に1683(天和3)年に開山始祖・廣(こう)音(おん)和尚が草庵を結んだことに始まり、1692(元禄5)年に千(せん)呆(がい)和尚を開山に迎えて創建された黄(おう)檗(ばく)宗(しゅう)の寺院です。江戸時代以来の境内地を現在も継承しています。
国重要文化的景観 長良川中流域における岐阜の文化的景観(重要な構成要) 平成26年3月18日選定
日本遺産「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜(ストーリー構成文化財)
平成27年4月24日認定
岐阜県重要文化財 昭和49年3月6日指定
籠(かご)大(だい)仏(ぶつ)附(つけたり)木(もく)造(ぞう)薬(やく)師(し)如(にょ)来(らい)坐(ざ)像(ぞう)(籠大仏)像高 13.7m (薬師如来)像高61cm 台座 23cm
江戸時代後期に、塑(そ)像(ぞう)、漆(しっ)箔(ぱく)により造立された国内最大規模の籠大仏である。第11代惟(い)中(ちゅう)和尚と、第12代の肯(こう)宗(しゅう)和尚の2代にわたる約38年の歳月を費やし、1832(天保3)年に開眼供養が行なわれたという。
大仏は、胎内の骨格を木材で組み、竹材を編んで外形を作る。その上に粘土を塗り、惟中和尚が各地で集めた一切経を貼り付け、更に漆と金箔を重ねて仕上げている。また、「大(だい)真(しん)柱(ちゅう)」と呼ばる周長6尺(直径約57cm)の銀杏(いちょう)の木の柱を大仏の背面に建て、台座から胎内を通して大仏殿第3層の下部まで垂直に立てて支えている。
最大仏の胎内仏として、桧(ひのき)材を用いた一(いち)木(ぼく)彫(ちょう)成(せい)の薬師如来坐像が安置されている。右手は施(せ)無(む)畏(い)印(いん)を結び、左手は屈臂(くっぴ)して左膝の上に置き、薬壺(やっこ)を持ち、二重の蓮(れん)華(げ)座(ざ)に結(けっ)跏(か)趺(ふ)座(ざ)した姿である。姿や顔立ちから、平安時代後期の製作と推定される。
岐阜県重要文化財 昭和49年6月12日指定
木(もく)造(ぞう)阿(あ)弥(み)陀(だ)如(にょ)来(らい)坐(ざ)像(ぞう) 像高 55cm 台座 35cm
籠大仏の御(お)前(まえ)立(だち)で、平安時代後期の製作と推定される。桧材の一材から彫り出し、底部に深く内(うち)刳(ぐ)りがなされている。上(じょう)品(ぼん)上(じょう)生(しょう)印(いん)を結び、二重の蓮華座に結跏趺座した姿である。
全体に一木造りの重厚さを遺し、和(わ)様(よう)を穏やかにまとめた表現がなされている。
岐阜市重要文化財 平成27年4月7日指定
正(しょう)法(ぼう)寺(じ)大(だい)仏(ぶつ)殿(でん) 構造 木造3層 規模 梁間19・16m×桁行19・18m×高さ23.60m
明(みん)朝(ちょう)様式と和様が融合した江戸後期の建物である。大仏の構造上、大仏を造立する段階から風雨を凌ぐ覆(おおい)屋(や)が不可欠であることから、大仏造立と併行して大仏殿の造営が進められたと考えられる。
大仏殿の中心部には、高さ23mを超える大仏を収めるために、大きな空間が形成されている。また、大仏の周囲を巡ることができる構造の回廊など、他の大仏殿に無い特殊な形態がみられる。(回廊は通常使用できない)
1876(明治9)年、第13代の椈(さく)泉(せん)和尚のもとで有志を募って大仏殿の大修理が行なわれ、現在の姿に改築された。
平成28年3月 岐阜市教育委員会
説明板より
関連資料
2-5-1 岐阜城の歴代城主
2-5-2(岐阜城)史跡の概要
2-5-3 信長公の居館跡
2-5-4 川原町の由来
2-5-5 正法字の文化財
資料集