位山八幡神社
創建年代は不詳。国説に、仁徳天皇六十五年、飛騨国両面宿儺追討の勅命を奉じた武振熊命(たけふるくまのみこと)が、この地に先帝応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝を祈願されたところで、祭場遺跡とある(「飛騨八幡八社」の一つ)。また、里伝に宮坂の現地と、森の幅、上馬瀬戸にあった三社を、合併合祀したとも伝えられている。
当社は、律令制下の東山道の官道筋にあった。元禄検地で一反六畝十歩の境内除地があった。明治維新に村社に列格した。
この地は古来、大野郡久々野郷に属し、一宮神領として一村区一神社であったが、昭和三十一年に益田郡萩原町に合併し、神社も益田郡支部川西部会に編入されて、社名も「位山八幡神社」と改称された。
創建以来の記録は少なく、棟札には文政十年、嘉永元年、大正二年などに拝殿を再建したことが分かる程度である。
本殿は小社ながらも郡内における代表的な建築様式(流造入宝殿)である。
祀職は歴代一宮より兼任し、祭祀もまた一宮の御祭札を縮小した規模のものであった。
なお、境内には、県指定天然記念物の「夫婦杉」、「一位樹」がある。
鎮座地 萩原町山之口字神屋1,272番地
1.祭神 主神 応神(おうじん)天皇
仁徳(にんとく)天皇
神功(じんぐう)皇后
配祀 氏子出身靖国の神霊30柱
2.由緒 創建年代は不詳であるが、国説に、第16代仁徳天皇の65年、飛騨国両面宿儺追討の勅命を奉じた武振(たけふる)熊(くまの)命は、進軍の各所で先帝応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝を祈願された祭場遺跡であろうと称せられる。中津原・乗政・森・久津・一宮・石浦・高山等とともに「飛騨八幡八社」の1であるとも伝えられている古社である。
第42代文武天皇の大宝律令制定による、東山道の官道筋であったが、後天正年間(1573~1591)金森長近が、飛騨国主となると、位山の険を避けて、上呂より小坂・久々野・一宮に至る河内路を、公道に切り替えたので、かつての道は廃道となり、大正の頃まで、もっぱら高山に至る歩道として利用された。
また、里伝に宮坂の現地と、森の幅・上馬瀬戸にあった3社を、合併合祀したとも伝えられる。
戸田釆女正による元禄検地には、境内社地に1反6畝10歩の除地を受け、明治維新には村社に列格し、同40年神饌幣帛料の供進指定、並びに神社会計適用指定を受けた。
この地は古来、大野郡久々野郷に属し、一宮神領として1村1区1神社であったが、昭和31年に益田郡萩原町に合併し、神社もまた益田郡支部川西部会に編入されて、社名も「位山八幡神社」と改称された。
創建以来の記録は少なく、棟札には文政10年・嘉永元年・大正2年等に、拝殿を再建したことが分かる程度である。
本殿は小社ながらも郡内における代表的な建築様式である。
祀職は歴代一宮より兼任し、祭祀もまた一宮の御祭礼を縮小した規模のものであったが、戦後過疎化や祀職怠慢などにより、祭祀・施設等荒廃に帰したが、今や復興の声も氏子内外にあがりつつある現状である。
終戦後、神社林の伐採により、往時の景観を失ったのは、遺憾なことである。しかし、なお境内には、県指定天然記念物の「夫婦杉」・「一位樹」等がある。
3.祭祀 例祭5月1日・2日(制定日 5月2日)。神幸祭・神代踊・闘鶏楽等がある。祈年祭3月10日。新嘗祭11月23日。
4.建造物 本殿(流造入宝殿 4.5坪)・覆殿(平棟造 6坪)・幣殿(平棟造 15坪)・拝殿(平棟造 20坪)・手水舎(平棟造 1.5坪)・鳥居(石造明神形 高2間 幅9尺)・神庫(3坪)。
5.宝物その他 〇円空作神像 3軀。
〇狛犬 1対(陶器製 茶褐色)。
〇棟札 5枚。
〇夫婦杉(岐阜県指定天然記念物)。
〇イチイの大木(岐阜県指定天然記念物)。
6.境内地 2町2反5畝3歩。
7.氏子 山之口全戸を含む、130戸。
<引用文献>土田吉左衛門編集『飛騨の神社』1,148~1,150頁 飛騨神職会発行 昭和63年
資料集
039_044_飛騨八幡八社・位山八幡神社
資料集
062_271_位山八幡神社の社叢
久津八幡宮(くづはちまん)
1 概要
祭 神 應神天皇、天照皇大神、春日大神を主神とし仁徳天皇をはじめ八柱の大神を配祀する。
由 緒 仁徳天皇65年(377)勅命により難波子武振熊命が飛騨国の両面宿儺を征討の途次應神天皇の霊を奉祀したのを創祀とし平治の乱(259)役募兵のため飛騨に入国した源義平が鶴岡八幡宮の神霊を勧請奉斎したのを當宮の鎮座とする。
その役応永19年(1412)飛騨国領主白井太郎俊國が現在の本殿を再建し天正9年(1581)飛騨国領主三木自綱が現在の拝殿を建立した。以後飛騨国藩主金森氏や幕府の代官、郡代により次々に修理造営が行われてきている。
古くから飛騨二の宮南飛騨総鎮守と称され飛騨国中はもとより越中、美濃からも厚く崇敬されている。
例大祭 4月第3土曜日試楽祭 4月第3日曜日本祭・神幸祭
重要 本殿(国指定)三間社流造、屋根こけら葺 室町時代初期の建造物
文化財 南妻蟇股の彫刻「鳴いた鴬」は飛騨の匠の作として有名
拝殿(国指定)入母屋造、屋根こけら葺 桃山時代の建造物
南面軒口の「水呼ぶ鯉」の作り物は飛騨の匠(左甚五郎)の作として有名
天然
記念物 夫婦杉(国指定)雄杉(上)雌杉(下)ともに周囲12.5米 樹齢1,500年
宝 物 木造高麗犬壱対(鎌倉時代作)木造神像壱体(平安時代作)書写大般若波羅密陀経100巻余(鎌倉時代)その他獅子頭、鬼神面太刀、槍、鰐口、神輿、扁額など30数点、久津八幡宮祭礼記録類18点(岐阜県重要民俗文化財指定)外 古文書古記録1,000余点
八幡様(應神天皇)は広く民衆を守る神様。また、應神天皇神功皇后は大陸の文化を積極的にとり入れ、古代日本における文化の向上、国家の発展につくした文化の神様である。
*説明版より
2 配祀御祭神
御 名 御 神 徳
倉(うか)稲(のみ)魂(たまの)神(かみ) 穀物の神・稲荷神
火(ほ)産(むす)霊(びの)神(かみ) 火の神
大(おほ)山(やま)袛(つみの)神(かみ) 山の神
須(す)佐(さ)之(の)男(をの)神(かみ) 医薬の神
事(こと)代(しろ)主(ぬしの)神(かみ) 福神・夷子神
磐(いは)長(なか)姫(ひめの)神(かみ) 延命長寿の神
久(く)々(ぐ)能(の)知(ちの)神(かみ) 木の神
菅(すが)原(はら)道(みち)真(ざね)公(こう) 学問の神
*説明版より
3 拝殿 国指定重要文化財 国指定重要文化財
拝殿は桃山時代、三木自綱の再建によるもので、単層入母屋造りの柿葺で4本の囲い柱による内陣は全国でも類例がなく国指定重要文化財になっている。
天正9年(1581)益田の国領主三木大和守自綱は普請奉行に小林正左衛門、舩坂弥治右衛門、内気喜助を任命し、桜洞の名匠桂川孫兵衛を棟梁として拝殿を建立した。鯉は、嘉永7年(1854年)大修理の際、取り付けられた水を呼ぶ鯉で、今なお当時の姿のまま保存。
*説明版より
4 水を呼ぶ鯉(萩原のむかし話より)
ずっと昔、毎年雨の降るたび、益田川の水が荒れ狂う水に削られて川がどんどん久津八幡様の方へ押し寄せて来たそうな、村人達は心配のあまり川を眺めて「なんとかせにゃどもならん、こりゃどえらいことになる」、長老の弥作じいがおみたちの心配する気持ちはようわかるどしてみとがこっちへくるかって事よ、ありゃ拝殿のひさしに彫り込んだ鯉よ、あいつが水をよぶんやぞ、とにかくあの鯉を作らはった和田様に聞いてみるが一番ええ
次の朝、じいは高山の和田様を訪ねた 事の次第をうなずきながら聞いておられた和田様は、しばらくお待ちくだされ、白装束を身につけて 仕事部屋に行き、なにやらトントン木を刻む音が聞こえてきた すると和田様は彫り刻んだ矢を手に現れ、この矢を鯉に向けて取り付けてくだされ、それからというものは まったく大水の心配は無くなり、村は安らかになったという。
*説明版より
5 久津八幡宮本殿
室町時代の応永19年(1412)、白井太郎俊国が祈請し、家臣山下作右衛門友貞を普請奉行とし飛騨の匠の流れをくむ美濃の国の名匠武澤茂右衛門利久を召し、棟梁として本殿の再建に着手完成に至る。
本殿は、丸柱総素木造りで、正面向拝に流れる屋根の曲線が優美。南妻にある「鳴き鶯」は拝殿の軒口の「水を呼ぶ鯉」とともに飛騨の匠の神技を伝えている。宝物として鎌倉時代の狛犬1対、正和2年清峯寺道仙の筆書による大般若経が100巻余り保存されている。境内の夫婦杉は国指定天然記念物。
*説明版より
6 鳴いた鶯(萩原の昔話より)
ずっと昔の事やった、旅の男が夏の太陽が照りつける中を、歩いておったと 久津の八幡様の森のなかに涼しく流れる清水を見つけ、口をうるおし、大杉の木陰で汗をぬぐいひとやすみしとった。境内はとても静かな所で木々を吹き抜ける風に、小鳥のさえずりが気持ちよう聞こえてくる、その中にひときわ美しいウグイスの鳴き声も聞こえたそうな、男は疲れのせいか 眠気がさしてきたんやと、そんでもいざ寝るとなると鳥のさえずりがやかましい。男は小石を拾って森の方へ石を投げつけたと、小鳥の声はぴたりと静まったが、ホーホケキョホーホケキョと鳴くウグイスの声だけはいっこうに鳴きやまん 男は、その声のする方へ近づいていったと、けどな不思議な事もあるもんよ、声は本殿の軒下から聞こえるんやが、いっくらさがしてもウグイスは見あたらん、ただ目に付いたのは、軒下に木彫りのウグイスがあってな、いまにも鳴き出すように活き活きと彫ってあったとよ、まさかこの彫り物が。気のおさまらんままに足下の小石を拾って彫り物の鳥めがけて力いっぱい投げつけたとよ するとなウグイスの鳴き声は、ぱったりとやんでしまったと、ただ木の葉を渡る風音だけが 聞こえておったと、男はあわてふためいて境内を飛び出し村人達にこのできごとを話したと。このときからや、軒下の2羽の鳥の彫り物を鳴いたウグイスと呼ばれ出したのは。
*説明版より
7 久津八幡宮緑地環境保全地域
面積(ha)3.42 S52.9.30 指定
スギ、ヒノキ、サワラ、シラカシ等の良好な緑地
久津八幡宮は、産土神として地元の人々の信仰の対象となっている。社叢は、国の天然記念物である夫婦スギをはじめ、スギ、ヒノキなどの針葉樹やサクラ、シラカシなどの広葉樹の大径木からなり、神社の深遠さを保ち霊気をかもしだしている。岐阜県では、この地域を訪れる人々にやすらぎと潤いを与えるため、この社叢を緑地環境保全地域に指定して保全につとめている。
*「岐阜県自然環境保全条例」に基づき、自然環境保全地域のほか、市街地及び集落地並びにこれらの周辺地を対象に、緑地環境保全地域を16地域(654ha)指定している。緑地環境保全地域は、市街地等にある樹林地、水辺地、その他、これに類する自然環境を有する土地であって、自然環境を保全することにより、地域の良好な生活環境の維持に資することを目的としている。緑地環境保全地域は社寺林が多くなっている。
岐阜県庁6階 環境生活部 環境企画課が担当課
*説明版より
今から1600年も昔、飛騨国に両面宿儺という怪賊がいて、時の仁徳天皇は御弟の難波根子武振熊命を飛騨国にお遣わしになって宿儺を討って飛騨国を平定開拓されました。この時、武振熊命は、御父応人天皇の御霊をお祀りして武運長久と国土平安を祈られましたのが久津八幡宮の始めであると伝えられています。それから八百年余後、平治の乱(1159)の時飛騨へ募兵入国した源氏の嫡流源義平が武運長久を祈って、久津八幡宮に関東の鶴岡八幡宮の神さまを勧請致しました。その後室町時代の応永19年(1412)に飛騨国領主白井太郎俊国が、現在の本殿を再建し、又桃山時代の天正9年(1581)には飛騨国領主三木自綱によって現在の拝殿を建てられました。その後も飛騨国を領した金森藩主や徳川幕府の代官郡代によってつぎつぎと修理造営が行なわれて今日に至っております。また飛騨の古い俗謡に「飛騨で一番一之宮、二には荒城安国寺、三に上呂の久津の宮」と謡われているのは、飛騨二の宮として飛騨国中から篤い崇敬がよせられていた事を物語るもので、古記録によりますと、飛騨国はいうまでもなく、隣国、越中、美濃まで広く崇敬が及んでいたことがしられます。
文化財 国指定重要文化財 本殿1棟 拝殿1棟
天然記念物 夫婦杉
#左甚五郎
資料集
040_045_飛騨八幡八社・久津八幡宮
若宮八幡神社
鎮座地 高山市石浦町字向町3204番地
銀幣社 (旧社格 村社)
1.祭神
おうじん にんとく
主神 応神天皇 仁徳天皇
合祀 諏訪神社・天満神社2.由緒
創建の年代は詳らかでないが、相伝に「仁徳天皇六十五年(西暦377)勅命を奉じて難波根子武振熊命が、両面宿儺討伐の時この地石浦(延喜式兵部省云、飛騨国駅馬云々、石浦五匹と見ゆ、上古よりの駅舎也)に屯軍して、先帝と今上の尊霊を奉祀して戦捷を祈念ありし斎場の遺跡ならん。」(『斐太後風土記』)とあり、また、『飛州志』には「一宮の棟札云長木は石浦若宮之杉本也々。享禄二年若宮上葺」とある。
若宮は「新宮」・「別宮」とも言う例があり、一の宮水無神社の若宮であるといわれる。
神社は深い緑に包まれ、古来より石浦地区の産土として崇められてきた。
戸田釆女正による元禄検地で、境内除地一町歩を賜わった。
明治四年九月村社に列し、同四十一年三月、神饌幣帛料供進の指定を受けた。
昭和二十一年官制廃止後は神社本庁に所属し、岐阜県神社庁より銀幣社の指定を受けた。
3.祭祀
例祭 9月22~23日
祈年祭 3月中
新嘗祭 11月下旬
なお二十二日の試乗祭には、本宮より神璽を奉遷し、例祭当日は、氏子内を神輿渡御がおこなわれ、神賑として獅子舞・鶏闘楽・槍踊りがある。祭典終了後は直ちに本宮に遷記する古例となっている。
4.建造物
前宮本殿 (流造 4坪)
渡殿 (平棟造 6坪)
拝殿 (神明造 16坪)
絵馬殿 (平棟造 12坪)
社務所 (平棟造 30坪)
神與庫 (土蔵造4坪)
奥宮本殿 (神明造 1坪)
鳥居 (石造)
若(わか)宮(みや)八(はち)幡(まん)神(じん)社(じゃ)は、仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)の御(み)代(よ)、両(りょう)面(めん)宿(すく)儺(な)征(せい)討(とう)の命(めい)を奉(ほう)じた武(たけ)振(ふり)熊(くまの)命(みこと)がこの地に今上の尊(そん)霊(れい)を奉(ほう)祠(し)して戦(せん)捷(しょう)を祈(き)願(がん)した斎(さい)場(じょう)であったと言われている。その時(とき)、命(みこと)は石(いし)を蹴(け)って捷を占(うら)なったので「石(いし)占(うら)」と呼(よ)ぶようになったと郷(きょう)土(ど)誌に記(しる)してある。また斎場に美(み)事(ごと)な岩(いわ)があって、いつも清(し)水(みず)を湛(たた)え、この水で口(くち)を潤(うるお)し、身(み)を清(きよ)めることによって士(し)気(き)が漲(みなぎ)ったとも言われている。
*説明版より
お手水鉢の由来
昭和9年の頃、国鉄高山線敷設の時、二之瀬(本社の南方)の河原の岩は殆(ほとん)ど石(いし)工(く)によって打(う)ち割(わ)られたが、なかば砂(すな)に埋(うず)もれた一(ひと)つの岩だけは石工たちも気(き)が進(すす)まないと言って鑿(のみ)を打たなかった。たまたま、ただ一つ残された巨(きょ)岩(がん)を不(ふ)思(し)議(ぎ)に思(おも)い、里(さと)人(びと)たちの言い伝(つた)えもあって、これがその昔(むかし)、清水を湛えていたという岩ではないかと好(こう)奇(き)心(しん)のあまり掘(ほ)り起(おこ)すと、美(うつく)しい凹(くぼ)みのある岩であった。この水鉢、昭和12年(1937)2月石浦町地内・若宮(奥宮の森)の200m上流二之瀬谷入口の宮川本流の中央川底より当境内神前に運ばれた。
二之瀬谷出口の宮川の真ん中の平な大岩には、大昔より下に手の届かぬ深い「魚の寝床」が在ると言い伝えて居た。鉄道建設当時附近の岩石は悉く利用されたが、此の岩は残っていた。昭和11年秋過ぎ、此の大岩が“神社の水鉢”にと掘起しが決まった。当時重機は無く滑車と梃子と鶴嘴で苦労の末掘起した。
歳明けて2月、「大持引」で石浦の住人が総出で境内へはこぶことを決めた。川越えのため、長靴は駄目で草鞋履にとした。
街道へ引上げて北進、歩危、踏切、川越えも無事に通過し参道坂へ。坂を上り、全員力を合せたが、大持ちの重量が勝り後退する。日没になったので本日はこれまでとし、各人石浦に有縁の人々に沙汰し、明日の応援を願う事、役の人はシヤチ等を整備し明日正午当所に集合のこととした。各人は近郷有縁の人々へ連絡に走る。翌2日午前7時、寄せ鐘と共に有縁の人々が大集合し、正午、無事到着して喜びと共に神前に供覧をした。
*説明版より
資料集
041_046_飛騨八幡八社・若宮八幡神社
千光寺
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には7堂伽藍19の院坊があったと伝える。永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。 平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第24世法印*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
観音堂 棟札 員数 1棟
永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い、焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なった。その2年後の慶長3年(1598)に、阿弥陀堂(現在の持仏堂)とともに本尊を祀り、現在の堂宇に完成するのは萬治2年である。
本堂再建には、高山城主金森頼直の誓願があったと記され、再建奉行は森直次、大工中井甚次郎、住職は権大僧都法印舜慶である。
昭和44年12月11日指定*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
宿儺堂 員数 1棟
慶長3年(1598)建立。当山の開創者「両面宿儺」を祀る堂宇である。両面宿儺は、日本書紀にも登場する飛騨の開拓者であるが、最期は大和朝廷と戦って敗れる。
平成の解体修理の折りに天井裏から棟札が発見され、慶長3年の建立と判明した。
永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に、当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が、1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なっている。
平成15年6月16日指定*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
弁天堂 員数一棟
永禄年間の武田軍による焼き討ち後、再建されたと伝わる。
弁天池の中央に祀られる弁財天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した表記は本来「弁才天」だが、日本では「才」が「財」の音に通じるため財宝神としての性格が付与され、「弁財天」とも表記される。本来、仏教の尊格だが、日本では神道の神とも見なされ、七福神の一員である。
平成15年6月16日指定 *説明版より
極楽門(仁王門)
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には七堂伽藍十九の院坊があったと伝える。永禄7年(1565)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。
平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第二十四世法印
高野山傅燈大阿闍梨 大圓敬曰*説明版より
高山市指定史跡 四国八十八カ所霊場札所
明治20年(1887)、当山住職三蔵祐圓法師の時に、新四国霊場を草創し、巡礼運動を展開したのが、現今の道場である。
巡礼者は、身に白衣をまとい、笈摺(おいずる)を負い、金剛杖をつきながら歩き、真言宝号とご詠歌を唱え、施主の報謝を受けつつ巡拝する。巡拝中種々の霊験を蒙(こうむ)ると、古今に伝説が多い。巡拝は四季絶えないが、特に春季が多い。
安置仏88堂の左側に弘法大師、右側に如来・観音・菩薩像等の札所本尊仏を祀っている。
平成15年6月16日指定 *説明版より
資料
002_002_千光寺
位山
位山(くらいやま)は、飛騨高地の中央に位置する岐阜県高山市の標高1,529mの山。 飛騨北部と南部の境界であり宮川と飛騨川の分水界である位山分水嶺の山。 飛騨一宮水無神社の神体である。日本二百名山のひとつであり、山域は岐阜県の「位山舟山県立自然公園」に指定されている。
資料
003_003_位山 周辺地域の自然
長瀧寺
長瀧寺(ちょうりゅうじ、往時はながたきでらと呼ばれた)は、岐阜県郡上市にある天台宗の寺院。本尊は釈迦如来。
この寺は、718年(養老2年)勅命により泰澄が法相宗の寺院として創建したと伝えられ、828年(天長5年)天台宗に改められたという。古くから白山信仰と深いかかわりがあり、郡上郡一円に大きな宗教的勢力として君臨していた。最盛期の鎌倉時代には六谷六院、神社三十余りと三百六十坊が存在したといわれる。戦国時代になると浄土真宗の勢力が郡上に浸透し、坊院の多くが浄土真宗に改宗したほか、朝倉氏が郡上に侵攻した際に略奪を受けて勢力を失った。江戸時代にも郡上藩主の井上氏に寺領を没収され、浜松二諦坊により白山牛王の発給権を失い、白山別当職を越前平泉寺に奪われて衰退する。文政8年(1825年)、老朽化した大講堂の再建が成った。大講堂は間口18間(約33m)、奥行き14間(約25m)と巨大で、郡上に過ぎたは長滝講堂と謳われていた。長瀧寺明治初年の神仏分離により白山神社と長瀧寺に分けられた。1899年(明治32年)火災により堂宇を焼失して宝物の一部を失った。現在の堂宇はその後に縮小して再建されたものである。現在、阿名院、経聞坊及び宝幢坊の三つの坊院が残っている。
明善寺
明善寺(白川郷)概要: 松原山明善寺は岐阜県大野郡白川村萩町地区に境内を構えています。明善寺の創建は不詳ですが延享5年(1748)、白川八幡神社(上白川郷18ヶ村・下白川郷23ヶ村の産土神)の別当だった仙光院の跡を継ぐ為、内ヶ戸から移ってきたのが始まりと伝えられています(延享元年:1744年に浄土真宗本願寺派の本覚寺から真宗大谷派として分派したとも)。現在の庫裏は江戸時代末期に建てられたもので高さ15m、建築面積100坪、萱面積108坪、白川郷を代表する合掌造建築として貴重な事から昭和43年(1968)に岐阜県指定重要文化財に指定されています。鐘楼門は享和元年(1801)に飛騨の匠である加藤定七によって手懸けられたもので入母屋、茅葺、一間一戸、2重垂木、上層部には下層部に比べ柱割が短く、壁は吹き放し、際には高欄が廻っています(当時の梵鐘は大戦中に供出となり現在のものは戦後中村義一氏によって制作されたものです)。鐘楼門は江戸時代後期に建てられた2重楼門建築として貴重なことから昭和43年(1968)に岐阜県指定重要文化財に指定されています。本堂は文政6年(1823)から文政10年(1827)にかけて現在の高山市出身の宮大工水間宇助によって手懸けられたもので入母屋、茅葺、桁行7間、梁間6間、正面には茅葺の大屋根切欠くように向拝が取り付いています。明善寺本堂は江戸時代後期に建てられた寺院本堂建築として貴重ことから昭和42年(1967)に白川村指定重要文化財に指定されています。境内にあるイチイは文政10年(1827)、本堂落成時に副棟梁だった与四郎が植えたと伝えられる大木で樹高約10m、根回り約2.6m、昭和49年(1974)に岐阜県指定天然記念物に指定されています。白川郷が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されると、その構成要素の一つに選定されています。山号:松原山。宗派:真宗大谷派。本尊:阿弥陀如来。
飛騨一宮水無神社
飛騨一宮水無神社の「水無」は、「みなし」「みずなし」などとも読み、水主(みずぬし)[ 川の水源をつかさどる神]の意味です。また社前を流れる宮川は、飛騨一宮水無神社の社前で約1,500メートルばかり砂礫の下を伏流しています。
神社の南西に位置するご神体山・位山は、古代から川の水源(水主)の神のいる霊山(れいざん)と仰(あお)がれていました。
創立年代は詳しくはわかりませんが、律令時代には、数回の神階の昇叙(しょうじょ)があり、陽成天皇の時代(881年)には従四位上に叙せられました。また、平安時代につくられた「延喜式」という文書には、その頃すでに飛騨一宮水無神社が飛騨で最も権威のある神社である事がしるされています。
※砂礫(されき):砂と小石。
※律令時代(りつりょうじだい):奈良時代〜平安時代にかけて、律令という法律にもとづいて政治が行われた時代。
※神階(しんかい):日本において、神道という自然や自然現象に多数の神様の存在を見いだす宗教があります。その宗教で、神に授けられた位階です。神階昇叙とは、神階を与えることです。
※従四位上(じゅよんいのじょう):15の神階の内、上から9番目の位。
※延喜式(えんぎしき):律令をおぎなうために国が定めた文書。同じような文書が三つあり ますが、ほぼ完全な形で残っているのはこの延喜式だけであり、かつ細かな 事まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっています。
飛騨一宮水無神社の祭神は、御歳大神(みとしおおかみ)・天火明命(あめのほあかり)・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称しています。
また、飛騨水無神社は、位山を神体としています。
※柱:神様を数えるときに使う言葉
飛騨一之宮水無神社例祭
例祭は古くより旧暦8月15日に行われていましたが、明治以後は9月25日に行われ、最近では稲の収穫時が早くなったことや気象関係もあって、昭和36年式年大祭以後5月2日に改められました。
5月1日は試楽祭(しがくさい)で早朝から氏子各組の新旧組長等が社殿の前に集って、幟(のぼり)立てや神酒(みき)[濁酒]開き等に奉仕し、氏子総代は神輿(みこし)その他の祭りに使う道具の準備に忙しくなります。午後3時より中祭式により関係のある神社の祭礼が行われます。
2日は神社本庁の献幣(けんぺい)があり厳(おごそ)かな本楽祭が行われ、続いて神輿発幸祭の後獅子舞・闘鶏楽(とうけいらく)、神代踊(じんだいおどり)、警固(けいご)の各組が神輿に奉納します。総勢400余名、延々1Kmに及ぶ渡御(とぎょ)行列は、水無磧をわたって神楽岡(御旅所)へ向かいます。
昭和9年駅前に一宮橋ができてからは、御神幸は神橋から参道を経てこの橋を渡るようになりました。
神輿が御旅所へ到着されると御旅所祭りが行われ、獅子舞、闘鶏楽、神代踊が奉納され、行列の参加者と一般参拝者に神酒(濁酒)がふるまわれます。
やがて、神輿は帰る準備をして、本殿に戻ってくると還幸祭が行われます。その時境内では舞踏楽が奏でられます。
祭りのしきたりは細かく、氏子の男子が代々受け継ぎ、堅く守られてきました。現在は、飛騨一宮水無神社特殊神事として岐阜県指定無形文化財 となっています。
※旧暦(きゅうれき):日本で昔使われていた暦(こよみ)。今の暦とと少し違っています。
※献幣(けんぺい):神社本庁から「幣帛料」(へいはくりょう)という名前で金銭が贈られています。
※御神幸(ごしんこう・ごじんこう):神様が移動されることを丁寧に言う言葉。
資料集
004_007_水無神社例祭_Part1
004_007_水無神社例祭_Part2
004_007_水無神社例祭_Part3
飛騨支路・位山道
飛騨支路の概要
国の制度の中に日本国の道路が位置づけられたのは、701年(大宝元年)制定の大宝律令ができたときである。道路は7つ作られ、その1つである「東山道」は日本列島の背骨にあたる山地を通る道路であった。
奈良から東北へと通ずる道路であり、基本的には政府の役人などが通るために整備された。古代の官道では、30里(この時代は30里が約16㎞)を基準に駅家(えきや)が設置されている。この七道は大、中、小路に分類され、東山道は中路で、各駅家には馬10疋(ひき)が置かれた。
東山道は滋賀県から東へと進んでゆくが、美濃の方県(かたがた)付近で本道と分かれて「飛騨支路」となり、関~金山~下呂と北へ進んで飛騨国府の所在地であった現在の高山市へと続いた。
戦略的にあるいは経済的に重要であったのか、わざわざ、飛騨へ通ずる道を官道としたのである。飛騨匠もこの道を通った。自己の食糧を持参したため奈良まで上京15日程、帰りは荷が無いので8日程(延喜式主計上巻24参考)であった。
飛騨支路の中で、所々に石畳の残る位山道は匠街道とも呼ばれ、都から飛騨へと文化を伝え、飛騨匠が都へと通った重要な道であった
「飛騨支路、東山道の駅、その推定地」を見てみよう。
高山発(東山道飛騨支路)⇒ 石浦駅 ⇒ 一之宮 ⇒ 上留(かむつとまり)駅・上呂 ⇒ 下留(しもつとまり)駅(えき)・下呂 ⇒ 初矢峠 ⇒ 乗政 ⇒ 夏焼 ⇒ 金山の渡し(金山町)⇒ 袋坂峠 ⇒ 武儀駅・下呂市金山町菅田辺り ⇒ 加茂駅・関市富加町辺り ⇒ 方(かた)県(がた)駅・長良辺り(ここから東山道)⇒ 大野駅・揖斐郡大野町 ⇒ 不破(ふわ)駅・濃国府・垂井 ⇒ 不破関 ⇒ 横川(よかわ)駅・米原市(ここから滋賀県) ⇒ 不破(ふわ)駅・濃国府・垂井 ⇒ 不破関 ⇒ 横川(よかわ)駅・米原市(ここから滋賀県)⇒ 鳥(と)籠(こ)駅・彦根市 ⇒ 清水駅・東近江市 ⇒ 篠原(しのはら)駅・野洲(やす)市 ⇒ 守山 ⇒ 草津(東海道と合流)⇒ 近江国府 ⇒ 勢多駅・大津市 ⇒ 山科駅・山科 ⇒ 宇治 ⇒ 奈良
*参考文献 『地図で見る東日本の古代』(株)平凡社発行2012年
駅路の研究抄史とその経路
飛騨国の駅路に関する研究は江戸時代から行なわれている。体系的に整理され、現地比定をしている『岐阜県史』(文献1)では、岐阜県内の「古代の交通概説」の頃において、奈良時代の史料をほとんど見ることができないとし、続いて『延喜式』(文献2)に掲げられる駅を次のとおり記している。
東山道は不破駅-大野駅-方県(かたがた)駅-各務(かがみ)駅-可児(かに)駅-土岐駅-大井駅-坂本駅をへて、信濃国の阿智駅に向かい、神坂(みさか)峠を越える。
東山道から分かれる飛騨支路は、東山道から分かれて飛騨国府へと進む支路で、方県駅から東山道と分かれて飛騨支路となる。方県駅-武義駅-加茂駅-下留駅-上留駅-石浦駅をへて飛騨国府に致着する。
また、『岐阜県史』(文献1)「古代の交通」の項では、次のように記す。
小路であるため飛騨支路の駅馬を各五区、各郡の伝馬は五区と推定、駅鈴は下国であるから二口であろうとしている。
駅馬の制は、飛駅使によって中央と地方の急速な通信を確保することにあり、1日に10駅164Km以上の速度が確保できたという。飛騨支路の場合は、そんなスピ-ドはとても無理である。
また、上記目的以外に皇室など特殊身分の旅行者への便宜提供、特別の物資輸送の目的も混在していたが、これは輸送量を増加させ、駅制疲幣の原因ともなった。養老6年(722)には、飛騨を含む全国19カ所の国司が、朝集使として上京するときに駅馬に乗ることが許され、神亀3年(726)には国司が任国へ赴任するとき伝馬を使用できるようになり、飛騨国は食事も利用できた。
『斐太後風土記』(文献5)、『飛州志』(文献6)、『飛騨国中案内』(文献7)で記載されている官道は、飛騨川沿いであり、飛騨支路の道は集落をつなぐ道として在所を紹介しながらの記述である。
『飛騨の街道』(文献8)では『岐阜県史』とほぼ同じ内容、『飛騨の交通運輸』(文献9)では刈安峠の宮村側を紹介し、金森以前の街道だとし、また高山市の上岡本から下岡本にかけて苔川沿いに石畳の道が断続的に残っていたという。
飛騨支路の駅名
『延喜式』に掲げる飛騨支路の駅路は、加茂駅(駅馬4疋)→武義駅(駅馬五疋)→下留駅(駅馬5疋)→上留駅(駅馬5疋)→石浦駅(駅馬5疋)で、美濃国内は加茂、武義駅、下留から北は飛騨国となる。
各駅の位置は
東山道から分かれて飛騨支路に入り、
第1番目の駅は加茂駅で、関市富加町周辺と考えられている(文献11)。
第2番目の駅は武儀駅で、下呂市金山町の菅田地区辺りと考えられているが判然としない(文献11)。
加茂駅から武儀駅推定地は津保川沿いの道と思われ、平坦で今も在所がつながり、歩きやすい道であったろう。今は美濃方面からの金山街道として飛騨の人たちも冬季に利用する。
第3番目の駅は下留(しものとまり)駅で、音読するとゲロになり、現在の益田郡下呂町に比定される。武儀駅から下留駅へは、飛騨川を金山の渡しで対岸に渡り、下原を通って産地に入る。飛騨川沿いの国道41号ではない。火打峠、夏焼、宮地、初矢峠を越えて下呂市小川地区の解脱観音の所に出てくる。
第4番目の駅は上留(かみのとまり)駅で、元々伴有(とまり)駅であったのを、下留駅が置かれてから上留駅となった。現在の益田郡萩原町上呂である。下留に近すぎると思われるが、山間地であることから、また集落の位置に合わせての都合もあったのであろう。
第5番目の駅は、石浦駅で、現在の高山市石浦町とされているが、国府(高山市)の位置に近すぎるとの考えもある。大野郡宮村が石浦駅とも考えられるが、現在、確証はない。宮村とすると、宮村山下付近から山を越えて越後谷へ出るル-トが直線的であるが、これも、わざわざ急坂な道を設定する意味があるのかと、否定的な意見は多い。
駅の変更 ―上留駅と下留駅―
宝亀7年(776)、美濃国菅田駅(加茂駅か)と飛騨国伴有駅(とまりえき・後に上留駅となった)の間は遠く、山も険しいので、中間に下留駅を置いたとされる(文献3)。また『斐太後風土記』(文献5)第1巻13頁でも「続日本紀」を引用して伴有駅を分けたとしている。さらには伴有一村里を後世に上呂、萩原、中呂、下呂の各郷に分けたとある。
上留駅は現在の下呂市上呂と推定され、ここからは飛騨川右岸の尾崎地区を通って山地に入り、山之口、位山峠へと進んでゆく。上留は平地から山地に入る重要な駅であった。
金山の渡子(わたしもり)
金山(かなやま)町には麻生谷、麻生郷(金山町東部)があってその辺りに徭役を免除された渡子(わたしもり)が2人配置されており、飛騨匠丁の上京にも労役を提供していた(文献3)。「延喜式」民部省に「飛騨国金山河渡子」、三段(反)の給田記録がある。
飛騨支路と東山道の合流 ―方県駅―
東山道から飛騨支路への分岐駅である方県駅は、現在の岐阜市長良、または合渡(ごうど)に比定される。どちらかと言えば、大野駅(揖斐郡大野町)と各務駅(各務原市鵜沼)の中間にあたり、各務駅との利便性から長良を有力視し、飛騨支路につながりのよい合渡は薄いといわれる(文献3)。
方県駅が長良とすると、長良支段見あるいは古津で東山道本路と別れ、東北に進み、合渡ならば各務原の北部から東北または北上することになる(文献4)。
志段見は雄総の東にあり、古代方県郡思淡郷の遺称地。東に隣接して古津(厚見郡)がある。
現存する飛騨支路の遺構
山国飛騨は森林率92.5%で、道路を設けることは飛騨の住民にとっては悲願である。江戸時代の領国藩主金森氏は、東山道飛騨支路のル-トとは別に、飛騨川沿いの街道を整備した。蛇行しても、平らな道が物資流通にも適していると考え、現代までの幹線として発達をとげてきた。その分、古代の道は忘れ去られてゆき、当時のル-トがわかりにくい。
その中で、大野郡宮村側の刈安峠には、石敷の道路が残存している。角のとれた山石を貼り、通行を容易にしている。他地区でも、たんねんにさがせば、多くある林道に混じって当時の古道が発見できるかもしれないが、平地になると拡幅や整備が進んでいて、ほとんどわからない。
文献1 「古代の交通」 『岐阜県史・通史編古代』 岐阜県 昭和46年
文献2 『延喜式』藤原時平、忠平が醍醐天皇の命により編集。延長5年(927)完成
文献3 『岐阜県の地名』㈱平凡社1989年
文献4 阿部栄之助編 『濃飛両国通史上・下巻』 岐阜県教育会 大正12年上巻、 大正13年下巻、<昭和51年1月覆刻 大衆書房>
文献5 富田禮彦編 『斐太後風土記』 明治6年(原典)〈昭和5年再刊 蘆田伊人編 『大日本地誌大系 斐太後風土記上・下巻』、昭和43年再刊 雄山閣〉
文献6 長谷川忠崇著 『飛州志』 一陽校訂浄書 文政12年 〈明治42年住広造活字原本発行、昭和44年復刻 岡村利平編・解説、岐阜日日新聞社・岐阜県郷土資料刊行会刊行〉
文献7 上村木曽右衛門 『飛騨国中案内』 延享3年 〈昭和45年増補完本 (株)創研社制作、刊行 岐阜日日新聞社・岐阜県郷土資料刊行会〉
文献8 『飛騨の街道』 飛騨運輸(株) 昭和47年
文献9 『飛騨の交通運輸』 飛騨運輸(株) 昭和42年
文献10 一志茂樹著 『古代東山道の研究』 信毎書籍出版センタ- 平成5年
文献11 木下良監修 武部健一著『完全踏査古代の道 畿内・東海道・東山道・北陸道』(株)吉川弘文館発行 平成17年 第4刷
位山官道の由来(山之口村誌による)
天正14年(1586)金森長近、飛騨国主となる。長近は軍事上、経済上の必要から、河内街道(高山・小坂間)の大改修を行ない、京街道の本通りを位山街道から河内街道に移した。しかし河内街道は洪水等で不通の時は、位山街道が利用された。
くらいやま 位山
下呂市萩原町・高山市一之宮町
位山は今の位山ではなく乗鞍(のりくら)岳の旧名との説もある(岡村御蔭:位山考)。位山は古くから霊山として尊崇されており、山腹には古代巨石文化遺跡と推定される祭壇石その他の巨石群があり、飛騨一宮水無(みなし)神社の御神体山とも伝えられている。両面宿儺(すくな)を山の主とする伝説がある。一位笏木献上史料初見は平治元年で以後水無神社よりの献上が今日まで続き、近世初頭まで飛騨と京を結ぶ唯一の官道位山道が麓を通っていたことなどにより、位山が広く知られるようになった。高山盆地からは隣の舟山とともに、そのゆったりとした山容が眺められる。夏に雨が多く植物が豊富で、北面にイチイの原生林が残る。なおイチイは岐阜県の県木(宮村史)。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川春樹発行 昭和55年
萩原町山之口から位山峠を超えて宮村へ出る位山街道のことを、往古都に工匠として召され奉仕した飛騨の匠たちの通った道として、その哀歓に思いを込めて「位山古道」と呼んでいます。位山道は、東山道飛騨支路として敷設され、現代に至る道です。
東山道飛騨支路は美濃の方県駅で「東山道」から分かれて飛騨支路になります。今も所々に残っている石畳の街道は、都から飛騨へと文化をつたえ飛騨の文化をはぐくみ育てた道です。石畳は、平安時代頃のものと推定しています。
日本の古代の道路が国の制度の中にはっきり位置づけられたのは、大宝元年(701)に制定された「大宝律令」という法律ができたときです。当時の東山道飛騨支路である位山古道の道筋は、現在の国道41号線ではなく、宮地域から刈安峠、位山峠を越え上呂へ抜ける道であったと考えられます。
資料集
005_008_位山道
宮川
宮川の清冽な湧水は、位山と川上岳を結ぶ峰と、それらを結 ぶ尾根の裾地から流れ始めます。東や南の絶壁の裾山、下方から 湧き出す水は、ツメタ谷となって渓谷の源流となります。そして 川上岳の山のふもと近くの、なだらかな丘地の水を集めたヌク イ谷の温かい水と合流します。その流水が一之宮町の盆地までの 源流・渓谷をつくりだしています。
飛騨の宮川は、日本全国の十数流もある宮川と称する河川の 中でも、最も大河と言われています。宮川は、飛騨市北端の富山 県境で高原川と合流し、神通川となって、富山湾(日本海)へ流 れます。宮川は、わが国大自然の中でも最大の神々の川なので す。
また、一之宮町の位山には中部日本の分水嶺があります。分水 嶺とは、水の流れの方向を分ける境界をなしている山の峰のこと です。位山に流れた北斜面の渓水は、餅谷川・常泉寺川となって 宮川に注ぎ、神通川を経て日本海へと流れていきます。
もう一方の南斜面の渓水は山之口川・無数河川となって益田 川に注ぎ、飛騨川・木曽川を経て太平洋へ と流れていきます。
※清冽(せいれつ):水などが清らかに澄んで冷たいこと。
































































