県指定・中薮家
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 大野郡宮村山下)
〈時代〉江戸時代中期以前
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行14.9m、梁間11m、切妻造、板葺、北・南面下屋板葺、西面庇付属板葺
中藪家は、JR飛騨一之宮駅の西側にある山下にあった。田中家や野首家と似て軒高が低く、勾配は緩い板葺石置屋根である。飛騨地方の中央部にある民家の特徴を持ち、土座生活の名残りを留めている。建築年代は明らかでないものの、たちが低く、柱に蛤刃、釿痕、その他古い仕口などを残しており、江戸中期以前ともいわれている。
内部は、入口の障子戸から入ると狭い「ドウジ」があり、すぐ広い土間の「オエ」、奥には「ニワ」がある。「オエ」の真中に石で囲んだ囲炉裏があり、「オエ」の前側正面には、両引きの板戸が立てられている。「ニワ」と「オエ」との境界には、一般的な境らしきものはない。また「ザットナデ」と呼ぶ柱が、入口に近い位置にある。明治の末年に「デイ」と「オク」に幅3尺の廊下がつけられ、「オエ」は板敷に改造されたが、移築を機に「オエ」の板敷をはずして土座に復元した。「ニワ」には、穀物をつくように唐臼が常時置いてあった。
馬屋は本屋に取り込まれ、水屋は入口の前にある。
外観は、なだらかな勾配の榑板葺屋根で、冬間近には、屋根の置石はすべて棟上へ集められる。昭和45年11月から翌年6月にかけて、現在地へ移築された。
参考文献
『高山の文化財』42~43頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-2 県指定・中薮家
資料集
017_226_中薮家
県指定・新井家
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村構内
(旧所在地 大野郡清見村池本)
〈時代〉江戸時代後期
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行15.8m、梁間10.9m、切妻造平入り、板葺、南面下屋付属板葺
この家は、高山市の西に隣接する清見村池本の小鳥川沿いにあった。背後に山が迫り、狭い水田の間にあった。建築時期は江戸後期と推定され、明治43年に4寸の垂木に取り替え、2mの積雪にも耐えられる屋根に改造している。
間取りは、広い「オエ」を中心に「ニワ」、「ダイドコ」、「チョウダ」、「ブツマ」、「デイ」を周りに配する。前側は広い「エンゲ」となり、「マヤ」は家の中に取り込んでいる。雪が多く寒い地方にあって、馬が家族同様に大事にされていたことがわかる。「ブツマ」には仏壇と床があるが、この部屋の鴨居には蛤刃釿の痕がある。オエから階段を昇ると、2階は広い1部屋の空間となる。簀子床で、蚕が飼われていた部屋である。
外観は低く、どっしりとした感じを与える。構造は、1間毎に梁をかけて束を立て、母屋を支えている。飛騨の里へ移築後、屋根を改造し、煙出しをつけ、部屋の換気を考えた。小庇にはムクリ破風をつけているのが目につく。榑(くれ)板葺建物の標準的形態を持つ。
昭和45年11月から翌年6月にかけて、民俗村の現在地に移築された。平成2年に榑板屋根の葺替を行なっている。
参考文献
『高山の文化財』36~37頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-1 県指定・新井家
資料集
016_225_新井家
国指定・荻町(白川村)
白川村を「下白川郷」、荘川地域を「上白川郷」と呼んでいた。今は白川村のみを指すことが多い。
白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる。独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定、1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。白川郷の荻町地区は、今も実生活の場として使われているところに価値があり、それが他地域の合掌民家集落と違うところである。
⑴ 重要伝統的建造物群保存地区 保存地区面積45.6ha
①伝統的建造物124件
・建築物117件
合掌造家屋109(合掌造主屋59、付属建物46、宗教建築4)、
非合掌造家屋8、
・工作物7件、
②環境物件8件
合掌造家屋は59棟あり、幕末から明治時代の初頭にかけて建築されたものがほとんどである。合掌造は切妻[きりづま]の茅葺屋根に特徴があり、この地域が豪雪地帯であることから屋根は急勾配になっている。また、養蚕のため屋根裏を2〜3層、規模の大きな家屋では4〜5層に造って効率的な利用をしていた。さらに荘川に沿って吹く風の抵抗を少なくするため、妻面を南北に向けて建てており、立ち並ぶ様は、見る者を圧倒する。
地区内の施設
◇和田家住宅 – 国の重要文化財
◇明善寺 – 庫裏と鐘楼門は県の重要文化財となっている。
◇明善寺郷土館
◇長瀬家住宅
◇神田家住宅 など
関連資料
1-1-15 国指定・荻町(白川村)
資料集
015_224_荻町
史跡江馬氏館跡公園 国史跡江馬氏城館跡 下館跡
この公園は、今から400~600年前の室町時代から戦国時代に、北飛騨を治めた武将の江馬氏が築いたと考えられる館跡の一部を復元したものである。
江馬氏は平氏の一族、あるいは鎌倉幕府執権北条氏の一族であったとも言い伝えられているが、その出自は明らかではない。室町時代には幕府の認める有力在地領主としてこの地を治め、戦国時代には周辺の戦国武将の武田氏や上杉氏と、また飛騨の覇権をめぐり南飛騨の姉(あね)小路(こうじ)氏、三(みつ)木(き)氏などと争い、あるいは同盟を結ぶこともあった。天正10年(1582)、時の領主であった江馬輝(てる)盛(もり)が姉小路(三木)自(より)綱(つな)に敗れ、北飛騨の領主としての力を失った。
発掘調査により、下館は14世紀末~16世紀初め頃まで使われていたことがわかった。館は東側の山を背に、北・西・南を土塀と堀で囲んだ方約1町(約100m四方)の規模であり、館の正面となる西側に2ヶ所の門を、その邸内には礎(そ)石(せき)建物や庭園が設けられていた。
館の周辺は、道や板塀で敷地を区切り、そこには掘(ほっ)立(たて)柱(ばしら)建物、竪(たて)穴(あな)建物などが建てられていた。
この公園で、500年前にこの土地で暮らした武将の生活の一端、その気分が体験できる。
礎石建物:石を基礎において柱を立てる建物
掘立柱建物:地面に掘った穴に、柱を埋めて立てる建物
竪穴建物:方形に掘りくぼめた床面に柱を立て、地面まで屋根をかけた建物
公園では、15世紀後半~16世紀初め頃の館の一部が復元されている 復元建物:会所、主門
土塀(西側・南側の一部)
庭園北側板塀
復元遺構:庭園、堀(北堀・西堀)
説明板より
関連資料
1-1-14 史跡江馬氏館跡公園 国史跡江馬氏城館跡 下館跡
資料集
014_223_江馬氏館跡庭園
旧大戸家住宅
国指定重要文化財(建造物) 昭和31年6月28日指定
この旧大戸家住宅は大野郡白川村から昭和38年に原型のまま移築された。建物の大きさと独自の構造は、大家族制度を代表する合掌造りの建物である。
建築は、天保4年(1833)~弘化3年(1846)の13年間をかけて造営された。建物の規模は、桁行21.4m、梁間12.27m、棟高13.0m、形式は、切妻、茅葺、内部4階建となっている。
建築の特徴は、釘やかすがいをまったく使わず、素縄やネソという木材で組み立てられていることである。
資料によれば、合掌造りは、平家の落武者が奥飛騨の白川郷に住みつき、編み出した建築方法である。
説明板より
関連資料
1-1-13 旧大戸家住宅
資料集
013_222_大戸家
指定天然記念物 治郎兵衛のイチイ
国指定 平成6年1月25日
所有者 鈴木治幸
このイチイは、推定樹齢2千年以上といわれ枝張りは13メートルにおよび、その胸高での幹周りは7.95メートル、樹高は15メートルの巨樹で、昭和63年度環境庁の巨樹巨木調査イチイの部で日本一に認定された。
鈴木家では、この地方の風習に従って墓標として先祖代々守り育てられ、屋号を治郎兵衛と称したことから、治郎兵衛のイチイと呼ばれている。
平成10年3月
荘川村
荘川村教育委員会
説明板より
関連資料
1-1-12 国指定天然記念物 治郎兵衛のイチイ
資料集
012_221_治郎兵衛のイチイ
国指定・田口家
〈国指定〉昭和52年6月27日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村(飛騨の里)構内
(旧所在地 益田郡金山町卯野原)
〈時代〉文化6年(1809)
〈員数〉1棟 7冊 置石2個
主屋(1棟)桁行25.2m、梁間13.3m、切妻造、4面庇付、南面突出部付属、鉄板葺
附 普請文書(7冊)
家普請杣木挽大工日記帳(文化5辰年2月2日)
家造作杣方木材帳(文化5辰歳2月2日)
家木山取覚帳(文化5年辰乃2月2日)
家木杣衆木取帳(文化5年辰之10月5日)
家木出シ方人足之覚帳(文化5辰年小10月22日)
大工木挽日数覚帳(文化5辰年11月29日)
家普請見舞貰ヒ覚帳(文化6巳年正月日)
旧屋根置石(2個)文化6年2月の記、28日の記が墨書き
田口家は、飛騨と美濃の国境に位置する金山町卯野原という部落にあった。代々庄屋をつとめた農家で、集会に利用されたため部屋数が多い。小さい囲炉裏1つ、長方形の大きいものが2つ設けられ、来客の用にこたえる間取りとなっている。
建築の記録に、文化5年(1808)から翌6年にかけて材木の伐採から完成祝いまで記録された普請帳が7冊と、文化6年の墨書がある古い屋根置石がある。これらの普請帳には、出役の記録や資材代、人足賃の支払記録、材木の木取記録などが詳細に記録されている。
間口は14間半、奥行7間と大型の農家で大屋根の軒の出は浅い。金山地区は美濃と飛騨の国境にあるため、両者の特徴を合わせた様式となり、田口家はその典型といわれる。飛騨の農家は、縁も「マヤ」もすべて1つの大きな屋根の内側に収め、その軒の出は深く、形ばかりの庇をその下に取り込む。濃尾の農家は広い土間を持ち、錣(しころ)状に四方へ張り出した大きな庇が広い下屋をつくり、外周は土壁、整形の間取形式を採用する。田口家の土間は濃尾のように「通りニワ」で裏口に通じるが、「ダイドコ」を広敷状に張り出して、「ニワ」の面積を狭め、板張りの「ウスニワ(作業場)」を設けている。2階は全体が広大な養蚕部屋で、間仕切はないが、「ナンド」を上ると外から見えない落し座敷(隠し座敷)がある。
比較的温暖な飛騨地方最南端にあったため、雨戸の外に廊下があり、また積雪が少なかったため雪の重みに弱く、民俗村へ移築後積雪で裏側の梁が折れてしまったことがある。
参考文献
『高山の文化財』20~22頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-11 国指定・田口家
資料集
011_220_田口家
国指定・若山家
〈国指定〉昭和52年6月27日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村構内
(旧所在地 大野郡荘川村下滝)
〈時代〉宝暦初年(1751)
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行17.1m、梁間12.5m、1重4階、切妻造、茅葺、西面及び南面庇付属、板葺
荘川村に2軒あった合掌造りの1つで下滝にあった。電源開発による御母衣ダムの建設により水没するため、昭和34年、現在地へ移されている。
若山家は荘川造りといわれる入母屋造りから、白川村の合掌造りに移行する唯一の建物である。外形は白川村の合掌造りだが、小屋組は荘川式の入母屋造りに近い構造をしており、その他にも両様式が共存する点が多い。建築年代は高山の大工によって宝暦初年(1751)に建てられたと伝承はあるが、構造手法から18世紀末頃ともいわれる。
間口は9間半、奥行は6間半と奥行が深く、4階建て、背面に1間通りの下屋を設ける。平面は棟通りの約半間後方で前後に分かれ、それぞれ4室ずつに間仕切る。前側の下手3間分を土間とし、広い「ウマヤ」「コウマヤ」を設ける。土間の上手は前1間通りを「ドウジ」と「エンゲ(縁)」とし、その後ろは下手より取次や廊下の用に使われた「シヤシ」、接客や男の居間寝室の「オエ」、寄り合いに使われた「スエノデイ」と並ぶ。「エンゲ」には若い女の寝所にあてられた中2階を設け、梯子(はしご)段で昇降する。後側は下手より穀類の調整場「ウスナカ」「ダイドコ」「チョウダ」、家長夫妻の室である「ナカノデイ」の4室が並ぶ。背面1間通りは下手より炊事場の「ミンジャ」、女の寝室の「オクノチョウダ」、仏間の「オクノデイ」と並ぶ。「ミンジャ」はさらに背面に1間半張り出して「ナガシ」と「フロ」を設ける。「オクノデイ」は背面に1間の仏壇がついているが、これは現在地に移築した際、設けたもので、以前は東面にあった。構造は正面を船枻(せがい)造り(側柱上部から腕木を突出して小板を張った棚を持つもので、組頭・名主層以上にしか許されなかった)としている。合掌は「エンゲ」を取り込んだ最も外側の柱列の上に組まれた素屋造りである。背面に1間半の葺下し屋根が加わっている。
荘川村にあった当時は、北流する荘川の西河岸の下滝という扇状地にあって、若山家の他に5軒で1つの集落を構成していた。屋敷地は川に向かって緩く傾斜し、東面する主屋を中心に味噌小屋、板倉、便所、ハサ小屋、田畑等が周辺にあった。
参考文献
『高山の文化財』22~24頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-10 国指定・若山家
資料集
010_219_若山家
国指定・吉真家
〈国指定〉昭和52年6月27日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村構内
(旧所在地 吉城郡河合村角川)
〈時代〉安政5年(1858)以前
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行13.9m、梁間9.4m、入母屋造、茅葺、南面下屋付属、板葺
吉真家は角川(つのがわ)にあったが、ここは宮川と小(お)鳥(どり)川の合流するところで河岸段丘になっている。中央部に南面して建てられ、安政5年(1858)の角川地震以後、礎左衛門が小鳥川上流の「保(ほ)」から移築した。昭和45年11月から半年かけて現在地の飛騨民俗村へ移築している。
この家は、飛騨でも有数の豪雪地帯にあり、また角川地震にも耐えてきただけに、どっしりとした土台、太い柱や梁、桁を用い、構造は簡潔で規則的である。また広間型3間取りの平面や、妻が大きい点では富山県の民家と似ている。
内部は、中央部「オエ」の大広間を中心に「デイ」と「ネドコ」が居室部となり、反対側に「マヤ」と「ニワ」があるという3つの構成になっている。「ニワ」は囲炉裏を切り、作業空間としての役割と炊事場の役割を持っていた。「マヤ」は家畜の排泄物を集めて肥料としたため、地面を低く掘り下げている。広い2階は養蚕の室として使っていた。
構造は特徴ある架構で、左右側面、特に4隅にあたる柱が「のぞき柱」(むかい柱とも呼ぶ)によって構成される。これは宮川、古川、国府、河合の各地に例が多くある。通常、上屋と下屋の構造柱を別々に立てるが、この家は下屋部に曲がった柱を立て、この曲がった柱の上部で上屋の構成をさせるというものである。この太い柱は栗の股木を使う。
屋根は破風のコロビ(傾き)が強い入母屋造りで、破風口は広く、開口部にムシロを吊るしてある。棟の両端には、中央に「かたもたせ」を高く立て、茅を崩れないように止棒を差す。
参考文献
『高山の文化財』24~26頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-9 国指定・吉真家
資料集
009_218_吉真家
史跡 堂之上遺跡
所在地 岐阜県高山市久々野町大字久々野字堂之上2270番地
史跡指定 昭和55年3月24日(文部省告示第47号)
本遺跡は、古く明治・大正時代からその存在が知られていたが、学術調査も行なわれることなく、また破壊もされず畑として耕作されてきた。
昭和47年久々野中学校郷土クラブ員により遺跡の一部が発見されたため昭和48年から昭和54年までの7年間にわたり岐阜県教育員会・久々野町教育委員会の発掘調査が行なわれた。
この結果約75アールの小舌状台地にほぼ完全に残されている縄文時代前期から中期(約5,500年~4,000年前)の集落跡としての様相が明らかにされた。
集落の形態は、台地中央部に土壙群が存在し、それを取りまく形で住居群が台地縁辺部に分布している。
出土品は縄文土器を主体として、石器・土製品・自然遺物等が住居址及び土壙包舎層中より大量に発見された。
遺跡・建物の内容は広く西日本・東日本各地の文化の影響・手法の伝播が認められ、縄文時代の研究に興味ある多くの知見を得ることができた。
本遺跡は往時より今日まで地形の変化を殆んど受けず、典型的な縄文時代集落跡の姿をよくとどめており、学術上重要な遺跡として認められ、国の史跡に指定された。
昭和56年から昭和57年の2年間にわたって文化庁・岐阜県教育委員会の指導援助により、復元整備を行ない史跡公園として永く保存し後世に伝えるものである。
発見された遺構
縄文時代前期住居跡 9軒
縄文時代中期住居跡 34軒
土壙群 約150箇所
昭和57年11月 高山市教育委員会
説明板より