おまむ桜碑
【おまんさくらのひ】
長滝白山神社を南に下った、国道沿いにある大きな碑である。周囲には他の石碑や地蔵が置かれてあるが、肝心の桜の木はなく、既に枯死したものと思われる。
元禄の頃(1688~1704年)、小源次という魚売りの若者が長滝に商いに来ていた。1月6日、ちょうど長滝白山神社の花奪い祭の折、小源次は境内で一人の娘を見初める。娘の名はおまむ。長滝にある寺坊の一人娘であった。
いつしか二人は惹かれ合う間柄となった。だが、魚の行商人と寺の娘とでは、言葉を交わす機会を作るのも難しい。何とか年明けの花奪い祭の夜、神社近くの桜の木の下で出逢う約束だけをした。そして小源太はその夜、桜の木の下でおまむを待ち続けた。一方のおまむは、夜半に家を抜け出ようとしたところで親に見つかり、外出を禁じられて部屋に閉じ込められた。そして恋しい人に出会えぬまま一夜を過ごしたのである。
翌朝、桜の木の下で小源次が凍死しているのが見つかった。その話は当然、寺にも伝わった。その日のうちにおまむの姿は寺から消えた。家人が消息を知るのは、小源次が亡くなった桜の木の下で自害して果てたという知らせがあった時であった。
年月が経ち、二人の悲恋は“おまむ桜”の伝承として伝えられ、さらには白鳥の町に続く夏の風物詩である“白鳥踊り”の曲目「シッチョイ」の歌詞として語り継がれている。
おまむ桜の碑なるものが建っています。「おまむ」は、白山長滝寺の寺坊の一つ「蔵泉坊」という坊の評判の娘だったそうです。
「白鳥おどり」の中に「シッチョイ」という演目があります。
♪ おまむ桜の由来を問えば、時は元禄半の頃に、数あるお寺に天台宗に、
そのやお寺にひとりの娘、歳は14でその名はおまむ、隣近所の評判娘。
他所や在所の若い衆たちが、我も我もとおまむを目指す、
ある日一人の若侍が、歳の頃なら19か20、今に伝わる花奪い祭り、
その日おまむを見染めてからは、魚売りにと姿を変えて、
今日も明日もとお通いなさる。
月は流るる水より早く、もはや5年の年月積り、いつか二人の心は通う、
示し合わせて人目を忍び、今宵巳の刻、高五郎谷の、春に花咲く桜の根元、
ここに逢引き約束いたす。
それは長滝祭りの夜で、雪の降る中小源次こそは、兼ねて約束桜の下を、
行きつ戻りつおまむを待てど、ついにおまむの姿は見えず。
唄の続きはこの後あれど、ここらあたりで止めおきまする。
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白鳥おどりの演目は、10ぐらいあるようですが、一つ一つが長いので、
唄手の都合で省略することもあるようです。
そこで続きを載せておきます。
さても哀れや小源次こそは、待てど来ぬ人おまむを胸に、
恋のともしび雪にと消える、遂に帰らぬあの世とやらへ。
闇にまぎれてお寺をいでて、心急くまま桜の根元、
呼べど答えず姿も見えず、そこでおまむは途方にくれる。
泣いて泣きぬれ桜にもたれ、待つも哀れやおまむの姿、
雪に凍えておまむもここに、花の20もそのまま散りて、
伝え聞く人涙を誘う。
後の世までもおまむの桜、いまの世までも話に残る、
さても哀れや小源次おまむ。
白髭神社(しらひげじんじゃ)
愛知県稲沢市祖父江町四貫宮屋敷
四貫の白髭神社は江戸時代の初めごろにできたと言われています。「洪水の前の夜に白いひげのおじいさんが夢枕に立って、村の人にひなんするように注意した」という白髭伝説(しらひげでんせつ)は日本中にあります。このため、大きな川の近くには白髭神社が多くまつられているのです。四貫の白髭神社では、「おびしゃ」という行事があります。
矢をいって、その年の作物のできを占ったり、わざわいがおきないように、健康にすごせるようにもちをまく「もちなげ」を行います。還暦(60才になった人)の人がおもちやおかしをほうのうして、そのおさがりをやく年の人がまきます。子どもも大人も参加する行事です。
参考資料
1)『祖父江町史』P.69 P.72
地泉院 (じせんいん)
愛知県稲沢市祖父江町神明津231
神明津の地泉院は奈良時代からつづくお寺です。安土桃山時代の関ヶ原の合戦のときには、徳川軍が地泉院に一泊し祈願したと言われている尾張徳川家ゆかりの寺でもあります。やねがわらに葵の紋(あおいのもん)があるのはそのためです。地泉院では、11月に十万体地蔵流しが行われます。90年ほど前(1931年頃)に木曽川で渡し舟がてんぷくし、その時になくなった人びとをなぐさめるためにはじまりました。
参考資料
1)『わたしたちのまちそぶえ』P.49 平成8年 祖父江町教育委員会
2)地泉院ホームページ https://jisennin.ehoh.net/#
3)『長岡の昔ばなし第二集 みよ池の里』
水屋〈稲沢市指定文化財〉 (みずや 〈いなざわししていぶんかざい〉 )
愛知県稲沢市祖父江町神明津矢田塚西
神明津には水屋(みずや)があります。水屋は大水になったときにひなんするところです。食べ物や移動のためのふねが用意され、水が引くまでの間、そこで生活をしていました。しかし、こうした水屋は豊かな家の人にしかつくることができませんでした。今では、木曽川に高いていぼうがつくられ、人々の生活を守っています。こう水のきけんが少なくなり、土をもったり、石がきをきずいたりする家はへってきました。むかしはたくさんの水屋がありましたが、今はわずかしかのこっていません。この水屋は安政4年(1857年)にたてられました。災害のときには十数人がひなん生活ができたといわれています。
参考資料
1)『わたしたちのまちそぶえ』P.46 平成8年 祖父江町教育委員会
2)『わたしたちのいなざわ』P.164平成18年稲沢市教育委員会
2)『長岡の昔ばなし 一本松の子ら』
3)稲沢市ホームページ
www.city.inazawa.aichi.jp/miryoku/bunka/shishitei/1002926.html
旧佐屋川野田渡船場跡 (きゅうさやがわのだとせんじょうあと)
愛知県稲沢市祖父江町野田佐屋川
むかしは、木曽川や佐屋川には橋がなく、渡し舟でわたりました。野田(牧川地区)には「野田の渡し」のあとがあります。
佐屋川は、はばが160mもある大きな川でしたが、1900年(明治33
年)にせき止められ、小さな川になりました。今でもむかしのていぼうが牧川地区の島本、野田、中牧、長岡地区の西鵜之本、四貫などにのこっています。
この場所は、旧佐屋川の野田渡船場の跡として祖父江町が昭和50年3月28日に指定しました。
野田渡船場は人の行き来が多かったためキリシタン禁制の「高札」も立っていたと書かれています。
参考資料
1)『わたしたちのまちそぶえ』P.47 平成8年 祖父江町教育委員会
2)『祖父江町史』P.222 , P.487
3)『長岡の昔ばなし 一本松の子ら』
4)『長岡の昔ばなし第二集 みよ池の里』
5)『八開村史 通史編』P.215
6)木曽川下流河川事務所「KISSO VOL.30祖父江町特集号」
https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/KISSO/kobore30.html
史跡 とどめき川 渡船場跡(しせき とどめきが とせんじょうあと)
愛知県稲沢市祖父江町中牧堤外川(給付稲沢線沿い)
「とどめき川」というのは旧佐屋川のことで、中牧村(今の祖父江町中牧)に流れていた木曽川のしりゅうのことです。川の流れる音が「とどろとどろしい」(はげしい流れの音)ため「とどめき川」という名前がついたと言われています。いろいろな説があって、「とどろき川」ともいわれています。「中牧村にあった木曽川のしりゅうは、中牧で分かれて南に流れ、海西郡赤目村でまた大きな木曽川とまじる、その間をすべてとどろき川という。」と書かれています。むかしは、木曽川や佐屋川には橋がなく、渡し舟でわたりました。とどめき川の渡し舟のあととして祖父江町が昭和50年9月19日にこの場所をしていしました。
参考資料
1)国立国家図書館デジタルコレクション 『尾張名所図会 後編巻2 中島郡』P.46 https://dl.ndl.go.jp/pid/764888/1/46
2)『祖父江町史』P.473
3)『長岡の昔ばなし 一本松の子ら』
4)『佐屋川日光川沿道水工図』
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000006-00001977
建福寺
建福寺(けんぷくじ)は、長野県伊那市高遠町西高遠にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
伝承によれば文覚上人(1139年~1203年)が独鈷池付近に開創。 康元元年(1256年)蘭渓道隆(大覚禅師)が立ち寄り、鉾持山乾福興国禅寺(ほこじさんけんぷくこうこくぜんじ)を興した。 のち、武田信玄の帰依により、静岡市の臨済寺から東谷宗杲禅師を招いて中興開山とし、妙心寺派となった。 貞享2年(1685年)、喝道和尚中興、明和3年(1765年)3月24日類焼、安永4年(1775年)少山和尚がさらに中興するも、嘉永4年(1851年)正月19日焼失、安政3年(1856年)に再建した。
武田勝頼が高遠城主の時、武田家菩提所とし、母諏訪御料人を埋葬して乾福院殿という。 さらに次の藩主、保科氏も菩提寺とし、大寶山建福寺と改名。 寛永13年(1636年)保科正之が会津若松藩主となり、移封する際に、鉄舟和尚が供奉して会津にも建福寺 (会津若松市)を創建した。
建福寺の石仏群
本堂への階段へ上る石段の両側および境内には、江戸時代の高遠石工によって作られた45体の石仏がある。45体の石仏のうち、西国三十三観音が33体、延命地蔵1体、願王地蔵1体、六地蔵6体、不動明王1体、楊柳観音1体、法陀羅山地蔵1体、仏足石などがある。
桂泉院
現在は田中の里にあるが、最初は法憧院曲輪にあった。開山は月哺禅師で、正平8年(1353)に時の城主であった高遠太郎家親が月哺禅師の高徳を聞き、城の鎮護の寺としたと言われる。その後、文禄元年(1592)に上野国松井田の補陀寺の住僧であった荊室広林が来て、どんな人でも出入りができる城外に移すよう勧め、清い泉の湧き出る桂の木の傍にうつして、龍澤山桂泉院と称するようになった。
梵鐘は県宝であり、勘助桜、仁科盛信の位牌堂、武田信虎の墓が伝えらえれ、守屋貞治の石仏などがある。
美篶刈る信濃の国上伊那の郡その名も高遠の里なる、龍澤山桂泉院の由緒をたづねまいらするに、今を去ること云々。
九七代後村上天皇の代丹波の国曹洞宗永澤寺の名僧月浦和尚、正平八年(1353)高遠の地に遍歴して来る。城主は木曽義仲六世の孫木曽又太郎家村の嫡子高遠太郎家親、和尚の高徳を聞き、城内に宝冠釈迦如来を安置し高遠城鎮護の寺とし、法瞳院と称す。開山月浦和尚、開基高遠太郎家親なり。
正親町天皇の天正元年(1573)甲斐の国主武田信玄の五男仁科五郎盛信公城主となり、板町村沖の平に存す諏訪大神を信仰し城内に遷宮、法腫院の僧に大神のお祭りも行わせる。
天正十年(1582)織田勢の攻勢により、仁科五郎盛信公の霊を弔い、霊牌を同院に納め。蒼龍院殿源晴清公成嶽建功大居士と血脈を誼号す。後陽成天皇の文禄元年(1592)二月二十九日群馬県松井田の大泉山補陀寺の十二世荊室廣琳大和尚高遠の地に来て法幡院に住す。その時の城主は内藤修理亮昌月で内藤修理信豊の子で和尚とは兄弟なり。これより大泉山補陀寺の末寺となる。
和尚の徳を仰ぎ、近隣の人々集まりしも城内にて誰でも白由に出入りできず、法化もできないので板町村龍ケ澤に庵を設けて住す。ある夜年たけたる翁ありて、戒法を授けてくださるように請い奉る、そこで「百丈野狐」の戒法を授けたところ、翁忽ち白龍となり桂ケ池のほとりに現れて、法施に清らかな泉を出しましょうと、高遠三泉の一「桂井の水」が湧きでて現在にいたる。和尚の高徳を聞き、城主昌月公村民とともに法腫院の堂宇を龍ケ澤に移し、その所の名をとりて、龍澤山桂泉院と命名す。
慶長五年(1600)三月二十九日である。中興開基内藤修理昌月。中興開山荊室廣琳大和尚。その後歴代の高遠城主に信仰され、十一月二十五日を開山忌とした。城主が参拝に来られるので、庫裡の書院の間を一段と高くし、高遠八ケ寺の一となり、高遠城鎮護の寺となる。内藤駿河守頼寧公より田地を与えられた。伊那市美篶洞泉寺・長谷村非持正随寺を末寺とす。
日輪神社
鎮座地 丹生川町大字大谷宇漆洞五六二番地
祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)・倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ 稲荷)・火武主比大神(ほむすびのおおかみ 荒神)・奥津日子大神(おきつひこのおおかみ 荒神)・奥津比女大神(おきつひめのおおかみ 荒神)・菅原道真公(すがわらみちざねこう 天神)
由来 当社は創立年代は不詳であるが山そのものが御神体として崇敬が暑く第百二代後花園天皇の永享年間(皇紀二〇八九~二一〇〇、西暦一四二九~一四四〇)小八賀郷の領主斯波氏が再興し、社嶺を奉献した。中古以来「日輪」と称し、寛永元年再建し、宝暦四年には現本殿を再営した。明治四十年には区内の稲荷・天満・荒神の三社を合祀した。
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