岐阜別院
本願寺岐阜別院(ほんがんじぎふべついん)は、岐阜県岐阜市にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院(別院)である。開基は准如上人。
岐阜市には、東西両別院がある。真宗大谷派(東本願寺)の別院は、真宗大谷派岐阜別院。
沿革
1570年~1590年頃、本願寺11世顕如上人が美濃国に巡教の折に、美濃国厚見郡西野(現岐阜市西野町)の土豪、一柳直高(一柳直末、一柳直盛の父)が信徒となって帰依する。一柳直高の没後、その墳墓のそばに一寺が建立されたことが始まりと伝えられている。
1603年(慶長8年)、准如上人が当地を巡教した際に、一柳直盛が父の一柳直高の遺命により申し出、この寺は本願寺の坊舎とされ、岐阜御坊もしくは西野御坊と呼ばれる。
1876年(明治9年)に名称を岐阜別院と改められる。
本堂は、1645年(正保2年)には再建されるが、1713年(正徳3年)全焼、1720年(享保5年)に再建されるが、1945年(昭和20年)7月9日、岐阜大空襲により山門、鐘楼、経蔵等を除く本堂などが焼失する。現在の本堂は1951年(昭和26年)の再建である。
1975年(昭和50年)、岐阜市芥見南山3丁目に「岐阜別院芥見分院」が建立される。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%88%A5%E9%99%A2)
資料
三輪神社
美濃国神名帳に正二位美和大明神とある創立不詳の古社。社殿は、永禄年間に建立されたが、その後破損し、現在の本殿は元禄年間に再建されたものである。本殿は、昭和43年に岐阜市の重要文化財に指定されているほか、参道の石鳥居は昭和51年に市重要文化財、参道のスギの木は昭和51年に市の天然記念物にそれぞれ指定されている。
拝殿
本殿
資料
田谷神明神社
創立年代は不詳である。古老の口伝によると、椋椅(くらはし)某が此の地にきて田畑を開墾し、谷水を使った。地名も「田谷」といい、通称「田谷宮」と里人等に親しまれた。部落の名も「くらはし」から藏柱と改名されたのである。
承久年間より江馬家の領主の庇護により石浦・田谷(上・下)・沖田・かじや・下垣内の各集落に神社を建立し守護してもらった。
元禄七年大垣藩主戸田采女正の検地の際八畝二十歩の除地がある。後年になるが、年代も不明であるが、石浦宮を除いて田谷宮神明神社に合併合祀されている。棟札等に「天明三年、本宮再建氏子中、二滝より舟橋まで不残」とあり、天保三年の棟札に氏子は六十軒と記されている。
石浦宮の神鏡には明治四年田谷、森合祭とあり、このとき合併合祀されたのであろう。
石仏と奇岩群
大雨見山(おおあまみやま)(標高1336m)の北西麓にあたる蔵柱(くらばしら)川沿いに石仏という地名があり、そこにある高さ約12mの仏像に似た石柱が「石仏」である。その付近には“鏡岩”、“仏器岩”、“獅子頭岩”といった名前のついた奇岩と称する岩が山すそにある。いずれも大雨見山層群の宮川谷層に属する火山岩類のうち、比較的軟らかく風化作用を受けやすい凝灰岩からなる。見る方向によっていろいろな形状に見えることからそれぞれに名称がつけられたものである。
高山市国府町から県道76号で上宝町に向かい,大坂峠(通称十三墓峠)を越え2km程下ったところに濃飛バスの「石仏前(いしぼとけまえ)」バス停がある。
バス停の奥に,カラ松の間から高さ12cm程のまるで仏様のような形をした岩肌が突出している。これが地名の由来の「石仏岩」で,足元には小さな祠(ほこら)が建てられ祀られている。周囲にも点々と岩肌が露出し,屏風岩(びょうぶいわ),駒掛岩(こまかけいわ),鏡岩,箪笥岩(たんすいわ)等と名付けられ,全体が「石仏と奇岩群」として高山市の天然記念物に指定されている。
「石仏と奇岩群」は,どのようにしてつくられたのであろうか?
今から6600万年前~6000万年前の中生代白亜紀最末期から新生代古第三紀にわたり,現在の大雨見山(国府,丹生川,上宝町にまたがる山)を中心に,約100㎢にわたって流紋岩質マグマによる火山活動が起こった。このときできた溶岩や凝灰岩,火砕流堆積物を主体とする地層をまとめて「大雨見山層群」という。「石仏と奇岩群」の岩石の本体は,大雨見山層群の流紋岩溶岩である。この溶岩は,中に青灰色の玉ズイ(石英の微小な結晶の集まり)を含んでいて,「球顆流紋岩(きゅうかりゅうもんがん)」という。溶岩の一部は大坂峠近くにも露出し,風化した部分から数cm~こぶし大程の玉ズイの塊を見つけることができる。
石仏岩は,6000万年という長い年月をかけ,風化や侵食を受けた球顆流紋岩が,偶然にも仏様の容姿になって現れたものである。
引用:飛騨地学研究会 寺門 隆治様