浮島観音堂
浮島観音堂は平安初期の延歴14年(西暦795年)に観音不動昆沙門大師が創設し、その後、文明8年(1469年)に小海住真海師が本尊を再興。さらに天文3年(1534年)に御堂再造(改築)されましたが、老朽が甚だしく昭和59年5月にほぼ原型のまま新築されて現在に至ります。堂内には、日光東照宮にある有名な『眠り猫』をはじめ、各地で数々の彫刻を完成させた名匠・左甚五郎作と伝わる「浮島如意輪観音」が安置されています。
4月には浮島観音春祭りが、10月には吹割観音まつりが行われます。
#左甚五郎
資料集
187_198_浮島観音堂
延年の舞
毎年、1月6日に郡上市白鳥町の長滝白山神社で奉納される神事芸能である。延年とは、中世の寺院社会で主として行われてきた遊宴芸能である。延年の舞が行われているのは、日光輪光寺と平泉毛越寺[もうつうじ]と長滝白山神社の3か所のみである。
長滝の祭りは六日祭り、正月6日に行われるが、これは大晦日から始まって7日目に当たる。つまり、結願[けちがん]の日である。その結願の日の催しが、修正会[しゅうしょうえ]の延年として残ったのである。
社殿で行われる延年の舞は、酌取り、露払い、たうべん、乱拍子、田楽、しろすり、はっさい(大衆舞)の7つを総称して延年の舞といっている。かつて行われていた菓子讃め、かいこう、倶舎などはほとんど行われていないが、祭りの最初の行事としての菓子讃めは行われる場合もある。
延年の途中から拝殿の土間に吊した桜、菊、牡丹、椿、芥子の5つの花笠を若者達が人梯子を組んで、この花をもぎとろうとする。この人梯子は3段でも届かない。もぎとらないうちに人梯子が崩れる。花笠をもぎとることができると、そのまま下に落ち、人々がその花を奪う。この花を持って帰ると、養蚕がよくできると一般人は大いに花を奪うことを喜ぶのである。これが延年の舞のなかでもよく知られている花奪いである。
①「延年」の意味
延年とは本来、文字通り、齢を延ばす、つまり寿命を延ばすという意味のめでたいことばである。『宋書』の「楽誌」には、「延年千秋を寿ぐ」とある。
日本で文献上「延年」の語がはじめて出てくるのは、書道史上「三蹟」の一人として有名な藤原行成の日記『権記』の中であり、寛弘六年(一〇〇九)五月一日の条に、この日の沐浴が「延年除禍」の効験ありとする記事がある。日本でも禍を除くというめでたいことばとして使われていたこと、さらに当時「延年」が普通名詞として使われていたことがわかる。十二世紀初めに成立した『今昔物語』では、「延年ス」と動詞に使われ、語義としては「娯楽する」あるいは「逍遥する」という広義に使われている。
しかし、一方においてほぼ同時代に、「延年」は、歌舞管絃の催しを意味するようにもなっている。藤原道長『御堂関白記』、藤原実資『小右記』、および源経頼『左経記』には、寛仁二年(一〇一八)十月十六日、藤原道長の娘威子の中宮即位を祝った遊宴についての記事があり、ここでは「延年」は歌舞管絃の催しの意味に使われている。このように、歌舞管絃の催し、遊宴芸能を意味する「延年」は、貴族社会において、平安時代の中ごろから登場したということができる。
そして貴族社会が衰退し、寺院勢力が強くなってくる平安時代末期、院政期から鎌倉時代にかけて、東大寺・興福寺・延暦寺など中央の大寺院で、法会(仏教行事)のあとに僧侶などをねぎらうために、若い僧や稚児(寺院に召し使われた少年)が催した遊宴歌舞伎の芸能を延年と呼ぶようになった。
藤原定家(鎌倉時代初期の歌人)の日記『名月記』には、建仁三年(一二〇三)奈良の寺院で僧の雑遊を見たことに関連して「乱遊、延年と号す」と書いている。さらに、『吾妻鏡』承元五年(一二一一)正月三日の条に、「今日午前盃酒に及び、延年等有り」と見え、武家社会にも広まったことがわかる。
ただし寺院社会における延年は、単なる酒宴の余興ではなくて、法会に際して一山の繁栄を祈り、千秋万歳を寿ぐ儀式・神事の一部という意義を持っていた。延年が寺院社会で催されるようになったのは仏教でいう末法期でもあった。だからこそ寺院側は「延年」のテーマによる法楽を積極的に実施したわけで、その意味で延年は仏教的行事であった。延年は修験者たちの修行としても取り入れられ、山伏たちの入峰修行の1つに、延年としての芸能を習得することが課せられていた。
こうして延年は、はじめは貴族社会で起こったものが、鎌倉時代以降、寺院特有の遊宴芸能になっていった。これは、貴族社会の衰退と寺院勢力の発展という歴史的背景にもよるが、もう一つは、貴族社会の場合はめでたい時の臨時の催しで、繰り返すことはないのに対し、寺院社会では法会の芸能であり、法会は決まった時に毎年行なわれるため恒例化し、年中行事になっていったという理由が挙げられる。
室町時代の辞書である『庭訓往来』の中には、「詩歌管絃は遐齢延年之方也」と記されており、能の大成者世阿弥の『風姿花伝』の中にも、「そもそも芸能とは、・・・・・・寿福増長のもとひ、遐齢延年の法なるべし」とのべられている。
②延年の内容
芸能の催しとしての延年の内容についてみると、『東大寺要録』正治元年(一一九九)八月五日の記事に、「その後聴聞衆、両方に分かれ延年之会を始め、児共は歌舞之曲を尽し、大衆は散楽之興を催す」と、稚児による歌舞の曲、大衆(一山の僧)による散楽というように、演者と演目が記されている。
『東大寺雑集録』に、文永年間(一二六四~七五)の延年の記録として、「開口猿楽親尊法師、先達中賢清、定春等答弁これ有り。・・・・両寺狂僧面々出おわんぬ」とあり、開口猿楽、答弁の演目があり、演者としての「狂僧」の語もみられる。狂僧は、遊僧(専門の延年芸能者)のことと思われる。
永享十二年(一四四〇)九月の東大寺八幡宮遷宮における延年会を記載した『延年日記』は、延年についての最大の史料といわれ、
倶舎舞 乱舞 仮屋楽 朗詠 白拍子 開口 答弁 連事
その他の演目が記されている。また、永正十二年(一五一五)の「多武峯延年式目」は、
頌物 倶舎舞 切拍子 乱拍子 音取 楽 朗詠 白拍子 開口 連事 狂物 伽陀 小風流 夫催 男催 児催 花杖 大風流 鉾振 舞立
という多種の演目を記している。
白山中宮長滝寺の修正延年の記録は、二つ残っているが、まず文禄四年(1595)に経聞坊慶倫が著した『白山長滝修正延年之次第』(以下「文禄延年帳」)には、
菓種 脇第三ハチブ タウベン 乱拍子 田ウチ 花笠ねり歌 田あそひヲトリ 倶舎大衆舞 カイコ 立合
が記され、その五十三年後の慶安元年(一六四八)に経聞坊慶祐が著した『修正延年並祭礼次第』(以下「慶安延年帳」)には、
酌取 菓種 たうへん 乱拍子 田歌 花笠 花笠ねり歌 たうへんねり歌 しろすり 田踊 倶舎 大衆舞 かいこ 立合
という十四の演目が記されている。これらの演目のうち、現在の「長滝の延年」では、菓種・かいこ・立合などは行なわれておらず、江戸時代のある時期に絶えたものと思われる。これらの白山中宮長滝寺の文禄・慶安両延年帳の記事については、のちにも取り上げる。
奈良興福寺では、元文四年(一七三九)をもって延年は絶えたが、このときの延年舞式では、
寄楽 振鉾 東先 東弁大衆 西弁大衆 東舞催 仮屋楽 せん儀 披露詞 開口 射払 間駈者 連事 付物 糸綸 遊僧 仮屋楽 風流 相乱拍子 遊僧・火掛 白拍子 当弁 答弁 走 散楽
という演目が記してある。
平泉毛越寺の延年の演目は、永正元年(一五〇四)には、
呼立 田楽 唐拍子 祝詞 老女 若女称宜 児舞 京殿有吉 舞楽 がある。なお、現在の「毛越寺の延年」の演目は、
祝詞 呼立 田楽踊 路舞 若女・称宜 老女 児舞 勅使舞
などである。
延年は鎌倉から室町時代にかけて、中央の大寺院はじめ寺院社会において盛んに行なわれたが室町時代に猿楽の能が発展するころから延年は徐々に衰えていき、いつのまにか中央では消滅してしまった。中央から伝わった地方の寺社における延年も、徐々に廃絶していったが、全く消滅してしまうことはなく、わずか数ヶ所に残った。
延年が今に残るのは、長滝白山神社と、岩手県西磐井郡平泉町の毛越寺・中尊寺、そして栃木県日光市の輪王寺などわずか数ヶ所、そのうち実質的に古い延年の形をまとまって今に伝えているのは、「長滝の延年」と「毛越寺の延年」(共に国重要無形民俗文化財)の二つだけなのである。
二.「長滝の延年」の歴史
「長滝の延年」がいつはじまったかは、それに直接触れる史料がなく明らかではないが、社記に弘安二年(一二七九)に神前で能を奉納したと伝える。また寛治八年(一〇九四)宣旨により飛騨国大野郡焼野を賜るという寺領頂戴の節の酒宴が芸能化されたともいう。酒宴が遅くなり三日月が昇る頃までかかったことに由来するという菓子台の三日月などの盛り付けや酒宴を表す「酌取り」は、この伝承に関わるものといえる。
これらのことから、「長滝の延年」は鎌倉時代には催されていたと考えられるが、さらに室町中期以降、越前の大和五郎大夫の指導により長滝において、毎年一月六日に延年が催されその延年の中及び延年以外の他の機会にも、能の上演が天文年間(一五三二~五五)まで恒例となっていたことが、慶安延年帳の次の記述により判明する。
「六日祭の作方、先越前の大和五郎大夫十二月ニ当地ニ来り極月廿五日寺家衆も稽古して七番の能有、則祭礼は六日の夜也、是も天文の比より能は懈怠也・・・・・・右祭礼の次第失念有りて、毎年吟味六ヶ敷故、天文ヨリ巳来之例ヲ改め委しく爰に書付侍る也」
越前から大和五郎大夫という能役者が例年十二月長滝に来て、同月二十五日から長滝寺の人々もその指導を受け稽古して、六日祭当日の一月六日の夜七番の能を催したのである。ただしこの六日祭における演能の慣例も天文の頃から行なわれなくなったというのである。
天文以前の六日祭の延年において能が行なわれていたということは、長滝白山神社に、応安二年(一三六九)銘の尉面をはじめ、室町時代のものを中心に二十五面の木造古楽面(国重要文化財。そのうち少なくとも二十一面能面)が伝来していることによっても裏付けられる。さらに東京国立博物館所蔵の能衣装上衣は、元白山中宮長滝寺のものであり、その胴裏には、
「修正延年之為上衣奉奇進所也。若ソンシツ仕人者、過銭三百疋可被出者也
永禄九年丙寅正月吉日 施主院主 阿名院上神澄 花押」
という墨書がある。さらに、長滝寺「荘厳講執事帳」永禄九年(一五六六)の項に次の記事がある。
「七月廿三日、夜遠藤大隅守・遠藤六郎左衛門風流被仕、郡内不事万民満足不過之候、然処ニ寺門若輩十二人罷下候、廿一日ニこたらまで罷下廿二日こたらにて能三番、一番嵐山・二番野々宮・三番ぜかい、役者之事経聞坊・大本坊・千仏坊・本覚坊・宝幢坊・中納言・美濃大納言・小弐・松泉坊以上」
永禄九年長滝の僧一行十二人が八幡城下に出かけて能三番を上演いた。演目は、一番「嵐山」二番「野々宮」、三番「ぜかい(是界)」であった。
二年後の永禄十一年(一五六八)にも同帳に次の記事がある。
「永禄十一年八月廿一日、越前ヨリ大和五郎大夫罷越法楽仕候、初日ニ能七番次日同七番仕候、郡内之衆数多御見物ニ候、郡内モ無ニして世上一段クツロキ旁以珍重ニ存候、経聞坊良雄大ツゝミを出候て打候、同笛等覚坊弟子弐位公・太鼓ハ真如坊弟子大納言打候」
この年越前から大和五郎大夫一座がやってきて、長滝において二日にわたり各能七番を催し、郡内からも多数の見物人があったのである。能七番の演目は記されていないが、二日間にわたる七番の能は本格的な大和猿楽の演能であったと思われる。この二つは七月と八月に催された演能会であって、共に六日祭の延年における能でないとはいえ、ここで演能した大和五郎大夫は、前掲慶安延年帳において六日祭の法式を指導した人物であることからも、これらの能は六日祭の延年においても演じられたと思われるのである。
文禄・慶安両延年帳ともに、題名に「修正延年」という言葉を使っていることからも明らかなように、「長滝の延年」は、かつては「修正延年」といい、白山中宮長滝寺の修正会の中で行われた延年であった。修正会は、毎年正月に初めに旧年の悪を正し、新年の天下太平などを祈る法会で、期間は通例年初の七日間で、三日間、五日間の事例もある。
白山中宮長滝寺の修正会は、大晦日から正月六日にかけて七日間行われた。結願の日にあたる一月六日に、若い僧や稚児、山伏たちが、僧侶や神官をねぎらい、また新年にあたって、楽しく平和な世の中がつづき、一山がますます栄えることを祈って催した遊宴歌舞の芸能が、「長滝の延年」であった。
このように「長滝の延年」は、本来修正会という法会の余興であったのが、ある段階からはもはや延々そのものが主体の行事になっていったのである。そして修正会の一部であった「長滝の延年」は、修正会という法会が七日間にわたる往年の形では行われなくなってからも、一山の重要な年中行事、「六日祭」という例祭の形で、継続・伝承されていったのである。
出典 白鳥町教育委員会編『長滝の延年 ―長滝白山神社の六日祭―』(白鳥町・二〇〇四)より白石博男氏執筆分抜粋)
※白石氏より教育目的による資料活用の許諾をいただいています。
2.20070523-延年の歴史(資料)1
資料集
058_061_延年の舞
願成院本堂(愛染堂)
願成院本堂は、竹田市街地の西側の八幡山の中腹に建ち、愛染堂として親しまれている。この建物は、一重、宝形造、本瓦葺の三間堂で周囲に高欄をめぐらせており、組物を禅宗様三手先(みてさき)、軒を扇垂木(だるき)にするなど本格的な手法を取っている。
愛染堂は、JR豊後竹田駅から徒歩5分位です。観音寺の石段を上りつめたところです。
宝形造りの三間堂で、屋根は本瓦葺、外部様式は唐様、四面付斗供は二手先組、垂木は扇垂木にて肘木は繊麓を極む、軒下四隅に天邪鬼及び人面の木彫あり、天邪鬼はかって左甚五郎の作なりしを当時の工匠の持参して収めたるものと伝えられています。
#左甚五郎
資料集
188_199_愛染堂
紫香楽宮跡(甲賀寺跡)
信楽高原鐵道の紫香楽宮跡駅から北西へ約lkm、松林に覆われた丘陵地に残る、国指定の史跡です。 紫香楽宮跡は、奈良時代の天平14年(742)、現在の京都府木津川市(きづがわし)に恭仁宮(くにのみや)を造営中であった聖武(しょうむ)天皇が、恭仁宮から東北への道を開いてこの地に造営した離宮であり、たびたびの行幸の後、3年後に改めて首都と定められました。
緑の松林に囲まれた緩い坂の参道をたどると、金堂跡があり、背後を囲むように僧坊跡・経堂跡・鐘楼跡・塔院跡などの礎石(そせき)が並び、東大寺とよく似た建物配置の寺院跡であることがわかります。この寺院は、聖武天皇が紫香楽宮で大仏造立をはじめた甲賀寺跡だと考えられています。
東西90m・南北110mにわたる広い丘陵地には、建造当時の335個の礎石が残り、はるか天平時代の雅やかな雰囲気が偲ばれます。また、ここから北へ約1.5kmの宮町地区にある紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務所(宮町事務所 展示室併設)では、紫香楽宮跡から出土した遺物などを展示しています。
資料集
186_197_滋賀・紫香楽宮跡(甲賀寺跡)
鳥追観音(如法寺)
如法寺(にょほうじ)は、福島県耶麻郡西会津町野沢字如法寺にある真言宗室生寺派の寺院。山号は金剛山。本尊は聖観世音菩薩。この寺には境内に観音堂があり、「鳥追観音」の名で知られる。会津ころり三観音のひとつ。鳥追観音如法寺は、仏都会津の祖・徳一大師が、千二百年前の平安初期大同2年(807)に、会津の西方浄土として御開創なされた屈指の観音霊場であります。
御本尊鳥追聖観音は、僧行基御作と伝え、衆生を導いてこの世の寿命を全うさせ、あの世は西方浄土の阿弥陀仏の世界へ安楽往生させるという御誓願と、子授け・安産・子育て・厄除け・健康・長寿の広大無辺なご利益から、老若男女の厚い信仰を集めております。
また、会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外別格の結願所として、二世(この世・あの世)の安楽を願い、≪命のふるさと・鳥追観音≫へ参る巡礼者が絶えません。
さらに、当地西会津は、霊峰飯豊山の南麓に位置し、阿賀川が悠然と流れる山紫水明の里であり、如法寺境内には、樹齢千二百年の高野槙が孤高に聳え立ち、春は桜と若葉、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々の趣きもまた格別で、まさに≪仏都会津の西方浄土・鳥追観音如法寺≫は、身も心も癒される≪命のふるさと≫と申せます。
口から入って西口に抜ける珍しい作りで、西方浄土へころりと安楽往生がかなうとされる。左甚五郎作「隠れ三猿」(難よりかくれ猿、難をのがれ猿、安楽に暮らし猿)を見つけると「福まさる」という。
日光東照宮の作品でも有名な左甚五郎が心を込めて刻んだと伝えられる、三匹の猿の彫刻です。それぞれ「災難より隠れ猿」「災難より逃れ猿」「安楽に暮らし猿」のいわれがあり、三匹目の猿は、牡丹の蕾に似せて隠し彫りされています。観音の大慈大悲に祈願してこの三猿を探し得れば、固いつぼみが花開くように幸運が開き「福マサル」といわれています。
#左甚五郎
資料集
185_196_鳥追観音(如法寺)
北口本宮冨士浅間神社
景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。よって大鳥居が建てられ、大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。 天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。
古代、富士のような高い山、美しい山は神のおわす山として人が入ることは禁忌でした。よって当地は、ご神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場でありました。現在拝殿を囲んでいる巨木はその神域を物語っています。
時代は下って、平安時代の頃に山岳信仰が普及し、登山を実践して修行する修験道が各地で広まるとともに富士講が出現し、発展するにつれ、御山に登ること即ち祈り、とする「登拝」によって、人々は山頂を目指すようになりました。富士講 初めて富士登山を行ったのは、大宝元年(701)の役小角という行者であるとされ、のちに富士講の開祖と仰がれる藤原角行師は、天正5年(1577)に登山しています。 富士講は「江戸の八百八町に八百八講あり」といわれるほどに繁栄し強大になり、甲州街道と富士みち(現国道137号線)を通って吉田口(北口)登山道から入山する関東一円、更に北陸や東北、関西にまでも拡大しました。
中でも大きな団体であった村上講の村上光清師は、藤原角行師の6世の弟子にあたり、享保18年から元文3年までの6年間(1733~1738)で、境内社殿の大造営を行いました。現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けずに、現在もなお当時のままの荘厳な趣を伝えています。 主な社殿は、仁和3年(887)より、藤原当興、北条(左京太夫)義時、武田信玄、浅野(左衛門佐)氏重、鳥居(土佐守)成次、秋元(越中守)富朝、秋元(摂津守・但馬守)喬朝、らによって造営が重ねられました。
貞応2年(1233)北条義時造営ののち、永禄4年(1561)に武田信玄が再建した社殿が現存する中では最も古く、「東宮本殿」として現本殿の東側に、また、文禄3年(1594)浅野氏重殿造営の社殿は「西宮本殿」として現本殿の西側におうつしされています。現在の本殿は、元和元年(1615)鳥居土佐守成次殿の創建で、いずれも国指定重要文化財です。
●富士ゑびす
本殿の裏側という不思議な場所に祭られている「富士ゑびす」。富士山に向いているのでこの名があるそう。鯛を抱えているえびす様は、日光東照宮の彫刻で有名な左 甚五郎 の作と伝えられている。
#左甚五郎
資料集
183_194_北口本宮冨士浅間神社
酒列磯前神社
『文徳実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日に常陸国鹿島郡大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨になり、塩焼き(塩を精製する者)の一人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」と託宣され、当社「酒列磯前神社」が創建され、また現在の東茨城郡大洗町には「大洗磯前神社」が祀られました。翌天安元年8月には官社に列せられ、更に10月には「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜の制では名神大社に明治18年4月には国幣中社に「大洗磯前神社」と共に列されました。御社殿はかつては現在の第一鳥居付近(ひたちなか市史跡-「比観亭跡」)に鎮座していましたが、水戸藩2代藩主徳川光圀公が由緒深い名社の荒廃を嘆き元禄年間御造営の計を起し、3代綱條公が現在地に遷座再興されました。現在の社殿は国費を持って昭和12年に改築竣工し、拝殿に施された「リスとブドウ」の彫刻は日光東照宮御造営後の左甚五郎の作と伝わっています。
#左甚五郎
資料集
184_195_酒列磯前神社
圓明寺
圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。
大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。
のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。
天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩が、本尊阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像・勢至菩薩像を刻んで開基。創建時は和気海浜坂浪西山にあり「海岸山圓明寺」と称し、七堂伽藍を備えた大寺でした。後に弘法大師がこの地を巡錫した際、荒廃した諸堂を整備し四国第53番霊場とします。しかし鎌倉時代に幾度か兵火により荒廃、元和年間(1615〜24)に須賀専斉重久がその私財をもって現在地に再興。須賀専斉重久の名前をとり、須賀山 圓明寺と称します。山門から真正面にある境内中央にそびえる中門、そこをくぐると正面に本堂があります。その本堂内にある高さ約1m・幅4mの巨大な龍の彫り物は、欄間から頭を斜め下に飛び出し、躍動感に満ち溢れ凄絶で荘厳な魅力を放ちます。江戸時代初期に活躍した彫刻職人・左甚五郎作と言われ、妙技が物語ります。こころを見抜くような鋭い龍の目は、邪念を祓い参拝者をまっすぐな路に導いていることでしょう。そして本尊阿弥陀三尊仏像の両脇に侍立する観音・勢至の両菩薩像は鎌倉時代の作で、県指定有形文化財です。
#左甚五郎
資料集
182_193_圓明寺
西橋寺
天文年間、上舟岡に阿弥陀堂と称する草庵があった。関東18檀林の一つ武州鴻巣の勝願寺(埼玉県)の則伴頭を務め諸国を回っていた寂湛が、天正10年(1582)当所に一宇を造立した。現在の建物は享保5年(1720)造営のもの。切口8畳敷の欅1本で造られたといわれる。本堂向拝の上に左甚五郎作といわれる兎の彫刻がある。
本堂正面向拝の上に、左甚五郎作といわれる「波に兎」の彫刻があります。昔、田んぼの畦の豆を食べる兎が夜な夜な出没し、農家を困らせていました。その兎は西橋寺の兎に違いないとして、「波に兎」の彫刻に網がかけられました。正に生きた兎の彫刻は左甚五郎作のものであると言い伝えられています。
#左甚五郎
資料集
173_184_西橋寺
出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神[2]。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社[1]。神社本庁の別表神社[1]。宗教法人出雲大社教の宗祠。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する[3]。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
八足門は蛙股(かえるまた)の瑞獣や流水文などの彫刻が施され、左甚五郎の作と云われる。
#左甚五郎
資料集
174_185_出雲大社
方広寺
方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。
豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止され遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立)された。
のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した。秀吉は大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。
大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五条大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。同年9月25日には秀吉自身の祖父母の供養のため寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行った。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗(一向宗)の僧が出仕を要請された。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院に残る。当時の敷地は広大なもので、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。
現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。
なお、東寺の南大門(重文)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという。
また、刀狩で没収した武器を再利用して釘にしたものも使われた。なお、造営期間短縮のため、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠(シツクヰ)」で造られた(『太閤記』)。
この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる[1]。なおこのとき大仏殿は倒壊を免れている。秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)(当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎えることを計画。
木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された(義演准后日記)。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。
秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国の善光寺へ戻されることとなった。しかし、翌8月18日に秀吉は没した。
その後、豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、木食応其に命じて銅造での大仏復興を図るが、慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰した。
慶長13年(1608年)より再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成。慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。
上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものとみなされ、最終的には大坂の陣による豊臣家の滅亡を招いてしまったとされる(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」とする指摘もある。
また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。大仏自体は大坂の陣の後も残されたが、寛文2年(1662年)の地震で大破。大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興され、壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料とされた。この大仏も寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失。以後は同様の規模のものは再建されなかった(大仏および大仏殿の建造と焼失の経緯は「京の大仏」の記事を参照)。
また、豊臣家が滅亡した直後の元和元年(1615年)8月18日には、豊国大明神の神号を剥奪された秀吉の霊が、「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられて、廃された豊国社本殿から大仏殿後方南に建立された五輪塔に移された。この石造五輪塔は現在の豊国神社境内宝物殿裏に「馬塚」として遺る。
なお、当時の史料ではこれを「墳墓」としている(『妙法院文書』)。なお、「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れず当時はただ「大仏」とのみ呼ばれていた。方広寺命名の経緯・時期は不明だが、経典(大方広経)から採ったといわれ、また経典にかこつけて「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。
だが庶民の間では江戸期を通じて「大仏」の名で親しまれた。長崎出島のオランダ人なども江戸参府のおりに訪れ、江戸幕府が朝鮮通信使を案内した際には「秀吉の寺」として拒絶反応を示されて対応に苦慮したことが記録に残る。江戸時代後期の天保年間(1830年 – 1844年)、尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興された。
1871年(明治3年)、方広寺境内の大部分は収公され、現在の規模となった。1973年(昭和48年)の火災により、上述の天保再興の大仏は焼失した。
前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。大仏殿は、2000年(平成12年)発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。
基壇に使われた花崗岩の切り石の多くは、1873年(明治6年)に京都市の内外に京都府により築造された6基の石造アーチ橋の建材に転用された。大仏殿のあった場所には明治になって豊国神社が建てられた。門前の餅屋が売っていた「大仏餅」は大仏を型押しした餅で、大仏を訪れた人々のよい土産となった。
この餅屋には石川五右衛門が住みこんでいたという伝説がある。鴨川河原まで通じる抜け道もあったという。門前、餅屋があった向かい辺りには、秀吉が築かせた耳塚がある。
#左甚五郎
資料集
175_186_方広寺