長瀧寺
長瀧寺(ちょうりゅうじ、往時はながたきでらと呼ばれた)は、岐阜県郡上市にある天台宗の寺院。本尊は釈迦如来。
この寺は、718年(養老2年)勅命により泰澄が法相宗の寺院として創建したと伝えられ、828年(天長5年)天台宗に改められたという。古くから白山信仰と深いかかわりがあり、郡上郡一円に大きな宗教的勢力として君臨していた。最盛期の鎌倉時代には六谷六院、神社三十余りと三百六十坊が存在したといわれる。戦国時代になると浄土真宗の勢力が郡上に浸透し、坊院の多くが浄土真宗に改宗したほか、朝倉氏が郡上に侵攻した際に略奪を受けて勢力を失った。江戸時代にも郡上藩主の井上氏に寺領を没収され、浜松二諦坊により白山牛王の発給権を失い、白山別当職を越前平泉寺に奪われて衰退する。文政8年(1825年)、老朽化した大講堂の再建が成った。大講堂は間口18間(約33m)、奥行き14間(約25m)と巨大で、郡上に過ぎたは長滝講堂と謳われていた。長瀧寺明治初年の神仏分離により白山神社と長瀧寺に分けられた。1899年(明治32年)火災により堂宇を焼失して宝物の一部を失った。現在の堂宇はその後に縮小して再建されたものである。現在、阿名院、経聞坊及び宝幢坊の三つの坊院が残っている。
明善寺
明善寺(白川郷)概要: 松原山明善寺は岐阜県大野郡白川村萩町地区に境内を構えています。明善寺の創建は不詳ですが延享5年(1748)、白川八幡神社(上白川郷18ヶ村・下白川郷23ヶ村の産土神)の別当だった仙光院の跡を継ぐ為、内ヶ戸から移ってきたのが始まりと伝えられています(延享元年:1744年に浄土真宗本願寺派の本覚寺から真宗大谷派として分派したとも)。現在の庫裏は江戸時代末期に建てられたもので高さ15m、建築面積100坪、萱面積108坪、白川郷を代表する合掌造建築として貴重な事から昭和43年(1968)に岐阜県指定重要文化財に指定されています。鐘楼門は享和元年(1801)に飛騨の匠である加藤定七によって手懸けられたもので入母屋、茅葺、一間一戸、2重垂木、上層部には下層部に比べ柱割が短く、壁は吹き放し、際には高欄が廻っています(当時の梵鐘は大戦中に供出となり現在のものは戦後中村義一氏によって制作されたものです)。鐘楼門は江戸時代後期に建てられた2重楼門建築として貴重なことから昭和43年(1968)に岐阜県指定重要文化財に指定されています。本堂は文政6年(1823)から文政10年(1827)にかけて現在の高山市出身の宮大工水間宇助によって手懸けられたもので入母屋、茅葺、桁行7間、梁間6間、正面には茅葺の大屋根切欠くように向拝が取り付いています。明善寺本堂は江戸時代後期に建てられた寺院本堂建築として貴重ことから昭和42年(1967)に白川村指定重要文化財に指定されています。境内にあるイチイは文政10年(1827)、本堂落成時に副棟梁だった与四郎が植えたと伝えられる大木で樹高約10m、根回り約2.6m、昭和49年(1974)に岐阜県指定天然記念物に指定されています。白川郷が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されると、その構成要素の一つに選定されています。山号:松原山。宗派:真宗大谷派。本尊:阿弥陀如来。
飛騨一宮水無神社
飛騨一宮水無神社の「水無」は、「みなし」「みずなし」などとも読み、水主(みずぬし)[ 川の水源をつかさどる神]の意味です。また社前を流れる宮川は、飛騨一宮水無神社の社前で約1,500メートルばかり砂礫の下を伏流しています。
神社の南西に位置するご神体山・位山は、古代から川の水源(水主)の神のいる霊山(れいざん)と仰(あお)がれていました。
創立年代は詳しくはわかりませんが、律令時代には、数回の神階の昇叙(しょうじょ)があり、陽成天皇の時代(881年)には従四位上に叙せられました。また、平安時代につくられた「延喜式」という文書には、その頃すでに飛騨一宮水無神社が飛騨で最も権威のある神社である事がしるされています。
※砂礫(されき):砂と小石。
※律令時代(りつりょうじだい):奈良時代〜平安時代にかけて、律令という法律にもとづいて政治が行われた時代。
※神階(しんかい):日本において、神道という自然や自然現象に多数の神様の存在を見いだす宗教があります。その宗教で、神に授けられた位階です。神階昇叙とは、神階を与えることです。
※従四位上(じゅよんいのじょう):15の神階の内、上から9番目の位。
※延喜式(えんぎしき):律令をおぎなうために国が定めた文書。同じような文書が三つあり ますが、ほぼ完全な形で残っているのはこの延喜式だけであり、かつ細かな 事まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっています。
飛騨一宮水無神社の祭神は、御歳大神(みとしおおかみ)・天火明命(あめのほあかり)・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称しています。
また、飛騨水無神社は、位山を神体としています。
※柱:神様を数えるときに使う言葉
飛騨一之宮水無神社例祭
例祭は古くより旧暦8月15日に行われていましたが、明治以後は9月25日に行われ、最近では稲の収穫時が早くなったことや気象関係もあって、昭和36年式年大祭以後5月2日に改められました。
5月1日は試楽祭(しがくさい)で早朝から氏子各組の新旧組長等が社殿の前に集って、幟(のぼり)立てや神酒(みき)[濁酒]開き等に奉仕し、氏子総代は神輿(みこし)その他の祭りに使う道具の準備に忙しくなります。午後3時より中祭式により関係のある神社の祭礼が行われます。
2日は神社本庁の献幣(けんぺい)があり厳(おごそ)かな本楽祭が行われ、続いて神輿発幸祭の後獅子舞・闘鶏楽(とうけいらく)、神代踊(じんだいおどり)、警固(けいご)の各組が神輿に奉納します。総勢400余名、延々1Kmに及ぶ渡御(とぎょ)行列は、水無磧をわたって神楽岡(御旅所)へ向かいます。
昭和9年駅前に一宮橋ができてからは、御神幸は神橋から参道を経てこの橋を渡るようになりました。
神輿が御旅所へ到着されると御旅所祭りが行われ、獅子舞、闘鶏楽、神代踊が奉納され、行列の参加者と一般参拝者に神酒(濁酒)がふるまわれます。
やがて、神輿は帰る準備をして、本殿に戻ってくると還幸祭が行われます。その時境内では舞踏楽が奏でられます。
祭りのしきたりは細かく、氏子の男子が代々受け継ぎ、堅く守られてきました。現在は、飛騨一宮水無神社特殊神事として岐阜県指定無形文化財 となっています。
※旧暦(きゅうれき):日本で昔使われていた暦(こよみ)。今の暦とと少し違っています。
※献幣(けんぺい):神社本庁から「幣帛料」(へいはくりょう)という名前で金銭が贈られています。
※御神幸(ごしんこう・ごじんこう):神様が移動されることを丁寧に言う言葉。
資料集
004_007_水無神社例祭_Part1
004_007_水無神社例祭_Part2
004_007_水無神社例祭_Part3
飛騨支路・位山道
飛騨支路の概要
国の制度の中に日本国の道路が位置づけられたのは、701年(大宝元年)制定の大宝律令ができたときである。道路は7つ作られ、その1つである「東山道」は日本列島の背骨にあたる山地を通る道路であった。
奈良から東北へと通ずる道路であり、基本的には政府の役人などが通るために整備された。古代の官道では、30里(この時代は30里が約16㎞)を基準に駅家(えきや)が設置されている。この七道は大、中、小路に分類され、東山道は中路で、各駅家には馬10疋(ひき)が置かれた。
東山道は滋賀県から東へと進んでゆくが、美濃の方県(かたがた)付近で本道と分かれて「飛騨支路」となり、関~金山~下呂と北へ進んで飛騨国府の所在地であった現在の高山市へと続いた。
戦略的にあるいは経済的に重要であったのか、わざわざ、飛騨へ通ずる道を官道としたのである。飛騨匠もこの道を通った。自己の食糧を持参したため奈良まで上京15日程、帰りは荷が無いので8日程(延喜式主計上巻24参考)であった。
飛騨支路の中で、所々に石畳の残る位山道は匠街道とも呼ばれ、都から飛騨へと文化を伝え、飛騨匠が都へと通った重要な道であった
「飛騨支路、東山道の駅、その推定地」を見てみよう。
高山発(東山道飛騨支路)⇒ 石浦駅 ⇒ 一之宮 ⇒ 上留(かむつとまり)駅・上呂 ⇒ 下留(しもつとまり)駅(えき)・下呂 ⇒ 初矢峠 ⇒ 乗政 ⇒ 夏焼 ⇒ 金山の渡し(金山町)⇒ 袋坂峠 ⇒ 武儀駅・下呂市金山町菅田辺り ⇒ 加茂駅・関市富加町辺り ⇒ 方(かた)県(がた)駅・長良辺り(ここから東山道)⇒ 大野駅・揖斐郡大野町 ⇒ 不破(ふわ)駅・濃国府・垂井 ⇒ 不破関 ⇒ 横川(よかわ)駅・米原市(ここから滋賀県) ⇒ 不破(ふわ)駅・濃国府・垂井 ⇒ 不破関 ⇒ 横川(よかわ)駅・米原市(ここから滋賀県)⇒ 鳥(と)籠(こ)駅・彦根市 ⇒ 清水駅・東近江市 ⇒ 篠原(しのはら)駅・野洲(やす)市 ⇒ 守山 ⇒ 草津(東海道と合流)⇒ 近江国府 ⇒ 勢多駅・大津市 ⇒ 山科駅・山科 ⇒ 宇治 ⇒ 奈良
*参考文献 『地図で見る東日本の古代』(株)平凡社発行2012年
駅路の研究抄史とその経路
飛騨国の駅路に関する研究は江戸時代から行なわれている。体系的に整理され、現地比定をしている『岐阜県史』(文献1)では、岐阜県内の「古代の交通概説」の頃において、奈良時代の史料をほとんど見ることができないとし、続いて『延喜式』(文献2)に掲げられる駅を次のとおり記している。
東山道は不破駅-大野駅-方県(かたがた)駅-各務(かがみ)駅-可児(かに)駅-土岐駅-大井駅-坂本駅をへて、信濃国の阿智駅に向かい、神坂(みさか)峠を越える。
東山道から分かれる飛騨支路は、東山道から分かれて飛騨国府へと進む支路で、方県駅から東山道と分かれて飛騨支路となる。方県駅-武義駅-加茂駅-下留駅-上留駅-石浦駅をへて飛騨国府に致着する。
また、『岐阜県史』(文献1)「古代の交通」の項では、次のように記す。
小路であるため飛騨支路の駅馬を各五区、各郡の伝馬は五区と推定、駅鈴は下国であるから二口であろうとしている。
駅馬の制は、飛駅使によって中央と地方の急速な通信を確保することにあり、1日に10駅164Km以上の速度が確保できたという。飛騨支路の場合は、そんなスピ-ドはとても無理である。
また、上記目的以外に皇室など特殊身分の旅行者への便宜提供、特別の物資輸送の目的も混在していたが、これは輸送量を増加させ、駅制疲幣の原因ともなった。養老6年(722)には、飛騨を含む全国19カ所の国司が、朝集使として上京するときに駅馬に乗ることが許され、神亀3年(726)には国司が任国へ赴任するとき伝馬を使用できるようになり、飛騨国は食事も利用できた。
『斐太後風土記』(文献5)、『飛州志』(文献6)、『飛騨国中案内』(文献7)で記載されている官道は、飛騨川沿いであり、飛騨支路の道は集落をつなぐ道として在所を紹介しながらの記述である。
『飛騨の街道』(文献8)では『岐阜県史』とほぼ同じ内容、『飛騨の交通運輸』(文献9)では刈安峠の宮村側を紹介し、金森以前の街道だとし、また高山市の上岡本から下岡本にかけて苔川沿いに石畳の道が断続的に残っていたという。
飛騨支路の駅名
『延喜式』に掲げる飛騨支路の駅路は、加茂駅(駅馬4疋)→武義駅(駅馬五疋)→下留駅(駅馬5疋)→上留駅(駅馬5疋)→石浦駅(駅馬5疋)で、美濃国内は加茂、武義駅、下留から北は飛騨国となる。
各駅の位置は
東山道から分かれて飛騨支路に入り、
第1番目の駅は加茂駅で、関市富加町周辺と考えられている(文献11)。
第2番目の駅は武儀駅で、下呂市金山町の菅田地区辺りと考えられているが判然としない(文献11)。
加茂駅から武儀駅推定地は津保川沿いの道と思われ、平坦で今も在所がつながり、歩きやすい道であったろう。今は美濃方面からの金山街道として飛騨の人たちも冬季に利用する。
第3番目の駅は下留(しものとまり)駅で、音読するとゲロになり、現在の益田郡下呂町に比定される。武儀駅から下留駅へは、飛騨川を金山の渡しで対岸に渡り、下原を通って産地に入る。飛騨川沿いの国道41号ではない。火打峠、夏焼、宮地、初矢峠を越えて下呂市小川地区の解脱観音の所に出てくる。
第4番目の駅は上留(かみのとまり)駅で、元々伴有(とまり)駅であったのを、下留駅が置かれてから上留駅となった。現在の益田郡萩原町上呂である。下留に近すぎると思われるが、山間地であることから、また集落の位置に合わせての都合もあったのであろう。
第5番目の駅は、石浦駅で、現在の高山市石浦町とされているが、国府(高山市)の位置に近すぎるとの考えもある。大野郡宮村が石浦駅とも考えられるが、現在、確証はない。宮村とすると、宮村山下付近から山を越えて越後谷へ出るル-トが直線的であるが、これも、わざわざ急坂な道を設定する意味があるのかと、否定的な意見は多い。
駅の変更 ―上留駅と下留駅―
宝亀7年(776)、美濃国菅田駅(加茂駅か)と飛騨国伴有駅(とまりえき・後に上留駅となった)の間は遠く、山も険しいので、中間に下留駅を置いたとされる(文献3)。また『斐太後風土記』(文献5)第1巻13頁でも「続日本紀」を引用して伴有駅を分けたとしている。さらには伴有一村里を後世に上呂、萩原、中呂、下呂の各郷に分けたとある。
上留駅は現在の下呂市上呂と推定され、ここからは飛騨川右岸の尾崎地区を通って山地に入り、山之口、位山峠へと進んでゆく。上留は平地から山地に入る重要な駅であった。
金山の渡子(わたしもり)
金山(かなやま)町には麻生谷、麻生郷(金山町東部)があってその辺りに徭役を免除された渡子(わたしもり)が2人配置されており、飛騨匠丁の上京にも労役を提供していた(文献3)。「延喜式」民部省に「飛騨国金山河渡子」、三段(反)の給田記録がある。
飛騨支路と東山道の合流 ―方県駅―
東山道から飛騨支路への分岐駅である方県駅は、現在の岐阜市長良、または合渡(ごうど)に比定される。どちらかと言えば、大野駅(揖斐郡大野町)と各務駅(各務原市鵜沼)の中間にあたり、各務駅との利便性から長良を有力視し、飛騨支路につながりのよい合渡は薄いといわれる(文献3)。
方県駅が長良とすると、長良支段見あるいは古津で東山道本路と別れ、東北に進み、合渡ならば各務原の北部から東北または北上することになる(文献4)。
志段見は雄総の東にあり、古代方県郡思淡郷の遺称地。東に隣接して古津(厚見郡)がある。
現存する飛騨支路の遺構
山国飛騨は森林率92.5%で、道路を設けることは飛騨の住民にとっては悲願である。江戸時代の領国藩主金森氏は、東山道飛騨支路のル-トとは別に、飛騨川沿いの街道を整備した。蛇行しても、平らな道が物資流通にも適していると考え、現代までの幹線として発達をとげてきた。その分、古代の道は忘れ去られてゆき、当時のル-トがわかりにくい。
その中で、大野郡宮村側の刈安峠には、石敷の道路が残存している。角のとれた山石を貼り、通行を容易にしている。他地区でも、たんねんにさがせば、多くある林道に混じって当時の古道が発見できるかもしれないが、平地になると拡幅や整備が進んでいて、ほとんどわからない。
文献1 「古代の交通」 『岐阜県史・通史編古代』 岐阜県 昭和46年
文献2 『延喜式』藤原時平、忠平が醍醐天皇の命により編集。延長5年(927)完成
文献3 『岐阜県の地名』㈱平凡社1989年
文献4 阿部栄之助編 『濃飛両国通史上・下巻』 岐阜県教育会 大正12年上巻、 大正13年下巻、<昭和51年1月覆刻 大衆書房>
文献5 富田禮彦編 『斐太後風土記』 明治6年(原典)〈昭和5年再刊 蘆田伊人編 『大日本地誌大系 斐太後風土記上・下巻』、昭和43年再刊 雄山閣〉
文献6 長谷川忠崇著 『飛州志』 一陽校訂浄書 文政12年 〈明治42年住広造活字原本発行、昭和44年復刻 岡村利平編・解説、岐阜日日新聞社・岐阜県郷土資料刊行会刊行〉
文献7 上村木曽右衛門 『飛騨国中案内』 延享3年 〈昭和45年増補完本 (株)創研社制作、刊行 岐阜日日新聞社・岐阜県郷土資料刊行会〉
文献8 『飛騨の街道』 飛騨運輸(株) 昭和47年
文献9 『飛騨の交通運輸』 飛騨運輸(株) 昭和42年
文献10 一志茂樹著 『古代東山道の研究』 信毎書籍出版センタ- 平成5年
文献11 木下良監修 武部健一著『完全踏査古代の道 畿内・東海道・東山道・北陸道』(株)吉川弘文館発行 平成17年 第4刷
位山官道の由来(山之口村誌による)
天正14年(1586)金森長近、飛騨国主となる。長近は軍事上、経済上の必要から、河内街道(高山・小坂間)の大改修を行ない、京街道の本通りを位山街道から河内街道に移した。しかし河内街道は洪水等で不通の時は、位山街道が利用された。
くらいやま 位山
下呂市萩原町・高山市一之宮町
位山は今の位山ではなく乗鞍(のりくら)岳の旧名との説もある(岡村御蔭:位山考)。位山は古くから霊山として尊崇されており、山腹には古代巨石文化遺跡と推定される祭壇石その他の巨石群があり、飛騨一宮水無(みなし)神社の御神体山とも伝えられている。両面宿儺(すくな)を山の主とする伝説がある。一位笏木献上史料初見は平治元年で以後水無神社よりの献上が今日まで続き、近世初頭まで飛騨と京を結ぶ唯一の官道位山道が麓を通っていたことなどにより、位山が広く知られるようになった。高山盆地からは隣の舟山とともに、そのゆったりとした山容が眺められる。夏に雨が多く植物が豊富で、北面にイチイの原生林が残る。なおイチイは岐阜県の県木(宮村史)。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川春樹発行 昭和55年
萩原町山之口から位山峠を超えて宮村へ出る位山街道のことを、往古都に工匠として召され奉仕した飛騨の匠たちの通った道として、その哀歓に思いを込めて「位山古道」と呼んでいます。位山道は、東山道飛騨支路として敷設され、現代に至る道です。
東山道飛騨支路は美濃の方県駅で「東山道」から分かれて飛騨支路になります。今も所々に残っている石畳の街道は、都から飛騨へと文化をつたえ飛騨の文化をはぐくみ育てた道です。石畳は、平安時代頃のものと推定しています。
日本の古代の道路が国の制度の中にはっきり位置づけられたのは、大宝元年(701)に制定された「大宝律令」という法律ができたときです。当時の東山道飛騨支路である位山古道の道筋は、現在の国道41号線ではなく、宮地域から刈安峠、位山峠を越え上呂へ抜ける道であったと考えられます。
資料集
005_008_位山道
宮川
宮川の清冽な湧水は、位山と川上岳を結ぶ峰と、それらを結 ぶ尾根の裾地から流れ始めます。東や南の絶壁の裾山、下方から 湧き出す水は、ツメタ谷となって渓谷の源流となります。そして 川上岳の山のふもと近くの、なだらかな丘地の水を集めたヌク イ谷の温かい水と合流します。その流水が一之宮町の盆地までの 源流・渓谷をつくりだしています。
飛騨の宮川は、日本全国の十数流もある宮川と称する河川の 中でも、最も大河と言われています。宮川は、飛騨市北端の富山 県境で高原川と合流し、神通川となって、富山湾(日本海)へ流 れます。宮川は、わが国大自然の中でも最大の神々の川なので す。
また、一之宮町の位山には中部日本の分水嶺があります。分水 嶺とは、水の流れの方向を分ける境界をなしている山の峰のこと です。位山に流れた北斜面の渓水は、餅谷川・常泉寺川となって 宮川に注ぎ、神通川を経て日本海へと流れていきます。
もう一方の南斜面の渓水は山之口川・無数河川となって益田 川に注ぎ、飛騨川・木曽川を経て太平洋へ と流れていきます。
※清冽(せいれつ):水などが清らかに澄んで冷たいこと。
資料集
006_009_宮川
飛騨の木工家具
飛騨における洋家具発祥の歴史は、大正9年に取り組んだ家具づくりが源である。当時未活用材であったブナ材の活用を考え、多くの困難を乗り越えて飛騨を一大家具産地に発展させた歴史がある。木材を蒸して曲げる方法を1837年頃に考え出したのはドイツ人の「ミハエル・トーネット」であった。世界各国に5,000万脚も販売したといわれる。 日本では明治末期にこの家具が輸入され、日本政府によって民間にこの曲木椅子の製作が奨励された。大正9年(1920)飛騨に伝わり、飛騨産業㈱の前身である中央木工㈱でブナ材での曲木家具づくりが始まった。しかし、商品化するためには大変な苦労と技術開発が求められた。戦時中は曲木技術が認められて木製落下タンク(増槽)の製造、木製飛行機を試作している。昭和24年対米輸出を再開。戦後初めて木製折畳椅子をアメリカへ輸出した。昭和30年代前半には、総販売の80.3%が対米輸出となった。昭和30年代後半、それまで順調に推移してきた輸出も鈍化し始めたため、国内販売に力を入れることとなった。40年代前半の「いざなぎ景気」に支えられ、飛騨の各社とも国内需要に急成長を遂げていった。昭和40年、「暮しの手帳社」の大橋社長、飛騨をこよなく愛し続けてきた花森安治編集長の肝いりで、東京・日本橋の三越百貨店で飛騨民芸協会主催の飛騨高山展が開催された。その折、匠の技を伝える飛騨の家具が大きな反響を呼び、連日の賑わいを見せた。
参考文献/『飛騨産業株式会社七十年史』平成3年 『新飛騨匠物語』平成14年
資料集
007_010_飛騨木工家具
吉島家
江戸初期に整備された越中街道沿いにあり、江戸時代後半から民家が建ち並ぶようになった町人地にある。主屋、倉は明治40年(1907)に建てられ、に国の文化財に指定。大工西田伊三郎が、建築士の考え方で建てた、バランスの良い優れたデザインの建物である。間口が広く、2階の階高を抑え建物全体が低いので、道路幅との均衡がとれている。建物全体は、間口約26m、奥行約26m。大工は主屋を川原町西田伊三郎が、座敷を吉城郡上宝村の内山新造が建てた。
吉島家の初代は文政6年(1823)に没した休兵衛で、代々生糸、繭の売買、金融、酒造業を営んだ。明治8年(1875)高山の大火後翌9年再建、しかし明治38年(1905)再び類焼し、明治40年に再建されて現在に至る。
隣つづきの日下部家と異なるところは、軒下にセガイ天井がなく、前側2階の柱間が広い。内部の吹き抜けを見ると、棟まで1本で通した檜の大黒柱は太く美しい。大黒柱に組み込まれた吹抜部分の梁組は、丁寧に鉋で仕上げられ、漆を塗られている。天窓から差し込む幾筋かの光が、斜めにこの吹抜けを通る構造はすばらしいものがある。約1.8m毎の梁組と小屋組の構成は優美で端正。大梁を、ウシ梁という。断面的に下部を細くすることにより、下から見上げたときに松の太鼓腹が美しく見えるように意匠を工夫している。
2階の床は三段形式になっており、家長が上段を、家人が中段と下段を使用していたようである。春慶塗のふすまや障子、桐の欄間など贅を尽くしている。
参考文献 『高山市史・建造物編』
日下部家
江戸初期に整備された越中街道沿いにある。昭和41年、主屋、文庫倉、新倉の3棟が国指定。主屋は明治12年(1879)、倉は明治12年。明治8年(1875)の大火で焼失後、東側の角屋敷から現在地に移り、明治12年(1879)1月22日上棟式が行なわれた。大工は名工川尻治助である。前庭をつくり、棟の高い2階家を建てることは江戸時代に許されなかったが、明治になって棟梁川尻治助が力量を発揮して造った住宅である。建物全体は、間口約25m、奥行約29mである。
蓄積していた良材で組み上げられた「オエ」、「ドジ」上の見事な梁組、美しく整った座敷まわり、よく整備された中庭などに風格の高さが現れている。内部へ入って見上げると、整然としてしかも躍動美のある梁組が見られ、磨き上げられた光沢がまた美しい。檜の大黒柱とウシ梁と呼ばれる大梁、束や梁・桁などが規則正しい軸組を構成し、構造美を演出している。ウシ梁は断面的に下部を細くすることにより、太鼓腹を美しく見せている。木組の構造美を見せる意匠である。畳が全部で147畳も敷いてある大きな旧商家である。
前側軒裏のセガイ天井、箱庇、出格子、角柄窓、隅切窓は前面の計算された調和と建築美をかもし出す。
ニワの奥に蔵が2棟(北側と南側の蔵)現存する。現在、日下部家では2棟とも文庫蔵(南側は展示場)としている。南側にある文庫蔵(新倉)の入口戸内側は、卍くずしの文様を、薄く削って、その中に青色を塗彩した精巧な技法である。高山には例がない文様と色調である。屋根下の蛇腹と出桁のプロポーションが良く、西洋的な様相を見せる。
参考文献 『高山市史・建造物編』
資料集
008_011_吉島家・日下部家
高山市下二之町・大新町伝統的建造物群保存地区
平成16年7月6日、約6.6haが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。南北通りは約780m、東西幅は約180m。鳩峯車組町並保存会、神馬台組町並保存会、船鉾台組町並保存会、豊明台組町並保存会、浦島台組町並保存会、大新町1丁目3班町並保存会、越中街道町並保存会の7保存会により町並み保存がなされている。伝統的建造物は200棟、その他の工作物12件、環境物件が8件ある。
旧高山城下町では、安川通りの南側が日枝神社、北側が桜山八幡宮の氏子区域とされ、前者を上町(かみちょう)、後者を下町(しもちょう)と呼んだ。本伝建地区は下町のうち、特に越中街道と呼称された高山から富山に通ずる街道沿いに建てられた建造物群である。江戸時代後半から民家が密集するようになったが、特に大新町には職人や半農半商的な職能の者が多く、上町の商家とは異なった歴史と性格を持っている。
下二之町には、かつて商人町であったにぎわいが今も残り、高山市民はここへ用事に来る。時計店、表具師、菓子屋、餅屋、クリーニング屋、農機具屋、文房具店、家具店、郵便局、料理屋、喫茶店など市民向けの店が多い。
餅屋では、正月のお鏡モチ、笹ダンゴ、オケソクを扱い、交通混雑時もアクセスしやすいこの町は、今日も馴染みの客が訪れている。
町並みの色は、ベンガラとススを3対1で混ぜ合わせ、格子や外観柱などに塗り、荏の油で止めている。年月を経てあずき色になり、独特の町並みの色をかもしだす。
資料集
009_012_下二之町・大新町伝統的建物群保存地区
高山市三町伝統的建造物群保存地区
昭和54、平成9年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。地区の面積は約4.4haで、南北通りは約420m、東西の幅は約150m。伝統的な建造物が172棟あり、秋葉様社が2棟ある。恵比須台組町並保存会、上三之町町並保存会、上二之町町並保存会、片原町町並保存会の4保存会により町並み保存がなされている。
天正14年(1586)、飛騨国主となった金森氏により商業経済を重視した城下町として形成された高山は、城を取り囲んで高台を武家屋敷、一段低い所を町人の町とした。この町人町の一部が現在の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)である。また、東西南北の4街道は城下町の中へ引き込まれ、高山は近世以来飛騨における政治、経済の中心地となった。昭和30年代後半、観光地化に伴ない町が汚くなりつつあった際、子どもたちが宮川に鯉を放流する活動をした。これを契機に町並み保存、町の美化を進める市民運動へと発展し、昭和41年には「上三之町町並保存会」が結成された。
道路に面した部屋を「ミセ(店)」と呼ぶ。建物の間口は3~4間と狭く。奥に深い。中に入って見上げてみると吹き抜けの天井は今にも通ずる空間を利用した建築手法である。息苦しい感じがせず、自然光のよさ、光の帯が差し込む様はすばらしいものがある。
高山の町家は、前側の屋根の軒桁の高さは4.5m少しと大変低い。屋根は道路の水路まで飛び出て、屋根から落ちた雨水がちょうど水路に落ちるように工夫がされている。
敷地奥の土蔵は防火の役割を果たしていて、連続する土蔵の列は延焼をくい止める防火帯として大きな効果をあげてきた。現在、この土蔵を大事にしている。
資料集
010_013_三町伝統的建物群保存地区
一位一刀彫
木の細工に匠の技を極めたのは江戸在住の平田亮朝である。亮朝は文化6年(1809)に高山で生まれ、若くして江戸の根付彫刻の大家といわれた山口友親(寛政13年江戸生まれ、3代続いた)の門に入り、江戸で根付彫刻の大家として大成した。浅草橋付近に住み、江戸で有名な日本橋通塩町の小間物問屋「日野屋」の大事なお抱え根付彫師として活躍。しかし、38歳と若くしてその生涯を終えている。亮朝が江戸にいたとき、高山から江黒亮春(すけはる)、中村亮芳(すけよし)、松田亮長(すけなが)が弟子入りし、共に高山に帰って身を立てた。特に亮長は若い頃より彫物にすぐれ、写実的な小動物の彫刻を最も得意とした。材料も檜(ひのき)、なつめ、梅、竹などを使っていたが、のち一位材を用いて簡潔な彫痕を残す一刀彫の様式を完成させた。
旅好きであった亮長は、生涯全国各地を巡って見聞を深めて自己研鑽に努め、1年の半分を高山で過ごすことは希であったという。旅先は絵日記等によって知ることができ、各地の名勝地を遊歴し、彫工の名家を訪ね、古寺社の彫刻を研究するなどして心技を磨いた。
旅の途中で奈良人形を見て、その着色が非常に濃く、刀痕を塗り込めてしまい、技術の良し悪しがわからないので、自ら意匠を練って刀法を考え、彩色を施さずに飛騨の名木一位の天然の美しさを生かした簡潔な彫痕を残す一刀彫の様式を考案したとされている。
亮長の作品には写実的なものと、今日の一刀彫に見られる極限まで簡略化され面で構成された、単純ではあるが、良くその物の特徴をつかんだ作品の2系統がある。亮長は明治4年(1871)3月14日、下向町の自宅において72年の生涯を閉じた。
参考文献 『民俗文化資料』高山市 平成12年、『木つつき』江黒亮聲 平成9年)
『新・飛騨の匠ものがたり』112~116頁 (協)飛騨木工連合会発行 平成14年
資料集
011_014_一位一刀彫
飛騨春慶塗
慶長年間(1596~1614)高山城下で、神社仏閣の造営工事に携わっていた大工棟梁、高橋喜左衛門が仕事中に、たまたま打ち割った材の批目の美しさに心を打たれ、その板を使って風雅な盆を作り、金森可重の子重近(金森宗和)に献上した。重近はその木目に感動し、御用塗師の成田三右衛門に木目の美しさを生かして漆を塗るよう命じた。三右衛門は素地を生かした透漆で、その盆を塗り上げた。
成田三右衛門義賢(晴正)は京都で塗師をしていたが、お抱え塗師として飛騨に入国して春慶塗を考案し、その子成田三右衛門正利(三休)もお抱え塗師となり春慶塗の改良に貢献した。飛騨が幕領になっても飛騨春慶塗は地場産業として存続する。
飛騨春慶塗という独特の漆器が生まれ育ったのは、飛騨が良材の産地であった背景と、伝統的に自然の樹木の美しさを知りつくし、木の魅力を引き出す木地師の優れた技があったからである。
春慶漆は、原料漆に透明度の高い日本産の漆を使い、精製するときに荏油などを混合することで光沢と透明度をより一層良くする。この透明度の高い透(すき)漆(うるし)が下地の表情を美しく魅せ、時を経るごとにその彩りを変化させながら、透明度をさらに増していく。木地は板物と、轆轤(ろくろ)による挽物(ひきもの)に分けられるが、飛騨春慶塗は板物の加工技術に特徴が見られ、「角物」と「曲物」がある。木肌の美しさを醸しだす木地師と、木肌の美しさを引き出す塗師の二者一体の共同芸術で成り立っている。
参考文献
『新・飛騨の匠ものがたり』109~111頁 (協)飛騨木工連合会発行 平成14年
資料集
012_015_飛騨春慶塗