沖縄のアメリカ世の名残 プラザハウス
プラザハウス(PLAZA HOUSE SHOPPING CENTER)は、終戦後に設置された琉球米軍司令部(Ryukyu Command Headquarters)や、その他米軍基地や施設等に駐留していた将校や司令官、その家族の需要を満たすために、1954年にライカム(Rycom)エリアに隣接した場所に創業した「日本初のショッピングモール」といわれている。
琉球政府(=司法・立法・行政の三権を備えた自治機構として、戦後、米軍が沖縄に設けた統治機構“米国民政府”の意向で創立された政府)より特別免許を取得し、7月4日のアメリカ独立記念日に営業を開始した。当時のアメリカ本国で主流だったショッピング文化が反映されていた。
現在もヨーロッパ、アメリカなどからの直輸入によるセレクトショップ「Roger’s」をはじめ、衣・食・住・娯楽などの幅広い、個性豊かな専門店が40あまり立ち並んでおり、週末には多くの人が訪れ、駐車場も込み合う。
資料データ(メタデータ)
沖縄のアメリカ世_プラザハウス
参考
・プラザハウス公式ホームページ,https://www.plazahouse.co.jp,[アクセス2022/11/15]
沖縄のアメリカ世の名残 730記念碑
沖縄本土復帰の6年後である1978年(昭和53年)の7月30日、沖縄の交通方法の変更により、米国施政権下から33年続いた米国式の「車両右側走行」が「左側走行」に切り替えられた。この変更は、実施日にちなんで「730(ななさんまる)」とよばれ、記念碑の設置されている交差点は730交差点と標記されている。
沖縄県は住民生活の負担と混乱を防ぐため、変更前日29日午後10時から翌日6時までのわずか8時間、全県において車両通行止めや駐車禁止等の規制を行い、道路標識や道路標示、信号機等の切り替え作業を一斉に行った。
石垣市では、同年9月歴史的な事業を記念し、730記念碑を建立した。その後、2008年7月30日交通安全を祈念して一対の獅子(シーサー)を置いて碑の周辺を公園として整備し、「730シィーシィーパーク」とした。(「シィーシィー」とは琉球語の八重山方言でシーサーをさす。)
資料(メタデータ)
沖縄のアメリカ世の名残_730記念碑
斎場御嶽
御嶽(うたき)とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽(せーふぁうたき)は琉球開闢(りゅうきゅうかいびゃく)伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。また、琉球国王や聞得大君(きこえおおきみ)の聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り(あがりうまーい)」の参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されています。
御嶽の中には六つのイビ(神域)があります。琉球国王はこの六カ所を参拝しながら、国家繁栄・安寧、五穀豊穣、航海安全などを神に祈願しました。
はるかなる琉球王国時代、国家的な祭事には聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島から特別に運び入れ、それを御嶽に敷きつめました。その祭事の中でも、最も大きな行事が、聞得大君(きこえおおきみ)の就任式である「御新下り(おあらうり)」でした。
斎場御嶽は、琉球の最高神女(さいこうしんじょ)であった聞得大君(きこえおおきみ)の就任の儀式が執り行わられ、国の豊凶を占う儀式も行われた、琉球王国最高の聖地です。
斎場御嶽は、数ある御嶽の中でも琉球王国最高の聖地として、王府が直接管理していました。その名称についてはいくつもの説がありますが、歴史的な文献には「さやはたけ」「サイハノ嶽(タキ)」「さいは」などと記され、久高島とともにアマミキヨの霊地として国王自らが巡拝(じゅんぱい)する習わしがありました。
斎場御嶽の中にはイビと呼ばれる霊域が6カ所あります。その中でも、大庫理(ウフグーイ)・寄満(ユインチ)・三庫理(サングーイ)はいずれも首里城内にある建物や部屋と同じ名前を持っていることから、両者の深い関わりを示すものと言われています。
また、斎場御嶽を説明するうえで欠かせないのは、琉球王国の最高神女・聞得大君の就任儀礼である「お新下り(おあらおり)」です。聞得大君は国の祭祀をまとめる重要な役割を担っており、王族の女性がその地位に就きます。首里城から出発し、南風原・与那原・佐敷を経由して斎場御嶽に着くまでの各地方の神役(かみやく)たちが参列する国の大きな行事でした。その主会場が斎場御嶽です。国の最高神職に就任する重要な儀式である「お新下り」の祭祀場として選ばれたことは、この御嶽の重要性を表しています。
また、斎場御嶽は2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして、世界遺産リストに登録されました。
袋中寺
琉球に浄土宗が伝来したのは、1603年(万暦31年・慶長8年)に袋中が来琉したことをもって嚆矢とする。袋中は陸奥国石城郡(現・福島県いわき市)の出身の僧侶で、仏法を学ぶため明国渡航を志し、中継地の琉球王国に渡ったのである。琉球では尚寧王や儀間真常の帰依を受け、那覇に桂林寺を創建した。しかし明への渡航が不可能なことを悟り、1606年(万暦34年・慶長11年)に帰国した。
袋中帰国後の琉球浄土宗は、直後に勃発した薩摩藩による琉球侵攻の混乱もあって教勢が振るわず、桂林寺もいつしか廃寺となってしまった。浄土宗そのものは根付かなかったが、やがて「ニンブチャー」という念仏を唱える集団が登場し、今日のエイサーの起源になったといわれている。
壷屋焼
壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋で主に生産されている陶器です。焼物(やちむん)とも呼ばれ、沖縄を代表する陶器の一つとなっています。
壺屋焼の特徴は、沖縄特有の釉薬を用いた色とりどりの力強い絵付けです。庶民が用いる器でありながら装飾性に豊み、様々な技法を駆使した意匠は、大正時代の民芸運動家である柳宗悦(やなぎむねよし)らによって広く紹介され世に知られるようになりました。
壺屋焼は荒焼(あらやち)、上焼(じょうやち)と呼ばれる2種類に分かれ、主に酒や水の瓶などに使われた簡素な荒焼に比べ、上焼は様々な種類の釉薬を使い分け1200度の高温で焼締めます。こうして焼かれた壺屋焼はどっしりとした重量感と風格があり、沖縄の豊かな自然風土を写し取った焼物と称されます。
使用される釉薬の中でも特に白釉は、消石灰とモミ灰に沖縄の土である具志頭白土と喜瀬粘土を混ぜた壺屋焼特有のもので、壺屋焼の特徴である温かみの表現に重要な役割を担っています。
沖縄の焼物(やちむん)の起源は、14世紀~16世紀頃に大陸からもたらされた高麗瓦が由来とされています。この頃、琉球王朝は中国や東南アジア諸国と盛んに交易を行っており、壺屋焼の一種である荒焼(あらやち)もこの頃に技術が伝えられたと言われています。
17世紀に入って琉球王朝は江戸幕府薩摩藩の支配下となり、それまで盛んに行われていた外国との貿易も影を潜めるようになりました。そこで当時の琉球王、尚寧王(しょうねいおう)は朝鮮から陶工を呼び寄せ窯を開き、朝鮮の作陶技術を積極的に取り入れた焼物を作るように推奨しました。こうして、壺屋焼の元となる上焼(じょうやち)が沖縄で焼かれるようになりました。
やがて1682年(天和2年)、王府内にあった首里、知花、湧田の窯が、牧志村の隣、現在の壺屋に統合され、これが現在へ続く壺屋焼の始まりとなりました。
明治以降になると、いったん壺屋焼は安価な焼物の大量生産に押されて生産が下火となります。しかし大正時代に入ると民芸運動の高まりとともに注目されるようになり、遂には1985年(昭和60年)、陶芸家の金城次郎が沖縄県で初めて人間国宝に認定され、壺屋焼は沖縄を代表する伝統工芸品として広く知られるようになりました。
沖縄の海洋保全 軽石
【軽石の被害】
気象庁は2021年8月13日に小笠原諸島の付近の海底にある火山「福徳岡ノ場」噴火したと発表(気象庁)。この噴火で生まれた大量の軽石が「黒潮反流」という西向きの海流に乗って1,400キロ離れた沖縄・奄美地方に漂着して深刻な被害が出た。「福徳岡ノ場」は小笠原諸島・硫黄島の南約50キロの海底火山で、噴火は2010年2月以来11年ぶりだった。
海面を埋めた軽石が黒潮反流に乗って西に流れ、10月4日に沖縄県の北大東島と南大東島に漂着。11日に鹿児島県の奄美大島、13~14日には沖縄本島でも確認された。鹿児島県喜界町では10日に東海岸で軽石の漂着を確認。23、24日にはボランティアが一部の海岸で軽石の撤去を始めた。
軽石による被害は、養殖用のいけすで魚がエサと間違えて軽石を摂取したことで大量死する被害や、船舶のエンジンの故障の恐れから漁業者やフェリーの運航ができない日が何日も続く被害、リゾートホテルのビーチが一面軽石に覆われるなどの被害が連日報じられた。
【沖縄県読谷村長浜の養殖場付近の被害】
撮影場所は沖縄県読谷村長浜の養殖場付近で、海水面は軽石で茶色く濁り、砂浜にも軽石が堆積し、軽石が養殖の現場まで広がっている様子が見られた。
資料(メタデータ)
沖縄の海洋保全_軽石
沖縄の生活文化 備瀬のフクギ並木
沖縄では年中海からの風が吹いている。特に、古くからの住まい(古民家)に台風等の強風が直接あたることを防ぐための工夫として、「建物をサンゴ石灰岩の石垣で囲む」と「防風林を植える」が挙げられる。
防風林には沖縄独特のフクギという木がよく使われてきた。フクギは根を深く張り、幹も丈夫で、台風などの大風が吹いても倒れにくい。また、分厚い葉が密に付くことから風害や塩害にも強い。
沖縄県北部地区の国頭郡本部町備瀬には、数百年のフクギの木々が立ち並ぶ「備瀬のフクギ並木」がある。この集落には樹齢300年以上の樹木もあり、家々を囲むように植えられ、入り組んだ白砂の道の左右から高く伸びた枝葉は頭上で合わさり、トンネルになっているところもある。フクギ並木は海に隣接しているこの集落を暴風雨や台風から守り続けてきた。
フクギの鮮やかな緑や、この木がつくる木陰は古き良き沖縄らしい町並みの風景ともいえ、観光スポットしても有名である。並木の間をゆっくり徒歩で散策したり、レンタサイクルでサイクリングしたり、牛車乗りも体験できる。
フクギの並木は、シュノーケリングも楽しめる備瀬崎の海までの約1kmにわたって続いていて、ゆったりとした島時間が流れている。
資料(メタデータ)
沖縄の生活文化_備瀬のフクギ
沖縄の歴史上人物 吉屋チルー③御茶屋御殿
吉屋チルーは17世紀頃に存在したといわれている琉歌人で、幼いときに遊廓へ売られ、ある男性と恋仲になるが裂かれ18歳で自死したと伝えられている。
御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)はかつて琉球王府の別邸で、国王が遊覧し冊封使などを歓待した場所であった。御茶屋御殿を主題とした吉屋チルーのものとされる琉歌がある。
(琉歌)拝(う)で拝(うが)んぶしゃ首里天加那志(しゅゆゐてぃんじゃなし)遊(あそん)で浮(う)ちゃがゆる御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)
(意味)拝顔すると去り難いのは首里の国王様であり、宴席で去り難いのでは御茶屋御殿である。
「御茶屋御殿」は1677年に作られ、茶道、生花、武芸などの様々な芸能が行われ、敷地内には望仙閣・能仁堂・茶亭が並び、周辺には築山や池、石造物が配されるなど、独特の意匠を凝らした庭園造りがなされていた。敷地の北側(現在は城南小学校が所在する場所)には菜園が広がり、そこでは様々な薬種の栽殖が行われていた。
御茶屋御殿の建造物は第二次世界大戦で全て破壊され、現在はカトリック首里教会および付属幼稚園、一部城南小学校が建ち、当時の面影を感じることはできない。私有地のため、教会入り口には「御茶屋御殿見学の際は教会事務所へ一声かけるように」との注意書きがある。
2000~2005年度に御茶屋御殿周辺の発掘調査を沖縄県立埋蔵文化財センターが実施し、報告書(沖縄県埋蔵文化センター 2003『御茶屋御殿跡遺構確認調査報告書』)を公開している。
第二次世界大戦によって破壊された「御茶屋御殿」の玄関前約40mの岩陰にあった石獅子は、1979年に戦前の写真をもとに修復され、1986年に那覇市指定文化財(有形民俗文化財)「御茶屋御殿石獅子」として登録されている。その後、石獅子のあった岩陰ががけ崩れの恐れが生じたため、現在は、御茶屋御殿より450m先、徒歩6分程度の「雨乞御嶽」付近に移さえている。石獅子と「雨乞御嶽」周辺は首里が一望できる展望台を備えた「首里崎山公園」として整備されている。
資料(メタデータ)
沖縄の歴史上人物_吉屋チルー③御茶屋御殿跡
沖縄の歴史上人物 吉屋チルー②仲島の大石
吉屋チルーは琉球王国の遊女で、琉歌の歌人でもある。「吉屋チル」「よしや」「吉屋」とも表記する。
吉屋チルーは読谷山(ゆんたんざ;今の読谷村)の貧しい農民の娘として生まれ、わずか8歳で那覇の仲島遊郭へ遊女として売られてきた。よしやは遊郭の客だった「仲里の按司」と恋に落ちたが、黒雲殿とよばれる金持ちに身請けされたため、添い遂げられず悲嘆にくれ、食を絶って18歳で亡くなったといわれている。
吉屋チルーの代表作のひとつに以下の歌がある。故郷を後に遊郭へ向かう中、大きく深い川(比謝川)にかかる橋を渡る不安と恨みを込めて詠んだ歌といわれている。
(琉歌)恨む比謝橋や情きねん人ぬ 我ん渡さと思て掛きてうちぇさ
(意味)恨めしい比謝橋は情けのない人が私を渡そうと思って掛けておいたのだろうか。
また、仲島を詠んだ歌もある。
(琉歌)仲島ぬ花と美らさ咲ちなぎな 詠だる琉歌数に心くみて
(意味)仲島の花と美しく咲きながら詠んだ歌の数々に心を込めて
仲島の大石は沖縄県立図書館と那覇バスターミナル、商業施設の複合施設の裏手、朝夕と多くの人が行き交う場所に位置している。
17世紀後半、仲島の大石のあった仲嶋村(仲島村)には首里王府によって遊郭が公的に設置されていたとされている。
沖縄県立図書館、沖縄県立博物館・美術館には1770年頃の古地図が現存しており、デジタルマップ「沖縄・首里那覇港図屏風展」として公開されている。この屏風絵にも仲島の大石は描かれているようである。