【リンク】Web版飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ
飛騨高山は遥か昔から山々に囲まれた地であるため、古来より木工が盛んな場所として伝わっています。「飛騨の匠」とも呼ばれるこの地域の木工技師は、優れた技能を持っているとして、古くから語り継がれています。
その最たる例として、奈良時代には律令国家の時代にはその匠の技術を買われ、飛騨国のみが課せられた「匠丁」という税が挙げられます。これは、米や布を納める税を免除する代わりに、寺社仏閣を建てるための人員を飛彈国から出すように、というものでした。
また、日本最古の歌集である、万葉集にも飛騨の匠が出てくる歌があります。
かにかくに 物は思はじ 飛彈人の 打つ黒縄の ただ一道に(11巻2648)
(現代語訳:あれこれと浮気はしません、飛彈の匠が打つ黒縄が一直線であるように、一筋に道を行きます)
この歌は、飛騨の匠が黒縄で付けた真っ直ぐな線と、作者の真っ直ぐな恋心をかけたものとなっています。このように、飛騨の匠は真っ直ぐな線を引ける腕の良い職人だと、都の人々も考えていたようです。
飛騨の匠の技術は、今日まで受け継がれています。
例えば飛騨の伝統工芸品である飛騨春慶塗りや一位一刀彫などは、国の伝統工芸品に指定されていて、今でも高品質の製品として取引されています。
また、江戸時代の職人の技術が生きる高山祭の屋台は、国の重要民俗文化財に指定され、祭りは例年観光客で賑わっています。
他にも「飛騨の家具」はブランド化し、日本だけでなく海外でも人気を博すほどとなっています。
このホームページでは、それらの飛騨の匠の技術の一部を紹介するため、制作されたものです。
【冊子】飛騨一之宮ものがたり
– 目 次 –
表紙
0表紙
ご利用にあたって ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
ご利用にあたって
飛騨一之宮ものがたり ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6
Ⅰ わたしたちの飛騨一之宮
1.土地と気候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
2.飛騨一之宮の生い立ち ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
わたしたちの飛騨一之宮
Ⅱ 水
1.宮川の源流と分水嶺
(1) 水のふるさとを訪ねて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
(2) 水のあるくらし ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
2.川のゆくえ
(1) 源流から日本海 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
(2) 川の移り変わり ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
水
3.宮川と昔話
(1) 座禅石 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
(2) バイガモ(梅花藻) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
4.「あじめ」を守る ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
Ⅲ 木
1.ツメタの大イチイ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
2.水無神社の大杉 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
3.臥龍桜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
4.松
(1) 苅安峠の松 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
(2) ヌクイ谷の赤松 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
木
Ⅳ 道
1.位山古道
(1) 位山古道の整備 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
(2) 位山古道の地図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
(3) 位山匠の道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
2.J R ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
3.国道41号線
(1) 宮 峠 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
(2) 宮トンネル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
道
Ⅴ 祈り
1.飛騨一宮水無神社
(1) 起源と祭神 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
(2) 歌碑 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
(3) 歴史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
(4) 笏木の献上 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
(5) 例祭神事 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
祈り
2.飛騨一之宮の祭り
(1) 神事芸能の伝承 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
(2) 飛騨生きびな祭り ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
(3) 闘鶏楽 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
(4) 神代踊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
(5) 獅子舞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
3.大幢寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
4.巨 石 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
祈り
Ⅵ くらし
1.むかしのくらし
(1) 縄文時代の遺跡 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
(2) 両面宿儺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
2.飛騨一之宮の伝統と技
(1) わたしたちの町の伝統工業 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
(2) 飛騨の宮笠(一位笠) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
(3) 伝わる技術とささえる条件 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
(4) 伝える技術と問題点 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
くらし
(付録)
◆位山古道散策マップ
飛騨一之宮ものがたり冊子
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Web版 飛騨一之宮ものがたり
弥八地蔵尊
弥八地蔵の由来は諸説あるが、戦国時代、織田信長の家臣加賀野井駿河守重信の子弥八郎が、埋葬地として開いたのが始まりといわれる[1]。
この地は「弥八三昧(やはちざんまい)」と呼ばれ、慶長十四年(1906年)の大久保石見守の検知では、東西百二十五貫、南北九十四貫の範囲であった[2]。安永四年(1775年)頃には、岐阜町、小熊村、今泉村、上加納村の共同墓地で、尾張藩の御仕置場でもあった[3]。
戦前は、若宮町通りは狭く、置屋もある色町であった。女性の参拝者が多かった。1940年(昭和15年)頃は立像ではなく、寝釈迦が本尊だったと伝えられている。 1945年(昭和20年)の岐阜空襲の時、鐘は供出し、木造の鐘つき堂も消失する。まだ、焼け野原だったころ、浮浪者が大勢境内で寝起きしていた。柳ケ瀬の人々からプランが持ち上がり、劇場の舞台づくりの経験がある柴田光次郎が、工事を引き受ける。10メートルあまりのそびえ立つ地蔵が1か月で完成したが、中は木箱で空洞であった。繁華街のシンボルとなり、主として花柳界の人たちが商売繁盛を祈った[3]。子安地蔵や、力地蔵水かけ地蔵など色とりどりの地蔵があり、朝から参拝の人が絶えず、毎月24日のお地蔵さんの命日はとりわけ参拝者が多かった[4]。
1994年(平成5年)、竜宮の形の楼門が建設された。設計は司設計事務所、施工は坂口組。
道三塚
住宅地の一角を占める形の道三塚は、その名の通り、戦国時代に美濃を治めた斎藤道三を祀る塚である。元は、織田信長父子の墓のある崇福寺の近くにあったのだが、長良川の氾濫でたびたび流されるために、天保8年(1837年)に斎藤家の菩提寺の住職がこの地に移転させたものである。その後周辺は住宅地の密集する土地となったが、塚は移転されることなく、崇敬の対象となっている。一介の商人から身を興して美濃一国の太守となった道三であるが(最近の研究では親子二代の覇業とされる)、その最期はあっけないものであった。天文23年(1554年)、道三は家督を嫡男の義龍に譲って隠居する。その直後から二人の仲は険悪となり、義絶するに至る。その理由は、義龍は実は実子ではないために道三が廃嫡を考えていたとも、長年にわたる国盗りの強引な手法によって家臣団が強制的に道三を引退させたためとも言われる。いずれにせよ、翌年には義龍は、道三が可愛がっていた弟2人を殺害して、明確に反旗を翻したのである。
そして弘治2年(1556年)、道三と義龍は長良川を挟んで対峙する。その兵の数は、義龍1万7千に対して、道三は3千足らず。多勢に無勢の中で、道三は討ち取られる。かつての太守は、脛を薙ぎ払われた後に首を切り落とされたとされる。その際、複数の者が同時に襲いかかったために一番槍争いが起こり、証拠として鼻をそぎ落とされたともいう。享年63。
鷺山城
鷺山城(さぎやまじょう)は、現在の岐阜県岐阜市にあった平安時代末期または鎌倉時代から戦国時代にかけての日本の城である。標高68mの鷺山の山頂にある。麓には福光御構(蝉土手城館)が築かれていた。
鎌倉時代の文治年間(1185年 – 1190年)、佐竹常陸介秀義が築城する。
室町時代、美濃国守護大名である土岐氏が文和2年(1353年)に川手城を築城するとその支城となったとされる。
永正6年(1509年)土岐政房の命で斎藤利綱が福光御構の普請を行っており、川手城から鷺山城に美濃守護所が移された。
永正16年(1519年)に土岐政房が死去すると、政房により追放されていた土岐頼武と守護代・斎藤利良は越前国の大名朝倉孝景の支援を受けて、福光御構、鷺山城、池戸城を落とし、福光御構に入った。大永5年(1525年)には、頼武の弟・土岐頼芸に鷺山城が占拠され、翌年迄に頼武は鷺山城を奪い返している。この内訌は享禄3年(1530年)まで続いたが、長井長弘や長井新左衛門尉(斎藤道三の父)に支援された頼芸方が勝利し、頼武は大桑城に入っている。
天文元年(1532年)頼芸は枝広館(現:長良公園)に移ったが、天文4年(1535年)の大洪水により枝広館は流された。 なお、同年には斎藤道三と小見の方(明智光継の娘)との間に濃姫が生まれて[1]、1548年(天文17年)、道三が家督を息子の斎藤義龍に譲ると鷺山城に隠居し、濃姫は天文18年(1549年)2月24日にここから尾張国の織田信長に嫁いだ[1]ので、鷺山殿と呼ばれている。
しかし義龍は、道三が義龍の弟(斎藤龍定)に名門一色姓を名乗らせたことから、弟に家督に譲るつもりと思って、1555年(弘治元年)、道三を鷺山城から追放する[1][2]。翌1556年(弘治2年)、義龍は道三を攻め滅ぼし、これを討ち取った(長良川の戦い)。この戦いの後、鷺山城は廃城となったとされる。
加納城
慶長5年(1600)、関ケ原の合戦に勝利した徳川家康が、西に備えるための要衝として、本多忠勝に城を築かせたのが加納城の起源とされるが、それ以前に、この地に上加納城があったとする説もある。城郭は、本丸・二の丸・三の丸・厩曲輪・南曲輪を備え、岐阜城から天守閣を移築するなどして、櫓・城門・居館等を整えたという。当時の城としてはかなりの規模の平城で、慶長6年(1601)奥平信昌が10万石の城主として、この地に封じられた。その後城主はたびたび交代したが、宝暦6年(1756)に永井直陳が入封し、永井氏6代で幕末に至った。北側の清水川を利用して堀が築かれ、その周囲には侍屋敷が設けられていた。現在は、本丸跡を中心に、加納公園となっており、門跡や石垣などに往時を偲ぶことができる。
春日神社
春日神社(かすがじんじゃ)は、岐阜県関市にある神社。関鍛冶の守護神。
例祭には、古典芸能「童子夜行(どうじやこう)」が能舞台で奉納される。また、この例祭に使用される能装束類(63点)は昭和31年(1956年)に重要文化財に指定されており、毎年10月第2日曜日の刃物まつりなどで特別公開されている。
同じく使用される能狂言面は、平成22年(2010年)に重要文化財に指定されている。
鎌倉時代に大和の国(現在の奈良県)から何人もの鍛冶刀工が関に移り住んだ。正応元年(1288年)その大和鍛冶の出身者である金重と兼永は関鍛冶を総代して奈良の春日大明神を勧請して関鍛冶の守護神とし創建したと云われている。
その後、刀工孫六兼元等の登場により関の刀鍛冶が日本全国に知られることとなり、例祭が盛んになる。
永享5年(1433年)初代孫六兼幸が願主となって同地に再建。
平湯神社
平湯神社は、この平湯温泉の中心地に鎮座する神社で、創建時期は定かではありませんが、もともとは天照大御神を御祭神として祀る神社で「神明神社」と呼ばれ、里人の崇敬を集めていました。しかし1980(昭和55)年には平湯温泉開闢の「白猿伝説」にあやかり、温泉発見に大きな役割を果たした白猿を合祀して「平湯神社」と改称されました。最も大きなお祭りは毎年10月1日に行われる例祭ですが、その他にもいくつかお祭りが行われています。例年5月15日に行われる「湯花まつり」は、参拝客が持ち寄った平湯温泉の泉源を大釜に集めて護摩木で炊き上げ、そのお湯をかけてもらう事で1年間の無病息災を祈願するというお祭りで、絵馬市や茅の輪くぐり、温泉発祥を再現する武者行列も行われます。また、8月上旬には「白猿伝説」にちなんで「平湯猿満夏まつり」が行われています。日暮れ頃から行われる小さなお祭りですが、絵馬市や獅子舞のほか、地元の皆さんが趣向を凝らした様々なイベントが行われています。
資料集
195_206_平湯神社