飛騨の里-3 飛騨の里・道上家
〈県指定〉昭和50年7月17日(旧所在地 飛騨市宮川町加賀沢・かがそ)
〈時代〉江戸時代末期
桁行17.7メートル、梁間9.4メートル、入母屋造、茅葺、北・南面下屋附属板葺
この家は、越中の国境いにあって、宮川渓谷と越中西街道を隔てて富山県婦負(ねい)郡細入村の西加賀沢集落と相対している。
内部は平入りで、三室広間型を基本としている。「ドジ」に入ると右に「マヤ」、奥に「ニワ」がある。「ニワ」は屋内農作業の場で、板敷床になっている。「オエ」は、三間×四間半と広い。「オエ」の左横には仏壇のある「デイ」、エンのある「オクデイ」がある。中2階は養蚕と一部が居室になるが、人が頭を低くして歩ける程の高さである。
ケヤキ材の豊富なこともあり、太い柱、梁、桁は、幕府の御止木にもかかわらずケヤキを使用している。
内部構造は土地柄、越中の民家と共通性が強く、また外観は、茅葺の妻側を大きく切り取り、兜(かぶと)造りとしている。兜造りは中2階を明るくする民家形式で、山梨や関東など養蚕の盛んな地方に多く見られる。左右両側には、板葺の下屋を設け、左は懸崖造りとなっている。
昭和45年10月から翌年3月にかけて、民俗村へ移築された。また、昭和59年10月から翌年3月にかけて、建物全体のゆがみを修復するため、解体修理工事を行っている。
資料
③飛騨の里-3 飛騨の里・道上家
飛騨の里-2 飛騨の里・匠神社
飛騨の里構内の山側に、飛騨匠を祀(まつ)った匠神社がある。石段や狛犬、本殿、それを覆う「覆殿(おおいでん)」の建物で構成されている。
本殿は飛騨市河合町保(ほ)にあった「鈿女(うずめ)神社」の建物で、下小鳥(おどり)ダム建設により昭和44年に移転された。鈿女は天(あま)の岩屋戸の神話に出てくるアメノウズメノミコトで、芸能の神様と言われる。
また、覆殿は同市宮川町加賀沢(かがそ)の白山神社拝殿を、狛犬は丹生川から、石段は鈿女神社から移されていて、各地の神社の貴重なものが再び息を吹き返している。
覆殿は高山地域の拝殿と形態が違って、背が高くて立派な建物。天井は四角い枡で区切られた「格天井」になっていて、移築してから板に絵が施された。元名誉館長長倉三朗の提案で、42人の画家、絵師、職人によって、植物、樹木という一つのテーマで描かれた。
吉川菊麿、守洞春、松山文雄、長倉三朗、玉賢三、小鷹ふさ、袖垣治彦、岩島周一らが生き生きとした花を描き、高山の美術家の殿堂になった。匠神社の内部は絵画保存のために毎年6、11月の2回の期間限定で公開されています。
戸の窓は千鳥格子になっていて、匠神社の名にふさわしい伝統技術を取り入れている。高山市八軒町の岡本俊二氏の作。
昭和45年、下小鳥ダム建設により鈿女神社は、粟原神社(保地内粟屋谷)、白山社(舟原地内小川)とともに飛騨市河合町新名の白山神社に合併合祀された。
昭和45年7月5日、水没地保小学校で住民最後のお別れ会があり、保・舟原の両地区の住民589人、124戸は住み慣れた故郷に別れを告げた。
資料
③飛騨の里-2 飛騨の里・匠神社
飛騨の里-1 バッタリ小屋、水車小屋
水を利用し、天秤のように動く唐臼を、飛騨地方では「ばったり」という。杵が上げ下がりするときに出る「バッタバッタ」という音から名づけられたという。
米や稗をゆっくりと精白する臼で、少しの水でも動く。このバッタリは高山市荘川町三尾河(みおご)にあったもので、臼を二つ使って能率を上げるようにしている。ゆっくりと米や稗をつくバッタリの音は、山間ののどかな風情を感じさせてくれる。
資料
③飛騨の里-1 バッタリ小屋、水車小屋
天領時代-5 江名子川に架かる橋・下流からその2
金森氏は高山城下町をつくる際、東側の防御として自然の河川の江名子川を掘とした。空町と呼称される武家屋敷の場所東側を流れていて、北流する。
江名子川は、神通川水系の 1級河川で、豪雨時の水量が近年多くなり、河床の掘り下げ工事が行われ、深い川になっている。
川沿いに色彩舗装がなされて歩きやすい雰囲気になっていて、春の桜がきれいである。
資料
②天領時代-5 江名子川に架かる橋・下流からその2
天領時代-4 江名子川に架かる橋・下流からその1
金森氏は高山城下町をつくる際、東側の防御として自然の河川の江名子川を掘とした。空町と呼称される武家屋敷の場所の東側を流れていて、北流する。金森氏は現在の左京町辺りで西方向に河川を切り替えている。その位置の方が北方向の防御ラインとして完全であった。
江戸時代、江名子川には日下部家の南側、京屋の南側、また平湯への街道、武家の菩提寺・東山寺院群、江戸への街道方面に小さな橋があった。
時代を経て小規模の橋が増えているが、歌舞伎の役柄の橋名称がつけられている。
資料
②天領時代-4 江名子川に架かる橋・下流からその1
天領時代-3 五ケ村用水取り入れ口
五ヶ村耕地用水路は、五ケ村用水堰堤の左岸側から取り入れられ、大野郡花里村、西之一色村、上岡本村、下岡本村、七日町村の五ヶ村の農業用水であった。明治6年には森佐兵衛らがこの用水を使って織る洋式製糸場を花里村に建て、80人が雇われている。
また五ケ村用水堰堤の右岸側から取水される神明用水の方では、明治21年、永田吉右衛門が水力による三星織工場を開業した。
宮川の五ケ村用水堰堤の左岸で取水した用水は、現在も花里町、高山市役所辺りを流れて苔川に合流する。
資料
②天領時代-3 五ケ村用水取り入れ口