米倉寺
米倉寺の本堂に、左甚五郎の作といわれる雌雄の龍がある。あるとき、この二頭が喉を潤すため、葛川に出て水を飲み、のそのそ寺に帰ろうとするとき、洗濯婆さんに出会った。
婆さんは驚きのあまり腰を抜かし、しばらくは口もきけぬ有様であったそうな。このことがあって、再び龍が外出しないように、二頭とも両眼を鋸でひき潰したので、その歯跡が残っているという。
#左甚五郎
資料集
165_176_米倉寺
桃原寺
浄土真宗本願寺派慶谷山桃原寺は口承によれば、1,000~1,200年ほど前に遡ると言われ、創建の地とされる医王山(富山県と石川県の県境)には「桃原寺」という地名が残っています。その後、その後早月川上流の虎谷、角川下流の慶野から現在地へ移ってきました。永正7年(1510)虎谷の地に仏閣があったころに真言宗から浄土真宗へ改宗しました。
本堂内陣の欄間には魚津市指定重要文化財に指定されている龍の彫刻があります。この龍が水を噴くと火事があるという言い伝えがあり、火災を予知し、水を噴くことで寺をお守りしてくれていると崇拝され、『水噴きの龍』と言われています。しかし、時々暴れ回って田畑を荒らして人々を驚かすので棕櫚縄で縛りつけて動けないようにし、左目に五寸釘が打たれています。昭和18年(1943)、昭和31年(1956)の魚津大火にも桃源寺が焼け残ったのは、この水噴きの龍のおかげといわれています。
水噴きの龍はお寺の本堂の中にあるので、扉の鍵が開いているときにだけ見られます。現在の建物は、部分的な増改築がなされているものの、江戸時代後期に東弘寺(高岡市)の伽藍(がらん)の一部を移築したと伝えられています。
桃原寺は、慶長年間に慶野から当地 (魚津城の外堀付近)に移ってきました。飛騨の名匠の製作になるという山門をく ぐって本堂へ入ると、正面の欄間に龍の彫刻があり、「左甚五郎の作」と伝えられています。
この龍は、しばしば欄間から抜け出 し付近の泥田で水遊びをして人びとを驚かせたり、龍が水を噴くと必ず火事が あるという言い伝えがあります。昭和十年 (1935年 )、龍が水を噴いた という噂が立ってから近所で火災があり、その後また水を噴いてあばれたので 、棕櫚縄で縛りつけて動けないようにしたといわれています。昭和十八年 (1943年)と三十一年(1956年)のそれぞれの大火にも桃原寺が焼け残っ たのは、この水噴きの龍のお陰といわれています。
#左甚五郎
資料集
166_177_桃原寺
長国寺
真田家の菩提寺
真田山の山号を持つ、真田家の菩提寺。真田家歴代藩主の墓があるほか、信之、信弘の御霊屋があります。信之の御霊屋は重要文化財に指定されており、破風(はふ)の鶴は左甚五郎(ひだりじんごろう)、格天井(ごうてんじょう)の絵は狩野探幽(かのうたんゆう)筆と伝えられています。
#左甚五郎
資料集
167_178_長国寺
誕生寺
誕生寺は、日家上人により建治2年(1276)に創建したと伝えられる日蓮宗の寺院で、明応7年8月(1498)と元禄16年(1680)に地震と津波により七堂伽藍を失う被害を受けた。その後再建された現存の仁王門は、宝永3年(1706)に建立されたものである。仁王門は5間3戸の楼閣門で、下層に和様三手先、上層に唐様三手先の組物を持ち、本蟇股の中備としている。いくつかの装飾の中でも、楼上に見える般若の彫刻は左甚五郎の作と伝えられている。幾度かの修理を経て、部分的な改変はあるものの全体として創建時の様子をとどめており、県内では最大規模の仁王門として貴重な建造物である。
#左甚五郎
資料集
168_179_誕生寺
神野寺
神野寺は、房総三山の一つで、信仰と伝説の山として知られる鹿野山上に建つ真言宗智山派の古刹です。広い境内は雄大な規模を誇っています。寺伝では聖徳太子によって創建されたといわれています。杉木立に囲まれた境内には仁王門、本堂、経堂、六角堂、鐘楼堂、五重の石塔などがあります。運慶、左甚五郎の作といわれる彫刻や国の重要文化財である表門などがあり、由緒ある寺として知られています。
#左甚五郎
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169_180_神野寺
浄願寺
太平洋戦争中に供出された梵鐘は<吉原鐘>と呼ばれ、1799年に住職と
江戸吉原の人々と縁あって、浅草や吉原の人々から贈られた鐘であった。
その由来を書いた掛軸は今も残されている。
歌人・北原白秋が戦前に浄願寺に立ち寄った際に詠んだ句碑がある。
<梅雨はれて吉原鐘に人のほる>
浄願寺は親鸞聖人の弟子によって開創されたと伝えられ、1469年現在地に
移転したといわれている。
(1)寺名:浄願寺(じょうがんじ) (2)住所:岐阜県高山市丹生川町坊方1086
(3)山号:両足山 (4)宗派:真宗大谷派
(5)開山:実心坊浄観 (6)開創:不詳 (7)本尊:阿弥陀如来
(8)その他
1)本堂:市指定文化財 1751~64年
鐘楼:市指定文化財
2)吉原鐘鐘銘(掛軸):市指定文化財 1799年
3)大原正純漢詩額:市指定文化財
4)猿の彫刻(本堂柱):左甚五郎の作と伝える
#左甚五郎
資料集
170_181_浄願寺
書写山圓教寺
西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である[4]。京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。
境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、3つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分される[6]。伽藍がある標高371mの書写山は、兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている。
山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある[8]。室町時代の応永5年(1398年)から明治維新まで女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)に札を納めて帰った。
歴史
書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する[15]。創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる[15]。また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる。
性空の生年については、西暦903年説、910年説、928年説があるが[16]、『性空上人伝記遺続集』(三千院所有、重要文化財)によれば、性空は延喜10年(910年)の生まれで、貴族の橘氏の出身であったという。性空は出家した時、すでに36歳であり、それから約20年間、霧島山、脊振山など九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966年)の57歳の時、書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりであるとされる]。入山して4年目の天禄元年(970年)[21]、天人が書写山内のサクラの霊木を賛嘆礼拝するのを見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木のサクラに如意輪観音の像を刻み、その崖に3間四方の堂を建てた。これが如意輪堂(現・摩尼殿)の創建であるという。
性空の伝記や説話は『性空上人伝記遺続集』のほか、『元亨釈書』、『今昔物語集』などにも見られる[24]。それらによると、性空は俗事を厭い、栄華や名声に関心がなかったが、都の皇族や貴顕の崇拝が篤かったという[26]。なかでも性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)に来山して、圓教寺の勅号を与え[27]、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされる[28]。花山法皇以外にも、後白河法皇[29]や後醍醐天皇[30]など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われている。
花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教えるという意味がある。円の形(輪円)は欠けたところがなく、徳において最も成就した状態を象徴していることから、自己を完成する道を教える寺の意となる。
武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている[34]。ただし史実である確証はない。一遍、一向俊聖、国阿らの時衆聖らが参詣したことでも知られる。一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。
天正6年(1578年)、織田信長より中国地方征伐を命じられた豊臣秀吉が、播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを近江の長浜に持ち帰った[1][35]。その後、天正8年(1580年)に、長浜より如意輪観音像だけが戻された[1]。この摩尼殿の本尊は、性空の如意輪観音像と同木同作の如意輪観音であり、性空の生木如意輪観音像は、延徳4年(1492年)の[36]真言堂からの火災により、蓮鏡院、如意輪堂とともに焼失している。
開山堂
圓教寺開山の性空上人をまつる堂。
書寫山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け朝夕欠かさず勤行がおこなわれている圓教寺奥之院の中核。
現在の建物は、江戸初期の開山堂建築の代表作。
軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名。
(国指定重要文化財)
#左甚五郎
資料集
171_182_書写山圓教寺
熊野速玉大社
熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、和歌山県新宮市新宮1にある神社。熊野三山の一つ。
熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。
境内地は国の史跡「熊野三山」の一部。2002年(平成14年)12月19日、
熊野三山が史跡「熊野参詣道」から分離・名称変更された際に、
御船島を含む熊野速玉大社境内が追加指定された。
2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の
構成資産・大峯奥駈道の一部。
歴史
創建年代は不詳である。
熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、
熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる。
また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれる。
熊野夫須美大神は伊邪那美神とされる。
もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、
いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。
神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。
1871年 – 近代社格制度のもとで熊野速玉神社として県社に列格。
1883年(明治16年) – 打ち上げ花火が原因で社殿が全焼。
1915年(大正4年) – 官幣大社に昇格。
1967年(昭和42年) – 社殿を再建。
2004年(平成16年)7月1日 – 「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産に登録。
国宝
古神宝類(細目は後述)
木造熊野速玉大神坐像・木造夫須美大神坐像・木造家津御子大神坐像・
木造国常立命坐像(2005年〈平成17年〉6月9日指定)
重要文化財
木造伊邪那岐神坐像(1899年〈明治32年〉8月1日指定)
木造伊邪那美神坐像(1897年〈明治30年〉12月28日指定)
木造皇太神坐像(1899年〈明治32年〉8月1日指定)
?漆金銅装神輿(?〈きゅう〉は「髟」に「休」、きゅうしつこんどうそうしんよ)
(1897年〈明治30年〉12月28日指定)
?漆金銅装神幸用船(きゅうしつこんどうそうしんこうようふね)(1897年〈明治30年〉12月28日指定)
太刀 銘正恒(附・糸巻太刀拵)(1913年〈大正2年〉4月14日)
史跡
熊野三山 – 熊野速玉大社境内(神倉神社境内地および千穂ヶ峯の一部含む)
および御船島(速玉大社社地)は史跡「熊野三山」の一部である。
天然記念物
梛の大樹
梛の大樹 – 国指定名は「熊野速玉神社のナギ」(1940年〈昭和15年〉2月10日指定)[12]。
高さ20m(17.6m[13])、幹周り6m(5m[13])、
推定樹齢1,000年、ナギとしては国内最大であるとされる[13]。ナギはマキ科の常緑高木であり、
よく神木として植樹された[13]。本樹は雄株であるが、
幹に分岐が見られることからもとは数株であったともされ、
平治元年(1159年)社殿の落成において熊野三山造営奉行であった平重盛の手植と伝えられる。
ナギは凪に通じることから[13]、ナギの実を束ねたものやナギの枝を護符にする。
ナギの木は、熊野杉や天台烏薬とともに新宮市の「市の木」に指定されている。
市指定文化財
熊野懐紙模本(書籍・典籍、1989年〈平成元年〉3月25日指定)[15]
速玉大社の棟札(書籍・典籍、1989年〈平成元年〉3月25日指定)[16]
紙本著色新宮本社末社図 附新宮末社図(書籍・典籍、1989年〈平成元年〉3月25日指定)[17]
速玉大社のオガタマノキ(天然記念物、1964年〈昭和39年〉6月8日指定)[18]
速玉大社のボウラン(天然記念物、1964年〈昭和39年〉6月8日指定)[18]
古神宝類
当神社所蔵の総数1,000点を超える古神宝類は、1955年(昭和30年)6月22日、
一括して国宝に指定された[19]。ここで言う「神宝」とは、
祭神の所用具として製作・奉納された服飾・調度類のことで、
上述の第一殿から第十二殿に祀られる祭神のために作られた神服、
蒔絵手箱、銅鏡、弓矢、染織用具などが含まれる。当神社の古神宝類は、
『熊野新宮御神宝目録』により、明徳元年(1390年)に奉納されたものとわかる。
神宝の中には後に補充されたものもあるが、中世の工芸品の基準作例として貴重である。
これらは境内の熊野神宝館にて保存、公開している。
指定物件の細目は以下のとおり(国宝指定時の名称に基づく)。
袍(ほう)1領(萌黄浮線綾丸文固綾)
直衣(のうし)1領(白龍膽文綾)
衵(あこめ)18領(蘇芳小花文銀襴1、香雲立涌文固綾3、
萌黄小葵浮線綾丸文二重織2、経縹緯白小葵文固綾1、淡紅小葵文固綾3、
萌黄小葵文固綾7、淡香小葵文綾1)
薄衣(うすぎぬ)12領(萌黄幸菱文固綾8、白遠菱文固綾1、白幸菱文固綾1、
淡紅幸菱文固綾1、白小葵文固綾1)
唐衣(からぎぬ)9領(緯白小葵文浮織7、萌黄小葵文固綾1、蘇芳蓮唐草文銀襴1)
表袴(うえのはかま)2腰(白?霰文二重織1、緯白椿唐草文固綾1)
指貫(さしぬき)1腰(濃香雲立涌文固綾)
海賦裳(かいぶのも)8腰(白小葵文固綾)
衾(ふすま)8帖(朽葉人物花唐草文繻珍1、白小葵文固綾1、黄地浮線綾丸文唐織物6)
平裹(ひらづつみ)1帖(黄地浮線綾丸文唐織物)
衣残欠 2口(濃香小葵文綾1、白遠菱文綾1)
衣残欠 1口(香小葵文綾)
袴残欠 3口(紅平絹)
袴残欠 5口(紅平絹)
袴残欠一括(紅精好)
両面打組紐残欠 6条
冠 1頭・松喰鶴蒔絵冠箱 1合
挿頭華(かざし)30枝
木笏 1握・梛蒔絵笏箱 2合
玉佩(ぎょくはい)2旒・桐蒔絵玉佩箱 1合
義髻 28条
彩絵檜扇 10握
紅帖紙 21帖 附:懐紙 3帖
錦包挿鞋(そうがい)2双・唐花蒔絵挿鞋箱 2合
松喰鶴蒔絵御衣箱(みぞばこ)4合
赤地小葵文錦包木枕 1箇 附:赤地錦袋 1口
銀蒔絵衣架 12具
金銀装鳥頸太刀 2口 附:平緒残片1枚、赤地錦袋2口、朱塗太刀唐櫃1合
朱塗弓 2張 附:赤地錦弓袋 1口、朱塗弓唐櫃 1合
桐文蒔絵平胡?(ひらやなぐい)1具・金銅鏑箭 2隻・金銅箭 28隻
桐文蒔絵平胡? 1具・金銅鏑箭 2隻・金銅箭 28隻、附:赤地錦袋1口、朱塗平胡?櫃1合
鉄桙(ほこ)2口
鉄桙 2口
銅鏡(桐樹双鶴文、桐唐草双鶴文、桐唐草双鶴文、籬菊双鶴文、籬菊双鶴文、
牡丹双鶴文、*菊唐草双鶴文、梛双鶴文、梛双鶴文、松楓双鶴文、松楓双鶴文)
以上各附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口
銅鏡(松竹双鶴文)附:黒漆平文鏡箱 1合
桐蒔絵手箱 1具(内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀歯黒箱2合、銀白粉箱2合、
銀薫物箱(たきものばこ)2合、銀鑷(けぬき)1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、
銀眉作1本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿3口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、
桐蒔絵櫛箱 1合 附:赤地錦袋1口)
桐蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
桐唐草蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
籬菊蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
牡丹蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
橘蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
菊唐草蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
唐花唐草蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
唐花唐草蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
梛蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
松楓蒔絵手箱 1具(内容品の細目略)
手箱内容品
銀鑷(けぬき)1箇
銀鋏 1箇
銀耳掻 1本
銀髪掻 1本
銀解櫛(ときぐし)3枚
銀覆輪櫛(ぎんふくりんくし)4枚
蒔絵櫛 28枚
白銅鏡 6面
桐蒔絵硯箱 1合
水晶玉 4顆 附:赤地錦袋4合
松鶴蒔絵苧笥(おけ)2合
松喰鶴蒔絵?(かせ)2枚
金銅?(つむ、金偏に「專」)1双
銀縫針 7本
朱塗唐櫃 12合
金銅?(かぎ、金偏に「巣」)1箇
朱塗案 12基
金銅装唐鞍 1具
金銅壺鐙(つぼあぶみ)1双
金銅轡(くつわ)1双
金銅杏葉 17箇
朱塗鞭 1本 附:赤地錦袋1口
金銅装錦包懸守 1懸
〒647-0081
和歌山県新宮市新宮1
TEL 0735-22-2533
(引用)
http://kumanokaido.com/hayatama/
#左甚五郎
資料集
172_183_熊野速玉大社
和歌浦天満宮
学問の神様である菅原道真が祀られ、大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれています。建築にあたったのは紀州根来出身の平内吉政・政信親子。後に政信は江戸幕府の作事方大棟梁になった当代屈指の工匠です。楼門は一間楼門として最大規模。本殿は国重要文化財で、内外部ともに美しい極彩色が施されています。
延喜元年(901年)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊した。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠んだ。その後、村上天皇の康保年間(964 – 968年)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされる。また、道真が立ち寄った際に、敷物がなく、漁師が船の艫綱を敷物(円座)にして迎えたといい、綱敷天神とも称せられるという。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神として尊崇されている。
なお漁師が船の艫綱を円座にして道真を迎えた故事は神戸市須磨区の綱敷天満宮にも伝わっている。明石海峡に近い須磨と紀淡海峡に近い和歌浦の双方を道真の一行が訪れたとは考えにくいが、いずれが道真一行の取ったルートであったかははっきりしない。
全国に天満宮と称する神社は数多くあるが、江戸時代の朱子学者で、徳川家康のブレーンも勤めた林羅山は、元和7年(1621年)、この地を訪れ、和歌浦天満宮は太宰府天満宮、北野天満宮と共に由緒がある神社であると言っている。
社殿は、豊臣秀吉の天正13年(1585年)の兵火の後、桑山重晴、浅野幸長により再建された。浅野幸長は、慶長9年(1604年)〜同11年(1606年)にかけて天神山の中腹を開墾して社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建したが、これが現存する天満神社である。本殿奥や楼門前面の石垣も、この時造られたものである。再建された本殿、楼門など4棟が重要文化財に指定されている。本殿は桁行五間・梁間二間の入母屋造で、装飾性の豊かな桃山建築である。正面の楼門は一間一戸門としては最大級で、禅宗様を取り入れている。本殿、楼門等の建築や彫刻には、江戸幕府御大工棟梁の平内政信(へいのうちまさのぶ)が関わった。
資料集
160_171_和歌浦天満宮
紀州東照宮
紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)は、和歌山県和歌山市和歌浦に鎮座する神社。江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東照大権現と紀州藩初代藩主徳川頼宣を神格化した南龍大神を祀る。
元和7年(1621)、頼宣が南海道(なんかいどう)の総鎮護(そうちんご)として創建された社殿は、「関西の日光」とも呼ばれ、権現(ごんげん)造りとなっています。
また、江戸初期の代表的な重要文化財建造物としても有名です。
漆塗・極彩色の精巧な彫刻、狩野(かのう)・土佐両派の絵による豪華さに目を奪われ、特に左甚五郎(ひだりじんごろう)作の彫刻や狩野探幽(かのうたんゆう)作の壁画は必見です。
鮮やかな色彩を目のあたりにすると、当時の時代が壮麗な絵巻物となって浮かんできます。
#左甚五郎
資料集
161_172_紀州東照宮
定光寺
定光寺(じょうこうじ)は、愛知県瀬戸市定光寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は応夢山(おうむざん)。本尊は延命地蔵願王菩薩(地蔵菩薩)。桜や紅葉の名所としても知られている。寺域に隣接して尾張徳川家初代徳川義直の廟所である源敬公廟があるが、尾張徳川家の菩提寺ではない。
廟所参道第一門である「獅子門」の左右には左甚五郎作といわれる獅子の彫刻が一面に施されている。獅子の彫刻は、聖域の守護という意味を持つことから、廟を守る第一門に刻まれたといわれている。
#左甚五郎
資料集
162_173_定光寺