七ヶ用水施設群
白山を源流とする手取川は、白山麓の谷合集落を通り、鶴来地区で金沢平野で達する。手取川は、鶴来を基点として半径12㎞の手取川扇状地を形成する。手取川扇状地の面積は約12,000haに及び、石川県下一の米の穀倉地帯である。米の生産量は、石川県内で産出する米の14%に及ぶ。七ヶ用水とは、東から富樫、郷、中村、山島、大慶寺、中島、新砂川用水を示し、その灌漑面積は約8,000㎡である。手取川は、扇状地の東側から西側に移動しながら土砂を堆積していった。その関係で東側の灌漑がうまくいかず、江戸時代から用水組合を結成して、取水口の改良工事を行ってきた。坂知村で富樫用水の井肝煎(いきいり=用水組合長)を務めた枝権兵衛(えだんべい 1809~1990)は、富樫用水の灌漑の安定化と金沢と鶴来の運河計画を慶応元年(1865)2月立て、加賀藩士の小山良左エ門と鶴来地区白山町の手取川右岸の河岸段丘の下、岩盤を約300mをくり抜き、明治2年(1869)5月に供用させた。運河は、金沢と鶴来の間の高低差が約90m及び施設の管理維持の経費を要することから、断念された。
手取川は、梅雨時期になると白山の雪解け水により氾濫をおこしその都度、取水口が洪水により破壊された。この事情を改善するため、冨樫用水を含めた七ヶ用水の合口化事業が明治32年(1899)から石川県により開始され明治36年(1903)の5月の供用により完成する。合口箇所は、幕末に枝権兵衛が開鑿した隧道の東側で旧富樫用水と並行する。現在も、農業灌漑用水として供用されている。
特色
明治時代の近代農業遺産として評価されている。現在、日本土木遺産、世界灌漑遺産に認定されている。
メタデータ
七ヶ用水施設群
資料集
070_073_七ヶ用水施設群
古宮遺跡
古宮遺跡は、手取川右岸の安久濤ヶ淵(あくどがふち)と呼ばれる河岸段丘上にある。古宮の名称の由来は、文明12年(1480)ま加賀国の一ノ宮であった白山本宮があったことによる。白山本宮は、文明12年に火災により、かつてから約800m南東にある三ノ宮と合祀し現在にいたる。安久涛ヶ渕は、手取川右岸の瀞(とろ)の景観を示し、白山市指定名勝に指定されている。安久濤ヶ淵は、近世期、「空殿」ともかかれ、白山本宮が移転した事を物がっている。遺跡の北側には、昭和7年まで対岸を結ぶ舟渡しがあった。義経記には、東国落ちする義経と弁慶がこの舟渡しを利用し、白山本宮に参詣したことが描かれている。現在、遺跡地は白山市が管理する古宮公園となっている。公園の下には、七ヶ用水隧道があり、幕末から明治36年に至って開鑿された隧道の紹介と開鑿にかかわった人物の顕彰碑が建立されている。公園の中央には、白山比咩神社が管理する水戸明神の社祠があり、秋の七ヶ用水と白山比咩神社の氏子により祭祀が行われている。水戸明神は、高さ1.5m直径5mの岩の上に立っている。平成7年(1995年)と平成30年(2018)に発掘調査が行われ、10世紀中頃から16世紀後半にかけての建物群跡が発見されている。平成7年の発掘調査では、約4.5m四方で深さ80㎝の土坑に祭祀で使用されたとみられる素焼きのかわらけ約1700枚を埋納した遺構が発見され、古宮公園内に移設し復元展示されている。
特色
白山信仰遺跡、神社跡として基調な歴史遺産である。
メタデータ
古宮遺跡
資料集
069_072_古宮遺跡
ほうらい祭り
白山信仰の宮(はくさんしんこうのみや)、白山七社の下白山四社の1社、鶴来市街地の東側山地に鎮座。創建は崇峻4年(約2100前)と伝わる。氏子は鶴来市街地を中心とする。主神は大国主尊を祀る。明治22以降合祀例令により、3社と白山麓地方の1社を合祀する。10月上旬の2日間に行われる秋季例大祭は、当社の祭りで通称「ほうらい祭り」と呼ばれる。神輿が先導し、その後に、秋の収穫された野菜で飾られた造り物と呼ばれる山車や、獅子舞が街中を練り歩く。1日目は、街中に設けられた御旅所に神輿、造り物が泊り、2日目に神社へ帰る。祭り行事は、白山市指定文化財。また、かつて使用されていた江戸時代中期の6角型神輿も白山市指定文化財に指定されている。
現代
昔
メタデータ
金剱宮
資料集
068_071_ほうらい祭り
金剱宮
白山信仰の宮(はくさんしんこうのみや)、白山七社の下白山四社の1社、鶴来市街地の東側山地に鎮座。創建は崇峻4年(約2100前)と伝わる。氏子は鶴来市街地を中心とする。主神は大国主尊を祀る。明治22以降合祀例令により、3社と白山麓地方の1社を合祀する。10月上旬の2日間に行われる秋季例大祭は、当社の祭りで通称「ほうらい祭り」と呼ばれる。神輿が先導し、その後に、秋の収穫された野菜で飾られた造り物と呼ばれる山車や、獅子舞が街中を練り歩く。1日目は、街中に設けられた御旅所に神輿、造り物が泊り、2日目に神社へ帰る。祭り行事は、白山市指定文化財。また、かつて使用されていた江戸時代中期の6角型神輿も白山市指定文化財に指定されている。
特色
加賀白山信仰の中心的な施設
メタデータ
金剱宮
資料集
067_070_金剱宮
金名鉄道の廃線
かつて白山市鶴来と白山麓の白山下(白山市河原山町)18.8㎞を結んだ軌道幅1067㎜)の鉄道。大正14年(1925)12月25日に鶴来出身の小堀定信(1888~1964)によって金名鉄道株式会社が設立された。金名鉄道の会社名の由来は、金沢と名古屋を白山麓を経由して4時間で結ぼうと計画された事による。大正15年2月1日に白山下から加賀広瀬13.8kmが開業し、昭和2年12月28日までに残りの、加賀広瀬から鶴来間5kmが開業した。当時、白山麓では手取川沿いの水力による発電所建設工事が行われ、鉄道開業の背景には、電源地開発のための資金援助を電力会社から得られたことによる。昭和4年には途中、神社前から鶴来町間2kmが金沢電気軌道に譲渡され、電化された(金沢白菊町から神社前の直通電車開業、流600V)。昭和18年に、戦時統合により北陸鉄道株式会社が設立され統合された。以後加賀一の宮から白山下間は金名鉄道と称した。昭和24年12月6日、加賀一の宮から白山下間は電化された。昭和34年沿線に北陸鉄道が経営する手取遊園が開業するが、昭和39年に廃園となる。昭和45年4月1日より、モータリゼーションの普及により昼間はバス代行運転となる。昭和59年12月には、途中中島鉄橋の崩壊が指摘され、電車運行を停止。同62年4月に廃線となった。当初の加賀一の宮から鶴来は存続したが、2009年11月1日をもって廃線となった。現在廃線跡は、手取白山キャニオンロードとして自転車専用道として整備された。加賀一の宮駅は、鉄道遺産として保存され現在観光案内所として活用されている。尚、白山下から郡上長滝(現長良川鉄道)間は、白山尾添、現白山プラチナ道路を経由して、白川村平瀬を経由する計画であったが、莫大な建設費用がかかるため実現に至らなかった。
特色
20世紀前葉から計画された壮大な鉄道計画で、山間地の電源開発と連動して事業が進められた事に特色がある。遺構は、自転車道路として活用され、往時を復元することが可能である。
メタデータ
金名鉄道
資料集
066_069_金名鉄道の廃線
加賀禅定道
加賀禅定道は、白山本宮から、白山市吉野谷地区中宮を得て、尾口地区尾添を経て白山山頂(御前峰)に至る、総延長約43.5kmの信仰の道。道が開かれたのは天長4年(834)とされている(「白山之記」長寛元年に中宮の僧千妙の口伝をまとめたもの)。白山本宮から中宮までは白山麓に集落を結びながらの道である。中宮から白山山頂までは山地を通る険しい修験の道である。中宮は、現在笥笠中宮神社のみ残るが、南北朝時代までは四十九坊の僧院があったとされる。対岸の尾添の間までは、深い渓谷があり、中世までは葛籠で編んだ渡し笥(ハコ)が対岸を結んでいた。尾添のには、加宝神社がありそのしたには岩屋があり白山を開山した泰澄が籠って修行したという。尾添からは白山の雪解け水が伏流水となっている払い谷をとおり標高1,500mの地点には檜の社叢で覆われた檜新宮にたどりつく。檜新宮の200mは北西には、お壷水と呼ばれる湧水地がある。この湧水は、金沢野田山にある遭洞宗の寺院大乗寺の井とつながっていると伝承があり、寛文期には大乗寺の修行僧が石碑を建てた。檜新宮の本地仏は地蔵菩薩で明治7年7月までここに9体の仏像が安置されていたが、廃仏希釈により石川県によって尾添村に下されている(石川県指定歴史資料)。檜新宮は平安時代後期から室町時代にかけて夏場に白山で籠り修行する僧の聖地として使用された。平成22年(2011)に発掘・遺構確認調査が行われ、12世紀から18世紀にかけての遺物と礎石建物跡等を確認している。檜新宮か天池金剣宮跡、加賀室跡を経て大汝峰山頂を通り、御前峰に至る。途中、直径13m高さ3.5mの人口的に築造されて四塚(標高2500m)の側を通る。
特色
尾添から山頂に至る登山道は歴史の道として残存しており、平成8年には、文化庁による歴史の道100選の白山禅定道の一部に選定されている。
メタデータ
加賀禅定道
資料集
065_068_加賀禅定道
横江の虫送り行事
横江町で毎年7月第三日曜日土用の丑の日に町の人ほとんど(約300人)が参加しておこなわれている。田の害虫を駆除するための行事。いつごろから行われてきたかは不明であるが、江戸時代には郡奉行所に開催願いが出ている記録がある。当日夕刻から町端の発信地点に、鼓太鼓を先頭に行列の人々が手にタイマツとカンテラに火を灯して並び、若者たちの誘導で集落を1周行進する。宇佐八幡神社の正面には、藁で編み込んだ火縄アーチ(幅3.4m高さ3.5m)が事前に用意されており、両端から点火され,中央に「虫送り」の文字が火によって浮かび上がる。若者たちはその下をかいくっぐって神社境内に太鼓を持って走りだし、神社境内に設置された大かがりのまわりに太鼓をならべる。大かがりに点火されると若者たちは、太鼓を狂ったようにたたき爆音をとどろかせる。大かがりの火が収まると、子供たちによる相撲が奉納される。
特色
加賀平野では、昭和初期頃まで各集落で伝統的に開催されていたが、農村の都市化により消滅していった行事。昭和39年11月1日に旧松任町の指定文化財となる。
メタデータ
横江の虫おくり行事
資料集
064_067_横江の虫送り行事
越前禅定道
福井県勝山市平泉寺白山神社から白山山頂(御前峰)に至る約34kmの登山道。10世紀に編算された「泰澄和尚伝」によると養老元年(717)年4月に、越の僧泰澄が平泉で白山妙理大権現の感得を受け、白山山頂へ向かったとされる。白山を開山したとされる泰澄が登ったとされるのが越前禅定道とされる。平泉寺白山神社から三頭山(みつがしらやま)、法恩寺山、小原峠(福井県・石川県境)、三ツ谷、市ノ瀬、六万山、指尾山、慶松平、弥陀ヶ原を得て白山山頂(御前峰)に至る。現在、白山室堂と呼ばれる宿泊所は、元は越前室堂であった。文献から天長4年(834)年頃には、道が開かれた。12世紀頃には、道中に、夏場に長期滞在できる諸堂が整備されたとみられる。このころには、修験道が盛んになり全国からの修行僧が夏修行の聖地とした。三ツ頭山頂、法音寺跡、川上御前社跡、白山温泉跡、相撲場跡、室堂平、には、諸堂の礎石や土塁が残る。御前峰、越前室、白山温泉薬師堂には、明治7年(1874)7月まで、仏像が祀られていたが、慶応3年9月に明治政府によって発令された神仏判然令により仏像は山から下された。また、室町時代から江戸時代前期にかけて白山の所属について、三国の別当の間で裁判となったが寛文9年(1668)に幕府領となり、以後、白山の管理は平泉寺が行ったが、明治7年の仏像を下した際に、加賀の白山比咩神社となり現在に至る。
現存する信仰の道としては、古代・中世の形態が残存し、貴重な歴史遺産でもある。平成8年に文化庁が歴史の道100選に選定した。
メタデータ
越前禅定道
資料集
063_066_越前禅定道
かんこ踊り
芸能がさかんな白山市白峰で、毎年7月18日前後の土曜日の晩に、街の中央で踊られる。7月18日は、越の僧泰澄が白山を開山したとされる日であるが、白峰では泰澄が白山から下山したとされている。「かんこ」とは、「神迎」とか踊り手が脇にかかえる皷(つづみ)を「かっこ」と呼んでいるからという説があるが定かではない。おどりは、男女、3人ずつが交互に円を描くように踊る。男性は、白装束に浅葱袴(あさぎばかま)にたすきをかけ右手に皷を持ち、歌に合わせてバチで皷をたたく。女性は、巫女装束で金色の扇子を開き、頭上に上げたりして舞う。歌詞は、8題ある。白山の「河内」地方と「御前」(白山)のことを記した作品で、3題目には、「河内の奥に煙が見える いねや出て霞か雲か 御前の山が焼けるのか お山の焼けの煙とあらば のうのが手を引け んなんぼをおぶせ そしておんじの裏山へ」「いね」=母親・妻、「おんじ」=山のかげ、「のの」=祖父、「んなんぼ」=幼児・一番末の男児、と白山の噴火活動に伴う避難の事を記しるされている。この踊りは、もともとは、白峰より南東約10㎞に位置する河内(こうち)と呼ばれた地区に伝わった踊りである。装束は本来、男女ともに野良着であったが、大正時代に白峰地区で踊られる頃に、現在のスタイルになった。また、同じ踊りは、白山の尾根を西に跨いだ大野市打波地区にも伝わる。三重県津市白山地区や松坂市にも同様な踊りがある。昭和35年5月27日に石川県指定無形民俗文化財に指定されている。現在は、ほかの民俗芸能も合わせた「白山祭り」の中で踊られる。
メタデータ
かんこ踊り
資料集
062_065_かんこ踊り
かたがり地蔵
白山町地内の県道沿いに安置されている。凝灰岩製の地蔵菩薩坐像。形態は半跏趺像。明治32年までは、不動明王像とならんで鶴来今町の舟岡山の麓の岩塊に掘られていた磨崖仏。七ヶ用水造成工事により、岩から切りはがされ現在の場所へ安置された。もともと岩塊にかたがって彫られていたため「かたがり地蔵」の名称となった。切とられた岩は、高さ約2.7m、幅約2.7m、厚さ約1.1mを測る。像は高さ1.4m、幅1.05m、厚さ0.65mを測る。彫り込みの深さは、最深部で25㎝を測る。右手に錫杖を持つ。顔部は岩の性質から表現されていない。像の向かって右側には長方形の凹みと陽刻された小さな五輪塔群がみられる。いずれも像の掘方の外側にあり、後に刻まれたものと見られる。上段のものは左腕の横に1基あり、高さ43㎝を測る。中段には、はっきり確認できるものが2基あり、高さ30㎝を測る。中段には、はっきり確認できるものが2基あり、高さ30㎝を測る。さらに像寄りに不整形のものが1基見えるが、五輪塔か否か判断しがたい。下段は像の足下に6基ある。中央に4基、そして1基分の空間をおいてむかって右に2基ある。塔の規模は上段のものが最も大きく、下へ行くに従って小さくなっている。形状を見ると地輪は低く、水輪は扁平、火輪は縦長で軒反りが顕著な特徴が窺える。刻出は室町時代後期とみられる。この地蔵は、小石を供ええると足の病気が治り、箸を供えると歯痛が治ると言い伝えがあり、人々の信仰の対象となっている。また、白山を開山した泰澄が自らの姿を彫った像ともされ「泰澄像」としても親しまれている。
メタデータ
かたがり地蔵