城郭-12 森ケ城(丹生川町)
『飛騨軍艦』によると天文年間(1532~)に生津信濃守がいて城を構えていた。生津市氏は薩摩の人ともいわれ、森ヶ城の東北の法力地内に屋敷を持ち、生津屋敷の地名がある。生津氏の老臣に大谷蔵人がいて勢力を伸ばしていたが、三木直頼は大谷蔵人をそそのかして生津氏を殺させたが、自身も天文14年(1545)、直頼に打ち取られた。『飛州志』によると永禄年中(1558~1569)、森大隈守がいたといわれる。美濃金山(かねやま)の森氏の一族とされるが、定かではない。大隈守は時代的に考えて三木自綱に攻略されたと考えられる。
森ヶ城は、尾根の先端に位置し、尾根続きを4本の堀切で遮断している。特に内側の堀切は幅15m、深さ8mと規模も大きく、連続堀切となっている。主郭は、東西30m、南北20mの楕円形で、高い切岸を持つ。主郭の北西に二段の小規模な曲輪があり、その先にまた堀切がある。主郭より北東に下る尾根には小規模な曲輪が並ぶ。畝状空堀群があるが、畝の数も少なく、長さも短く比較的小規模である。畝状空堀群があることから、森ヶ城は戦国末期に改修されたと推定されている。
資料
⑦城郭-12 森ケ城(丹生川町)
城郭-11 岩井城 高山市岩井町西保木
岩井城は松洞山の西方の尾根端に築かれている。天然の要害で、平坦部の総長は約80m。主郭の標高は868mで細長い尾根上にある。北側、南側は自然の急斜面になっている。西と東に堀切があり、主郭の北面には腰曲輪がある。また小規模のいくつかの曲輪が東西にある。
南北朝時代、楠和田氏の後裔と称した和田新右衛門尉正武の城と伝わる。正武は室町時代初期頃、滝・生井・岩井の土豪となり、天文の頃(1532~1555)に三木直頼に滅ぼされたか、帰農したか詳細はわからない。城のある岩井町の地名に和田、和田向、和田ヶ洞があり、和田を名乗る家がある。
資料
⑦城郭-11 岩井城
城郭-10 五味原城(丹生川町) 折敷地五味原
「八日町の合戦」があった国府町八日町から荒城川を12㎞ほどさかのぼった丹生川町折敷地五味原に、地元では通称「しろやま」と呼ばれる山がある。急な山道を登り詰めると山頂には二重堀切、腰曲輪、主郭などがある。
必要最小限の防備しか持たないことから、短期間でつくられ、その直後に廃絶された可能性が高いと考えられている。荒城川上流部で峠の向こうの高原郷を防御する位置にあることから、江馬氏の築いたものであるとされている。
反江馬勢力が南から高原郷に進入するには、十三墓峠以外にトヤ峠がある。この城の背後にあるトヤ峠を越えると、江馬氏の領地高原郷に至る。八日町の合戦を前に江馬氏はトヤ峠の守りを固めた上で、十三墓峠から軍勢を率いて八日町へ進入したと推定されている。
<江馬輝盛寄進の鰐口>
五味原城と2.1㎞離れた折敷地住吉神社(丹生川町折敷地)に鰐口があり、銘に「江馬常陸介輝盛 寄進 奉掛住吉神社社頭 永禄三庚申」とあり、永禄3年(1560)江馬輝盛の支配がこの地に及んでいたことがわかる。
資料
⑦城郭-10 五味原城(丹生川町)
城郭-9 梨打城(国府町)
『飛州志』には「同郷(荒城郡)八日町村ニアリ同郡諏訪ノ城主江馬常陸守輝盛持分」と簡単に述べている。飛騨北部の高原郷に本拠を置く江馬氏が、荒城郷を支配し始めたのは意外に古く、15世紀末頃にはすでに支配していたと推定される。
延徳3年(1491)5月、室町幕府は守護勢力によって侵害されている北野社領飛騨国荒城郷を、江馬氏に回復を命じたとされる。このような経緯を経て、戦国時代に入ると江馬氏単独支配の地域へと変化していくのである。
16世紀になっても江馬氏が荒城郷を支配しており、天正10年(1582)小島城を攻めた江馬輝盛が荒木(城)に退いたことが判明する。
この頃すでに梨打城は江馬輝盛によって築城され、江馬氏の宿敵三木氏の領土と隣接する最前線の城として使用されていた。
天正10年(1582)10月27日、江馬輝盛は三木・小島連合軍と戦い、戦死してしまう。翌日には本拠高原諏訪城も小島氏の攻撃によって落城しており、このとき梨打城も落城したと考えられている。
伝承では小島軍が尾根続きから攻めて梨打城が落城したため、江馬軍が大敗したと伝えており、防御態勢は北側の尾根続きを警戒した縄張りとなっていた。
曲輪の周囲に土塁を巡らすケースは飛騨では非常に珍しく、この他は尾崎城にしか残っていない。富山市の論田山城は江馬氏の築城と推定され、やはり主要曲輪の周囲に低い土塁を巡らせている。
所在地 国府町八日町、漆垣内
標 高 749m
比 高 230m
資料
⑦城郭-9 梨打城(国府町)
城郭-8 広瀬城(国府町)
広瀬城は、北飛騨における三木氏の重要な城であった。山林として長い間保存されてきたので遺構の残りがよい。広瀬城はJR飛騨国府駅の南方約1㎞にあって、山上にある規模の大きな山城である。
『飛州志』によると、「田中城旧称広瀬城」という。天文年間(1532~1555)、広瀬左近将監利治によって築城されたといわれている。広瀬氏歴代の居城であったが、城代に広瀬氏の家臣田中与左衛門(田中筑前守)を置いたので田中城ともいわれている。天正11年(1583)三木氏によって滅ぼされた後は三木氏の居城となる。その後、天正13年(1585)金森氏の攻撃で落城した。
平成12年の縄張調査によると本丸には竪堀、堀切、曲輪、土塁、二の丸には、曲輪、竪堀、三の丸には、竪堀、堀切、南出丸には、曲輪、堀切、北出丸には、大手道、曲輪などが見られる。また調馬場跡といわれるところには、竪堀、横堀、曲輪などが見られる。
『飛州志城図』に示す屋敷は、主郭から瓜巣川に向かう山の突出部を均して居を構えたようで、現在は山林となっている。城関係の小字名を拾うと、「まとば」、「木戸口」、「水番屋敷」などがある。
城主広瀬氏は、もと広瀬郷の豪族で、本姓を藤原氏といったが、その系図は明らかではない。早くから広瀬郷を中心として、古川盆地に勢力を張った。天正11年(1583)広瀬山城守宗域は、松倉城主三木自綱に滅ぼされ、三木氏の配下に帰した。
天正13年(1585)金森長近が飛騨へ侵入するに及び三木氏が居城していたこの広瀬城は落ち、自綱は逃げて京都に赴き、三木氏は、以後廃絶した。現在、城の北方向から登って曲輪下の道沿いに、田中筑前守の墓がある。碑面には、「永正13年(1516)8月13日、田中筑前守御霊神」と刻んである。
所在地 高山市国府町名張字上城山、瓜巣字井口
築城時期 永正年間(1504~1521)頃、天文年間(1532~1555)頃
主な遺構 曲輪 堀切 土塁 竪堀 畝状空堀群
標高 622.3m
資料
⑦城郭-8 広瀬城(国府町)
城郭-7 高堂城(国府町)
『飛州志』に「廣瀬瓜巣村ニ在リ利仁將軍ノ後裔廣瀬左近將監利治築之子孫廣瀬山城守宗城兵庫頭宗直居之天正年中三木大和守自綱ニ戦ヒ負テ宗城終ニ討死ス其子宗直ハ城ヲ落テ行方ヲ知ラズト云フ自是三木持分トナル城地圖地理部ニ載ス」とある。平坦な主郭があり、北側・東側・南側に小さい曲輪がいくつかある。広瀬郷に土着した広瀬氏の居城と考えられている。
その後三木氏に広瀬氏は滅ぼされて、高堂城、広瀬城は三木氏の支配下になった。金森氏による飛騨攻めの際、三木氏は広瀬城で迎え撃ったという。
資料
⑦城郭-7 高堂城(国府町)
城郭-6 向牧戸城(荘川町)向牧戸城の戦い
寛正の初め(1460~)、室町幕府第8代将軍足利義政の命を受けて内ヶ島上野介為氏が信濃国松代から白川郷に入って向牧戸城を築いた。白川郷はもとより川上郷、小鳥郷、さらには越中国砺波までを所領とする勢力の拠点とした。
寛正5年(1464)内ヶ島氏は、保木脇(現・白川村)に帰雲城を築いてこれに移り、向牧戸城は家臣の川尻備中守氏信が城主となり、郡上及び高山方面からの侵入に対して備えていた。その後、川尻氏信と息子勘平は、主家を離れて越前大野の金森氏に投じている。
天正13年(1585)豊臣秀吉は越中国の佐々成政を討つため、自ら軍を率いて同年8月8日京都を発った。
飛騨では三木自綱が飛騨国内を統一していたが、越中の佐々成政と結んで、秀吉の命に従わなかったので、秀吉は越前大野城主金森長近に三木氏を討つよう命令した。
白川郷帰雲城城主内ヶ島氏理は三木自綱の配下であったが、飛騨西半を領し中野御坊照蓮寺と結んで、勢力を持っていた。長近はまず内ヶ島氏を討って三木氏の背後を断つため、越前大野を出発した。このとき内ヶ島氏理は越中の一向一揆討伐のため出陣中であった。金森軍は大野出発に際し、石徹白(郡上市白鳥町)の白山中居神社に参拝して戦勝を祈願した。長近の養子可重は、別動隊としてここより美濃白鳥へ討って出て、本道を北上し、鷲見ヶ上野(郡上市高鷲町)から白川郷野々俣村へ軍を進めた。また長近は本隊を率いて別山の裾の峰を越えて、尾上郷(荘川町)へ討って出た。そこから同郷海上・中野・岩瀬村を攻めて向牧戸城に迫った。岩瀬橋にかかった時、内ヶ島氏の武将「尾神備前守氏綱」の激しい迎撃にあって苦戦した。
これより先、三木自綱は吉城郡広瀬郷高堂城にいたが、金森氏侵入の報に接し、急遽精鋭を選んで向牧戸城に送り、その防御を固めた。
向牧戸城の攻防戦は激しく、金森方の遠藤慶直(金森可重の妻の父・遠藤慶隆の弟)および重臣鷲見弥五右衛門が戦死し、遠藤胤安をはじめ多くの将兵が戦傷を負った。8月10日、金森軍は大野出陣以来9日目にしてようやく向牧戸城を攻略している。帰雲城の出城にすぎない向牧戸城の攻略に手間取ったのは、三木勢の強力な援護があったためであろう。三木軍が向牧戸城に布陣していたのだが、誰が総大将になっていたのかはわからない。その後、金森軍は破竹の勢いで飛騨各地を攻略していった。
川尻備中守氏信
向牧戸城城主川尻備中守氏信は、内ヶ島氏の家臣の中でも武勇の武将であった。先祖は近江国の佐々木京極氏の一族多賀氏といわれている。
備中守氏信の子を勘平といい、金森軍の向牧戸城攻略に戦功があったので、長近から101石6斗余の恩賞を賜わっている。
川尻家の墓は向牧戸城跡の麓に4基あり、年号の読み取れるものの中、最も古いものが正徳5年(1715)である。そのうち無名墓1基があって、先祖墓と考えられている。備中守氏信の子孫は帰農して牧戸村に住し、代々名主等を務めていた。明治37年(1904)8代目久三郎の時、北海道に渡った。
川尻備中守と願生寺
荘川村海上(御母衣ダム建設により水没)は白川郷海塩村と称し、嘉念坊善俊の門弟「浄正」隠棲の地といわれる。浄正は、下総千葉介常胤の孫小太郎成胤の次子で、千葉小二郎成正と称していた。
浄正第9世の孫「願誓」の時、向牧戸城城主川尻備中守氏信は、願誓のために海塩村に1宇を建立しこれを聖殿と称した。天正16年(1588)金森長近が高山城を築くにあたり、城北の地に中野村(高山市荘川町中野)の照蓮寺を移したが、この時願誓の子「善恵坊道智」は父と共に高山へ聖殿を移すことにした。長近より灘郷下岡本村(高山市下岡本町)太子堂旧地を賜わり、同17年(1589)7月下岡本村に移った。これを井端道場と称し、現在の願生寺の始めである(『願生寺由来記』)。
資料
⑦城郭-6 向牧戸城(荘川町)
城郭-5 鍋山城
<県指定>昭和31年(1956)11月14日 <管理者>鍋山城跡史跡保存会
<員 数>城郭全体26.937ha <時 代>室町時代(16世紀)
鍋山の名称は、その山の形から起こった。城は三つの山にわたって構築され、大鍋山に主郭、小鍋山に二之郭、下鍋山に出郭があった。
<大鍋山>主郭 標高759mで、麓からの比高173m。中央に「奉敬鍋山権現」と刻んだ石碑があり、ここが本丸とされる。東側と北側に石垣が現存する。
<小鍋山>二之郭 標高746m。巨岩のそびえ立つ自然の要塞で、西南隅に石垣が現存する。この区域は、3段構成になっている。史跡指定の申請時には二之丸とされていた。現地の石柱は出丸の表示。
<下鍋山>出郭 標高720m。七夕岩に続く尾根の頂上に縦75m、横20mの長方形の平地がある。史跡指定の申請時には出丸とされていた。
鍋山城の築城については、室町時代の初頃とする説と、戦国時代すなわち天文年間(1532~1555)とする二つの考え方があるが、前の説を裏付ける証拠がないため、天文年間に三仏寺城から移った鍋山豊後守安室が築城したと一般に考えられている。安室は大八賀郷を領有していた小領主の1人で、鍋山へ移ってから山の名をとって、鍋山氏と称した。
ところが、安室が鍋山城を築いた頃、益田で強大になった三木氏が大野郡にも進出していた。畑佐城の山田氏、天神山城の高山外記は三木自綱に滅ぼされ、安室も三木氏に降り、自綱の弟顕綱を保身のために養子に迎えている。後に安室は顕綱に鍋山城を追い出され、鍋山城は三木氏の城になってしまった。
一方三木自綱は、さらに勢力を増して松倉城を築き、八日町(国府町)の合戦で北飛騨の江馬氏を滅ぼした。天正10年(1582)甲斐の武田氏と通謀したとして、鍋山城の顕綱を殺し、自分の次男秀綱を入れて、天正12年(1584)ほぼ飛騨全体を掌握した。
その頃の政局は、本能寺の変を経て、豊臣秀吉が天下を握ろうとしていたが、三木自綱は佐々氏と組んでこれに従わなかったため、秀吉の命を受けた金森氏の攻撃を受け、天正13年(1585)には滅びてしまった。
飛騨を与えられた金森氏は最初、鍋山城を居城とし、城下の建設にも着手したが、広い土地がなく、交通の便も悪くて城下町を営むのに向かないとして、数年で高山城を建設し、鍋山城は廃城になってしまった。
資料
⑦城郭-5 鍋山城
城郭-4 山下城(一之宮町)
山下城は天正5年(1577)飛騨一宮水無神社の神官、三木入道三澤が築いたという(『宮村史』)。三木三澤は、一宮坪の内(高山市一之宮町)に館を構えていたが、神社の安泰を図るために松倉城主三木自綱の妹と婚を結び、神職を家臣の森某に譲って自ら武門に入り、山下城に移ったという。天正13年(1585)に金森氏が飛騨に侵攻して三木氏が滅亡すると金森可重が山下城に入った。三木三澤は戦わずに逃亡したが、翌月再び蜂起し、その戦いで敗れて討死にした。
<概要>
山下城は、標高920mの尾根上に築かれている。主郭は、西側の尾根を2本の堀切で遮断している。主郭は平坦で、平たい石が並べられているが、城に関わる遺構ではなく、後世の遺構と思われる。
主郭より東に下ると尾根は二つに分かれている。東の尾根の曲輪②は、周囲に低いながらも明瞭な土塁を設けており、隅部は櫓台状を呈している。東南の尾根の曲輪③は、小規模な曲輪が下段にも続いている。山下城から麓に下る際は、尾根がいくつも分かれていて迷いやすい。
資料
⑦城郭-4 山下城(一之宮町)
城郭-3 畑佐城
高山市新宮町狐洞
畑佐城は新宮神社裏手の標高670mの山頂に立地し、上枝地区や、山田城を眺望できる見晴らしの良いところにある。地元では立(たて)壁城(かべのしろ)とも呼称される。
古くから文献などに記載が見られ、『飛州志』では「往古山田紀伊守其後川上縫殿介居之川上ハ天正十壬午年小島合戦ノ時戦死」、また『飛騨国中案内』では「是は城主三木氏城郭なれども其説山田紀伊守在城すと云う」とある。これらから戦国期に山田紀伊守、川上縫殿介が居城したと推測されるが、両者の詳細については明らかではない。一説には、川上縫殿介は江馬氏の家臣といわれている。
南西側から尾根を登る道が大手で、途中に2ヵ所の堀切と②曲輪が認められ、山頂の①-1主郭(本丸)に至る。①-1から北へ尾根上に①-2主郭(二之丸)が広がり、北側外郭に半月状の曲輪、東側には腰曲輪などが見られる。
①-2主郭(二之丸)から南東へ下る「旧赤坂道」と呼ばれる道があり、また、①-2から北方山麓鬼ヶ洞へ下る道が搦手道と考えられる。搦手道途中に「首切り場」と呼ばれる平地があり、「山田紀伊守」一族の処刑場跡との伝承が残る。
畑佐城跡は、中世の山城の性格を十分に備えた城郭であり、遺構の保存状態も良く、飛騨や、高山市の中世史を考える上で重要な城郭である。城跡は地元の新宮文化遺産保存会により大手、搦手などが維持、整備され、文化財めぐりウォークラリーのコースとしても市民に活用されている。
山田城はこの城から1.4㎞離れた場所にあり、標高630m、麓との比高40mで、頂上に小規模の平坦面がある。山田城城主の山田紀伊守は、白山三馬場の一つ、郡上長滝寺の代官だったと伝えられる。
平成9年5月21日 高山市指定史跡 約500×300mの範囲
尾根道、山腹古道 本丸周辺及び腰曲輪
二之丸周辺及び腰曲輪 堀切周辺及び帯曲輪
標高670m、比高70m