勝山城博物館
勝山城博物館は、勝山市の名誉市民第一号に選ばれた多田清さん(明治38年1905~平成3年1991)が平成元年から3年の歳月をかけて建設し、平成4年7月に開館いたしました。同時に財団法人多田清文化教育記念財団が設立され運営にあたってまいりました。財団は平成25年度よりさらに公益性の高い公益財団法人として認められ、現在にいたっています。
江戸時代、小笠原氏が治めた勝山藩には天守はありませんでした。早い段階で建設計画はあり、幕府の認可も降りていましたが、財政が苦しく実現しないまま明治を迎えました。昭和も後半に入ると勝山藩や勝山城の遺構は次々と失われていきました。多田さんは勝山にかつて一つの藩が確かに存在したということを、博物館建設という形で実現し、現在の勝山市の新たな顔の一つとしてこの博物館を築きました。
資料集
038_041_勝山城博物館
首里城
首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものである。
首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられている。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在する。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であった。他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまったが、首里城はグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたのである。
首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあったのである。
1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。1930年代には大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいる。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録された。
(引用:http://oki-park.jp/shurijo/about/)
焼失後
古川祭
古川祭(ふるかわまつり)は毎年4月19日、20日に岐阜県飛騨市古川町(旧 吉城郡古川町)で開催される気多若宮神社の例祭。「神輿行列」と祭りの開始を告げるために打ち鳴らしたといわれる「起し太鼓」と、絢爛豪華な9台の「屋台巡行」からなる。国の重要無形民俗文化財に指定ならびに、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。
その起源は定かではないが、文献に最初に登場するのは屋台が1776年(安永5年)、起し太鼓が1831年(天保2年)である。
古川祭は古くは旧暦の8月6日(太陽暦の9月上、中旬頃)に開催されていたが、1886年8月に疫病が流行し例祭ができなくなったことから11月に変更された。また1887年(明治20年)より春祭へと変更し4月16日、17日としたが、1889年(明治22年)より現在の日程となった。
1980年(昭和55年)1月28日に「古川祭の起し太鼓・屋台行事」として国の重要無形民俗文化財に指定された[1]。また、日本三大裸祭りの一つに数えられる。
2016年(平成28年)10月には、18府県33件の「山・鉾・屋台行事」の中の1件として、ユネスコの無形文化遺産に登録勧告され、同年12月1日に登録された。
獅子舞
神幸行列の獅子(宮本)と屋台の獅子(神楽)の2種類がおり、神幸行列及び屋台巡行それぞれの露払いとして、各家々で獅子舞を舞い門付けしてゆく。
起し太鼓と付け太鼓
文献の上では、1831年(天保2年)に初めて登場する。通常例祭が行われる際には祭の開始を告げるために氏子地内を太鼓を鳴らして回る風習は各地に見られるが(朝太鼓・目覚まし太鼓・一番太鼓)、この太鼓行事そのものが独立した行事となったことが特徴的である。4月20日の本楽祭の開始を告げるために、19日の深夜から太鼓を鳴らして氏子地内を巡ったことが始まりである。太鼓を乗せた櫓を「起し太鼓主事」と呼ばれる当番組が担ぐ。その太鼓の上の両側に男がまたがり、その両側より交互に太鼓を鳴らす。この太鼓をめがけて各台組の付け太鼓(現在は12本存在する)と呼ばれる小さな太鼓が突入する。この付け太鼓は幕末頃より加わったものといわれ、元来この地域の人々は「古川ヤンチャ」といわれる激しい気性が有名であり、これによって起し太鼓も非常に荒々しいものとなった。そのため幾度となく「付け太鼓禁止」が出されたが、1901年(明治34年)に解禁になり現在に至る。
屋台
古川の屋台は1782年(天明2年)当地に来遊した近江の俳人、林篁の記した「飛騨美屋計」の一節で、9台の「屋台」が曳行した様子を知ることができ、当時すでに屋台文化が花開いていたものと推測されるが、各屋台組に残る記録・伝承からはその検証は難しい。屋台の形式や記録より近隣の高山祭の屋台の影響を受けたことは間違いなく、高山の中古屋台を譲り受けた記録もみられる。江戸時代には中段から舞台を出して、子供の歌舞伎・踊り、又はカラクリ人形を操るなど、全屋台に出し物があった。現在は白虎台の子供歌舞伎、青龍台・麒麟台のからくり人形が残る。現存する屋台9台は、「古川祭り屋台」として1970年(昭和45年)8月11日、岐阜県重要有形民俗文化財に指定されている[4]。
神楽台(向町組)
1840年(天保11年)二之町中組より屋台を譲り受けたのが始まりである。これを黄鶴台と名づけ、その後朱雀台と改名したが、間もなく廃台とした。1883年(明治6年)高山一本杉白山神社より神楽台を譲受け神楽台組を創設、神楽囃子、獅子舞と共に奉仕するようになる。1889年(明治22年)屋台の破損甚だしく、高山の工匠、村山英縄、古川の住人、西野彦次郎、同彫師蜂屋理八等の手により改修する。1925年(大正14年)より解体修理し現在に至る。この屋台は大きな御所車2輪と後部に内輪との3輪である。上段中央に枠をたて金色大太鼓を吊る。枠上に二羽の大鳳凰後面中段より上段にかけて神旗二本を立てる。烏帽子、直垂姿の5人衆が神楽囃子を奏し、獅子舞を行うのはこの屋台だけである。4月19日の午前に気多若宮神社より御分霊を賜る。また屋台主事を担当せず、屋台曳揃え時には常に先頭を行く。
三番叟(壱之町上組)
創建年代不詳(1754年(宝暦3年)8月の説あり)であるが、1894年(明治27年)以後になると老朽化から曳行中止し、1904年(明治37年)8月の古川大火のとき、大部分を消失した。現存するのは、猩々緋大幕と女三番叟踊りのからくり人形だけである。人形の製作年代・作者とも不明であるが、13本の綱を5人で操作するこの人形踊りの複雑巧妙なことは当町一番である。現在は屋台の所有がないため、例祭においては台名旗(屋台の名称を記した旗)のみ曳行に参加する。また当台組は神楽台に続き2番目に曳揃えられることになっており屋台主事は行わない。
鳳凰台(壱之町中組)
初代の屋台は文化年間(1804年~1817年)にあったと伝えられているが、1891年(明治24年)に廃台し、現在のものは1917年(大正6年)に竣工したものである。この屋台はやや小ぶりであるが、金具や飾りがきらびやかであり、その名の通り屋根には大鳳凰を飾る。見送りは長谷川玉純の「鳳凰の絵」上部を二匹の自彫飛竜がくわえている。
麒麟台(壱之町下組)
一番初めの屋台は文久年間(1861年~1863年)につくられたが、1865年(慶応元年)2月25日の大火により焼失した。1881年(明治14年)に再びつくられたが、1924年(大正13年)の祭りを最後に廃棄した。現在の屋台は3代目にあたるが、設計製作は名工上谷彦九郎が担当し、1933年(昭和8年)に完成したものである。1978年(昭和53年)より古い屋台にあったからくり人形を復活させた。見送りは前田青邨の「風神雷神の図」、替見送りは玉舎春輝の「日本武尊東征図」である。
三光台(弐之町上組)
創建年代は不明であるが、古くは竜門台と称し、のち三光台と改めた。三光とは日・月・星の意味である。現在の屋台の設計は、当町の加藤理八が設計し飛騨の名工石田春皐によって、1862年(文久2年)に完成したものである。その後、度々の改修により精巧華麗なものとなった。 見送りは幸野楳嶺の「素盞男命八股大蛇退治の図」がある。
金亀台(弐之町中組)
創建は安永年間(1772年~1780年)<貞享年間(1684年~1687年)の説あり>で、1840年(天保11年)に向町組に譲る。現在のものは1841年(天保12年)6月に竣工したもので、1902年(明治35年)と1926年(大正15年)に修理した。見送りは「双龍図」といい古代つづれ織りで雲に双竜の織出し、下方は波に虎で本金を織り込んでいる。天保年間(1830年~1843年)に購入したもので唐渡品という。四方ベリはテレフチンという生地。裏は印度更紗でできている。替見送りは塩瀬生地で鈴木松年の「亀上浦島の図」である。
龍笛台(弐之町下組)
初代の屋台は安政年間(1854年~1859年)に作られたものである。現在の屋台は1884年(明治17年)に着手したもので、1886年(明治19年)に竣工したもので古川祭の屋台で一番大きな屋台である。上段天井には竜が描かれ、見送りの「雲竜の図」とともに、京都の垣内雲麟の作品である。体をくねらせ、両側から見送りを抱えるようにした昇り竜、降り竜の彫刻は名作である。
清曜台(三之町上組)
1818年(文政元年)の創建で三之町全体の所有で、扇子台と称していたが抽選により下組と分離して三之町上組の所有となり、台名も清曜台と改めた。1893年(明治26年)祭礼当日曳行中に転倒し大破した。現在の屋台は1933年(昭和8年)から8年間をかけて、大工棟梁、上谷彦九郎によって新築をし、1941年(昭和16年)4月に竣工した。清曜の名にふさわしく清楚な姿を特徴としている。見送りは元公爵近衛文麿の「八紘一宇」である。替見送りは今尾景祥の「海浜老松の図」である。
白虎台(三之町下組)
以前は三之町全体で扇子台を所有していたが、三之町上組との抽選で扇子台を失ったことから1842年(天保13年)5月に完成した。これは古い形式を維持したもので下段が高く、彫刻や金具や装身具が少ないものであった。屋台の老朽化に伴い1943年(昭和18年)に曳行を中止した。1981年(昭和56年)~1984年(昭和59年)に大改修を行い現在に至る。当時の古い形式を現在にとどめる。また見送りをもたず、創建当時に演じられていたという子供歌舞伎を復活させ「橋弁慶」を演じる。下段の猩々緋幕は南蛮渡来のものであり、外に類を見ない貴重なものである。また屋根に千木(ちぎ)ではなく御幣(ごへい)をつけているもの非常に特徴的な屋台である。上段に源義経の武者人形をのせる。台紋は源義経を尊崇していたことから源氏の家紋である笹竜胆(ささりんどう)である。
青龍台(殿町組)
初代の屋台は創設年代は不明であるが、1817年(文化14年)以前に存在した記録が残る。その後、高山の山王氏子の黄鶴台を天保年間(1830年~1843年)に譲りうけ、1859年(安政6年)に玄翁台と改め、1861年(文久元年)に修築して、青龍台と名づけた。1926年(昭和元年)、1940年(昭和15年)に大改築して現在に至る。金森可重が増島城を築き、そのお膝元(殿町の名もこれに由来する)であったことから、台紋は金森氏の家紋であった梅鉢紋を掲げる。この屋台の車輪は外御所車であることが特徴である。(ちなみに高山春祭りにおける青龍台も高山城のお膝元であった青龍台が同様に梅鉢紋を掲げる)。からくり人形は福禄寿と童子の人形を操っている。見送りは、堂本印象の「昇天龍」である。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B7%9D%E7%A5%AD)
資料集
142_152_古川祭
亀塚古墳
<立地と環境>
本古墳は、歩み山丘陵の北端が埋没する所に在って、荒城地区と広瀬地区の出合いである。現在国府小学校校庭となっている。近隣には、十王堂古墳が東北400mに在り、北150mに芦原古墳が在る。この地は国府町の中枢である。
<調査の経緯>
明治42年の『飛州志』によると、こう峠口古墳及び広瀬古墳のことが広瀬窟として紹介されている。したがって2つの古墳は、明治42年以前に盗掘されていることが知られている。明治28年7月発行の『飛州』の広瀬亀塚発掘記事(岡村季(り)坪(へい))によると、明治28年4月、この墳墓を壊して小学校を建てたとある。明治29年の小学校の落成写真を見ると校舎の左側に一部古墳が残っているのが確認できる。
また、大正7年の運動場拡張工事で亀塚古墳は完全に破壊された。大正7年の土砂取除き作業当時の写真は次の通りである。
<遺構と遺物>
墳丘は失われて古墳の規模を詳しく調査することができないが、ただ1つ当時の古墳の大きさを知る資料として、明治21年の広瀬町村の野(の)取(とり)丈量帳(じょうりょうちょう)の測量図によれば東西で73m、南北で70mを推定することができる。
また、明治28年7月号の飛州の記事(岡村季坪、「岡村利平の事」)では墳墓の大きさを記述している。一部抜粋すると「墳墓の周囲120間(218.4m、直径69.4m)、高さは5間(9.1m)、円形でアーチ形をしている。その形が亀の甲に似ているというので亀の字を用いたのであるが、瓶塚(かめづか)と書く一説もある。」
広瀬町村大塚(亀塚)の測量図が岡村季坪の斐太温古志料「楲田之(ひだの)玉(たま)秧(お)」吉城郡三に書かれている。その測量図によると古墳の基底が凡(おおよ)そ34間(61.9m)とあり、大きな違いは、野取丈量帳では亀の頭に似た出張り部分があるが、岡村季坪の斐太温古志料『楲田之玉秧』では、この部分が無いことである。おそらく明治21年から小学校建設当時の明治28年4月の間に削られたと思われる。亀塚古墳の基底の直径は、明治21年当初は70m前後の2段築成の円墳であった。
「土砂の芝生を均す工事にかかり、頂上の芝生より4尺~5尺も掘り下げたところ、川石を畳のように敷き、其の隙間を粘土で充たした、凡そ2間(3.64m)、幅凡そ6~7尺(10.92m~12.74m)の溝のような堀にあたった。西側の方から鉄鎧、鉄兜各1、両刃刀、片刃刀各数本、東側から両刃刀、片刃刀各数本、鉄鏃凡そ50程出土した。北側は偏って、石畳はあったが粘土はなかった。其の内より鉾1本、片刃刀1本を発見した。墳は砂と真土とが層をなしていた。工事は元々個人の受負なので日限も切迫してきた。考古学に眼中にない族なので、墳墓は容赦なく破壊される恐れがある。有志者が話し合い彼等と相談して、数日間の奇妙な部分の探検の許可を得たが、十分な調査ができず誠に残念である。」との感想を述べている。
現存する出土遺物は、鉄製鎧(兜含む)、鉄刀2個、鉄鏃11本である。鉄製鎧は三角板皮とじで5世紀前葉と推定できる。
前述のように、亀塚古墳は径70mに及ぶ大円墳であった。多量の武器のほか、全国的にも希有な甲冑を副葬しており、この古墳の被葬者は5世紀前葉の飛騨最大の豪族で、両面宿儺に象徴される飛騨の豪族たちの盟主と亀塚古墳は深い関わりがあることが指摘されている。
明治27年に小学校建設に伴って検出され、今日まで遺存した遺物は次のようである。
⑴武器類
①鉄剣 10本以上
②鉄刀 4本
③鉄鏃 11本
⑵甲冑
①三角板革綴短甲 1領
②肩冑 1具
③頸甲 1具
④三角板革綴衝角付冑及び錣(しころ) 1具
⑶鉄製蓋状鉄器鉄具 1個
【文献】
柏木城谷 飛州30号「広瀬王塚考」 1895
岡村利平 飛州31号「広瀬亀塚発掘記事」 1896
広瀬町 広瀬町村野取丈量帳 1888
岡村利平 斐太温古志料「広瀬亀塚測量図」
春日井市 春日井シンポジウム 2005
国府町史刊行委員会編集・発行『国府町史 考古・指定文化財編』 平成19年発行
資料集
143_153_亀塚古墳
飛騨国分尼寺と条里
奈良時代の古代寺院 飛驒国分尼寺跡
飛驒国分寺より西に770m進んだ位置にあり、JR高山駅西方の市街地に所在する。現在は、辻ヶ森三社の境内地となっている。宮川の支流・苔川に面した沖積世の微高地上に立地する。
大正年間、押上森蔵が辻ヶ森三社社殿下に礎石を発見し、飛驒国分尼寺跡と推定されるようになった。その後、社殿の改築や保育園移転など周辺建物工事に伴い、昭和63年以降5次にわたり発掘調査を行い、金堂を確認した。発掘調査により、桁行7間×梁間4の建物と判明した。基壇の版築も確認され、全体に深さ70㎝ほどの掘り込み地業を行い、高さは残りの良い基壇東側から1.2mと推定さ
れる乱石積み基壇である。
基壇の南側は15~20㎝大の川原石と山石とで敷石を施し、また、金堂の北側では、講堂建設の際に基準とした溝遺構・雨落ち溝、整地土を確認した。
遺物は、奈良時代から平安時代にかけての須恵器・灰釉陶器と瓦が出土した。軒瓦は、飛驒国分寺跡と同笵の軒丸瓦が採集されているが、この国分尼寺で使われていたものとは断定できない。軒平瓦は確認されていない。なお、発掘調査では軒瓦は確認していない。瓦類では、丸平瓦片のほか鬼瓦片が出土しているが基壇内部に包含されていた可能性があり、尼寺創建以前の寺院のものと推定
している。前身寺院があったかもしれない。
明治21年の字絵図調査によって、国分尼寺跡の寺域は小字「辻ヶ森」と「森下」の方約1町の範囲であること、国分寺と国分尼寺を包含する小字境を結ぶラインが条里の痕跡であることが推定された。条里、国分寺、国分尼寺が揃ったことにより、奈良時代の国府政庁は高山盆地にあると確認されている。
資料集
144_154_飛騨国分尼寺と条里
縄文時代の木工技術
寺東遺跡の石斧
寺東遺跡は高山市の郊外、岩井町地内にあって、昭和62年に発掘調査がなされた。岩井町公民館の前に小区画の水田があり、その地区の水田区画整理事業に先立って発掘調査がなされたが、調査前は地形を見る限り低湿地の印象があって遺存在を確信することができなかった。
しかし、表土を除去し、検出を進めると予想外に大量の土器片と石斧、大きめの住居址が検出された。縄文時代中期の住居址6基が発見され、、埋甕施設が各住居址に設けてあった。
特に一つの住居址が数回にわたって建て替えがなされ、そのたびに住居址入口の埋甕が設備し直され、角度を90度変えていた。建て替えをするたびに竪穴を深くし、住居の規模を大きくしていった痕跡が見られた。それは、埋甕の切り合いによって確認され、完形の埋甕土器が一番新しく、当初の埋甕は底部から少しのみのものもあった。寺東遺跡の住居址群は、岩井町地区の平地の狭さにより、建替えを同じ場所にせざるを得なかったと思われる。
また、出土遺物は大量の磨製石斧、硬玉製大珠、石棒、石冠などが出土している。
*「高山市教育委員会 高山市埋蔵文化財調査報告書 第13号『寺東遺跡、西保木(対岸)遺跡発掘調査報告書』昭和63年3月 発行」より
垣内遺跡の石斧
上野町の垣内遺跡からも大量の磨製石斧が見つかっており、しかもノミの機能を果たした小型の磨製石斧も見つかっており、ほぞ穴の建物が4000年前からあったことがわかる。関西方面の同時期の遺跡には無い傾向である。
資料集
145_155_縄文時代の木工技術
東山白山神楽台、飛騨総社
東山白山神楽台、飛騨総社(例年・5月5日の祭礼)
〈県指定〉2基とも昭和34年3月10日に指定
〈所有者(所在地)〉
飛騨総社(屋台蔵・神田町2丁目100番地)
東山白山神社(屋台蔵・鉄砲町60番地2)
〈時代〉江戸時代(19世紀)
〈員数〉2基
屋台(2基)1 神楽台(飛騨総社)2 神楽台(東山白山神社)
神楽(かぐら)台(たい)(飛騨総社)
沿革 飛騨総社を再興した国学者田中大秀(おおひで)の提唱で、初め箱形の台に高欄をめぐらし胴長太鼓をのせて2人で担いで祭礼に巡行したが、嘉永3年(1850)現在の台形に改造した。その後破損休台したが、昭和41年に修理した。
起案者 田中大秀
嘉永改造 工匠 松田亮長(すけなが)
天井雲龍図 垣内右嶙(ゆうりん)
構造 切破風屋根 太鼓昇降
4輪内板車
特色 「屋台神楽」といわれる形式で、屋根を持つ神楽台である。屋根飾りに常(とこ)世(よ)の長鳴鳥(ながなきどり)を配し、上段高欄には源氏物語の中の特に音楽に関連ある巻々の絵と源氏香を配し、下段に富士、鷹、茄子の彫刻を取りつける。見送りは、岩と花に獅子を配した図柄の朝鮮綴(つづれ)である。
神楽台(東山白山神社)
沿革 東山白山神社は往時安川通に鎮座されていたが、金森氏が城下町を経営するにあたり現在地に移された。弘化4年(1847)創建。明治12年(1879)修理。明治24年(1891)に、方形だった大太鼓の枠を丸枠に替え3段形態とした。昭和31年修理。
弘化創建 工匠 谷口与(よ)鹿(ろく)
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 屋根無 太鼓昇降 3輪外御所車
特色 以前使われていた方形の大太鼓枠は、現在は社宝になっているが、谷口与鹿作の2頭の龍の彫刻がからませてある。他の神楽台と異なり、中段に隅切窓を設け、岩、笹、虎を刺繍した緋(ひ)羅(ら)紗(しゃ)の幕を張っている。祭礼時には5人の楽人を乗せて、獅子を舞わせながら神輿行列の先頭を行く。小形であるが、均整のとれた屋台である。
参考文献 『高山の文化財』
資料集
146_156_東山白山神楽台、飛騨総社
秋祭り屋台(10月9、10日)
高山祭屋台
〈国指定〉昭和35年6月9日
〈所有者〉各屋台組 管理団体高山市
〈所在地〉各屋台蔵
〈時代〉江戸時代(18世紀)
〈員数〉23基
日枝神社例祭(4月14・15日、春の高山祭)に12基、桜山八幡宮例祭(10月9・10日、秋の高山祭)に11基の屋台が曳き出される。祭礼行事は、国の無形民俗文化財に指定されている。
秋祭の屋台(桜山八幡宮)
神楽台(八幡・桜町)屋台行列の先頭で囃子を奏す
布袋台(下一之町)布袋と唐(から)子(こ)のからくり
金鳳台(下一之町)神功皇后と武内宿禰の人形
大八台(下一之町)3輪の構造、御殿風の屋台
鳩峯車(下二之町)3輪の屋台、綴錦織幕が優れる
神馬台(下二之町)神馬と馬丁の人形
仙人台(下三之町)唐(から)破(は)風(ふ)の屋根など、古風である
行神台(下三之町)役行者を祭神とする
宝珠台(下三之町)屋根上の大亀が特徴的
豊明台(大新町1)御所車、彫刻など多様な装飾
鳳凰台(大新町1・2・3)谷越獅子の彫刻など気品ある屋台
神楽台 八幡町・桜町
沿革 宝永5年(1708)、以前に金森重勝(左京)から寄進されていた大太鼓を、荷車風のものにのせ、獅子を舞わせて祭礼に巡行した。享保3年(1718)には氏子の有力者風井屋長右衛門が神楽台を新調寄付した。文化12年(1815)に大改造。嘉永年間(1848~1854)に修理。明治37年(1904)に現在の台形に改造された。昭和9年、昭和41年修理。
文化改修 設計 田中大秀
工匠 風井屋長右衛門
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 屋根無 太鼓昇降 3輪外御所車
特色 金森重勝寄進の太鼓は音響遠近にとどろき、文久年間(1861~1864)には他組の嫉(ねた)みを受けて鎌で切りつけられたと伝えられる。祭礼に際しては、侍烏帽子、素(す)襖(おう)姿の5人の楽人をのせ、獅子舞を付随させる。棟飾りの鳳凰と、天照、八幡、春日の3神を表わした金幣束が独特である。
布袋台( 下一之町上組
沿革 創建年代未詳。天明年間(1781~1789)には布袋のからくりが行なわれたと伝えられる。文化8年(1811)、現在の台形に大改修された。大正初年、昭和35年、昭和42年修理。
文化改修 工匠 古田与兵衛
彫刻 中川吉兵衛
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 からくり人形は、36条の手綱で操り、綾渡(あやわた)りと呼ばれる極めて精(せい)緻(ち)巧(こう)妙(みょう)なものである。6段崩しの曲につれ、男女2人の唐子が5本の綾(あや)(ブランコ)を回転しながら飛び伝い、機関(からくり)樋の先端で所作をしている布袋和尚の肩に乗って喜遊すると、布袋の左手の軍配の中から「和(わ)光(こう)同(どう)塵(じん)」と書いた幟(のぼり)が出てくるという構成である。鳥居形の出入口や、下段の上部が中段の役目をするなど、文化年間以来小修理しか行なわれていないため、台形に古趣を豊かに残した屋台である。
金鳳台 下一之町中組
沿革 享保3年(1718)に曳行に加わったという伝承があり、天明年間(1781~1789)に曳行の記録もあり、創建年代は古い。文化年間(1804~1818)に一時休台。文政元年(1818)に再興して、神功(じんぐう)皇后、武内宿禰(たけのうちのすくね)の飾り人形の修理も行なわれた。嘉永5年(1852)に改修。その後数度の修理をする。
文政再興 工匠 古田与兵衛
嘉永改修 工匠 角竹茂助
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 棟飾りとして、台名を象徴する金地の鳳凰が翼を張っている。中段欄間には、四条派風に四季の草花が描かれている。人形の竹内宿禰が抱いているのは応神天皇である。一見地味にも見えるこの屋台は、それだけに文政再興当時の面影をよく残しており、構築上、最も整備された形態を持つ屋台として聞こえ、初期の屋台の風格を偲ぶ優美な屋台である。
大八台 下一之町下組
沿革 文化年間(1804~1818)、文政台組と分かれ、文政元年(1818)に高山で最初の3輪の屋台として創建された。明治41年、昭和30年、昭和46年修理。
文政創建 工匠 光賀屋清七
塗師 輪島屋儀兵衛
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 3輪外御所車
特色 台名の由来ともなっている3輪の御所車(大八車)のうち、外2輪は高山屋台中最大で、直径は1.56mある。屋根飾りには両端に八幡、春日大神を表わす大金幣束を立てる。屋台囃子(ばやし)の名曲「大八」はこの組の作曲で、他の多くの屋台組でこれを崩して使っている。中段は幕を張らず、御殿風の吹き抜けで楽人が見えるようにし、以前はここで雪洞(ぼんぼり)を灯し、青、緑、桃色の直衣(のうし)烏帽子(えぼし)をまとった6人の童子が大八の曲を優雅に奏した。
鳩峯車 下二之町上組
沿革 延享4年(1747)以前の創建で、大変古い屋台である。当時は「大(おお)津(つ)絵(え)」という台名で「外(げ)法(ほう)の梯(はし)子(ご)剃(そ)り」と呼ばれる福禄寿と唐子のからくり人形があった。文政9年(1826)、大破のため休台し、天保8年(1837)に再建された。この時4輪より3輪御所車となり、八幡宮にちなみ台名も「鳩峯車」と改めた。安政年間(1854~1860)にも大破のため休台し、慶応3年(1867)修理、明治27年(1894)大修理、その後も数度の修理を重ね現在に至る。
天保再建 工匠 牧野屋忠三郎・彦三郎
慶応改修 工匠 谷口与三郎宗之
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 3輪外御所車
特色 見送り幕、胴掛け幕は綴(つづれ)錦(にしき)織(おり)の高価なもので、天保再建の際、購入したものである。これだけ贅沢な幕をしかも4方に掛けている屋台は他にない。
神馬台 下二之町中組
沿革 享保3年(1718)から「高砂(たかさご)」の名で曳行したという。明和6年(1769)改造。文化13年(1816)に神馬の人形を新調し、この頃から「神馬台」と呼ばれた。文政13年(1830)再改造。安政年間(1854~1860)、明治35年(1902)修理。その後も数度の修理をして現在に至る。
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 下段4隅の丸柱は中段に突き抜けて、先端に青龍刀をつけ、4神旗をかけている。飾り人形は以前は高砂の翁(おきな)と媼(おうな)の2体であったが、文化9年(1812)に他組に譲り、現在は跳躍する白馬と2人の馬丁の人形を飾る。昔は、別名を暴れ馬といい、祭の時に隣りにあった組などとよくけんかをしたという。紫鱗(うろこ)紋織り出しの大幕に刺繍された大般若(はんにゃ)面が印象的である。屋台囃子には雅楽の越(え)天(てん)楽(らく)を用いる。
仙人台 下三之町上組
沿革 八幡祭の屋台行列は享保3年(1718)の開始と伝えられるが、その頃の屋台「湯(ゆ)の花(はな)」の組が分かれて仙人台の組ができたという。明和~安永の初め頃に仙人台の屋台が造られたのであろう。その後再建し、寛政5年(1793)の記録には「仙人台」の名が見え、当時は久米(くめ)の仙人と美女のからくり人形があった。文政年間(1818~1830)改修。その後数度の修理を重ねて現在に至る。
文化改修 工匠 古田与兵衛・浅井一之(かずゆき)
構造 唐破風屋根 4輪内板車
特色 最も古い形を残した屋台といわれる。以前は他の多くの屋台が唐破風の屋根であったというが、切破風に変わり、この屋台だけが唐破風の古態を残している。屋根飾りには極彩色の剣巻龍を前後に立てている。往時は久米の仙人が、洗濯する美女の美しさに見とれて雲上から墜落するというからくりがあったが、明治初期に廃止され、現在は仙人の像のみが飾られている。
行神台 下三之町中組
沿革 八幡祭の屋台行列の始まりといわれる享保3年(1718)には、屋台4台が曳かれたが、その1台「湯の花」から分かれて創建されたという。天保2年(1831)改修。明治8年(1875)の大火で一部を焼失し、
同16年(1883)に恵比須台より部品を譲り受け再興した。その後明治36年(1903)より破損のため休台したが、昭和26年、大修理をして50年ぶりに復活し、屋台蔵も建造した。昭和43年、昭和59年修理。
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 祭神として、役小角(えんのおずの)(役の行者)の飾り人形を祀り、中段高欄は玉垣、上段高欄の4隅には密教の法具五鈷(ごこ)をさすという形態になっている。これは、当地域が、役小角を崇敬する1人の行者によって開拓されたため、その遺徳を追慕したことに由来する。またこのような由緒から、以前は道開きの屋台として常に神楽台に次ぎ全屋台の先頭を曳いていた。
宝珠台 下三之町下組
沿革 創建年代未詳。安永の頃(1772~1781)の創建説もある。文政11~12年(1828~1829)大改造。その後明治41年(1908)にも改修され現在の台形に改められた。以後数度の改修をして現在に至る。
文政改造 工匠 中洞村喜三郎
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 屋根飾りとして、雌雄の大亀1対と台名に由来する大宝珠3個を飾っている。以前は7色に染め分けられた宝珠を下段高欄に飾っていたが、それは廃され、中段と屋根飾りに金銀の宝珠が飾られている。ケヤキ1枚板の台(だい)輪(わ)は高山の屋台中で最も美しいものといわれる。屋根の亀はこの屋台の名物で、ある朝、この亀がいなくなったので探していると、宮川の水の中にいた。そこに「名工の作った亀は水を求めて川に入る」と書かれた立札が立ててあり、他組のいたずらだったという。
豊明台 大新町1丁目
沿革 創建年代未詳。初めは「芦刈(あしかり)」という台名でからくり人形があったという。天保6年(1835)改造。この頃の台名も八幡宮の祭神応神天皇の豊明宮(とよあけのみや)にちなみ、「豊明台」と改められた。明治33~35年(1900~1902)大改修。その後も数度の修理をして現在に至る。
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 4輪外御所車
特色 もとは天皇の即位する八角形の高(たか)御(み)座(くら)を模した台形であり、明治改修以前まで、下段中段ともに、縁(ふち)の4隅を切って8角形にしていた。現在はその名残りを大幕の部分に残している。屋根飾りの大鳳凰と宝珠、上段の菊花彫刻、中段の牡丹彫刻、中段の白彫りの十二支の彫刻、下段の唐獅子、御所車など、華麗に装飾された屋台である。
鳳凰台 大新町1・2・3丁目
沿革 創建年代未詳。文政元年(1818)に再興され、嘉永4~7年(1851~1854)改修が行なわれた。明治40~43年大修理。その後数度の補修をして現在に至る。
嘉永改修 工匠 谷口延恭(のぶやす)
彫刻 谷口与鹿・浅井一之
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 下段にあるケヤキ白彫りの谷越獅子の彫刻は高山の屋台彫刻中最大のもので、名工谷口与鹿の下絵をもとに、与鹿とその弟子浅井一之によって彫られたという。明治の改修までに3万坪(1坪は3.3㎠)もの大量の金具が打たれている。本見送りは柚原双松筆の鳳凰の綴(つづれ)錦(にしき)織(おり)、替見送りは西村五雲筆の龍の墨絵で、華麗で均整のとれた屋台である。
高山祭り 春12基、秋11基
高山祭りは、春の山王祭りと秋の八幡祭りを言う。春祭りは、高山市城山に鎮座する日枝神社の例祭で、安川通りを境にして南側が祭礼の区域、現在屋台は12基ある。また、秋祭りは、高山市桜町に鎮座する桜山八幡宮の例祭で、安川通りを境にして北側が祭礼の区域、屋台は11基ある。
屋台の古記録をみると、「享保元年(1716)、山王祭り(春)と八幡祭り(秋)に、代官所の前で行列を披露し」とあり、また、享保3年の記録には「高山八幡祭礼行列」というのがある。その後、江戸では享保6年に屋台が厳しい倹約令によって禁止され、なくなってしまったが、高山では残り続けた。
屋台を飾る織物は、江戸時代、京都から購入しているため、屋台の祖形は京都方面から伝わったと考えられていた。しかし、屋台の屋根高さが伸び縮みする構造、江戸文化を直接移入している状況、屋台を曳き出すときに「ヤタイ、ヤタイ」と言わずに、江戸ことばで「ヤティ、ヤティ」と言う状況などから、江戸形を祖形としていると考えられている。この、屋根が伸縮する機構は、江戸城の城門をくぐるときに使われた江戸形の屋台古形式を受け入れているもので、名古屋形や他地区のダシには類例が見られない。
江戸時代の屋台は華麗になり、その重量も増えていった。乱暴には扱えなくなり、戻し車という第5番目の車輪が考案されている。通常、一つの屋台には四つの車があるが、曲り角にさしかかると、90度向きの違うこの戻し車を下へ降ろして重い屋台を浮かせ、3輪になって回転する。これは全国に類例がない回転構造であろう。
全体構造は、上、中、下段の3段からなり、上段は中段の下底まで4本柱が下がり、シャチ巻という巻き上げ装置で、屋根と4本柱からなる上段を引っ張り上げる。構造体は全体的にしなやかで、曳行のときにユラユラとしなやかに小さく揺れて振動を吸収する。
各屋台組には、それぞれ屋台について非常に熱心な人が何人かいる。屋台組というのは、区域が決まっていて、その組内に入れば屋台組の権利が得られるが、いったん組の外へ出ると、どんな功労者でも屋台に乗ったり、曳いたりする権利を失うところになる。
熱心な人
各屋台組には、それぞれ屋台について非常に熱心な人が何人かいる。屋台が第一の人たちで、祭りの時に、ほかの組の屋台に少しでもケチをつけたり、差し出がましいことを言ったりすると、こうした屋台好き同士でけんかとなってしまう。屋台組というのは、区域が決まっていて、その組内に入れば屋台組の権利が得られるが、いったん組の外へ出ると、どんな功労者でも屋台に乗ったり、曳いたりする権利を失うころになる。屋台組では、自分の組の屋台が一番いいと自慢しあい、「オゾクタイ(立派でない、だめな意)屋台」と笑われることが何よりも腹立たしいことである。
高山祭の文献上の初見は元禄5年(1692)、40年前の山王祭について記している。
屋台絵巻
屋台は、享保3年(1718)に曳かれた記録があり、300年以上前から屋台が既にあったことが知られる。当初の形は赤坂山王、神田明神祭を模したもので文献に姿の記載がないため形態はわからない(第Ⅰ期)。
その後、文化年間の形態がわかる古い絵巻が存在する。それは春祭の絵巻で、文化八・九年頃の年代が与えられ、彫刻が取り付けられる前の高山祭屋台形態(第Ⅱ期)がよくわかる。
第Ⅱ期の後、屋台は第Ⅲ期形態への大改造期に入り、諏訪の立川和四郎による五台山の彫刻に刺激され、谷口一門の彫刻作品が取り付けられることになる。この時期、各戸に分解し、格納されていた屋台は、屋台藏が建造されて、重厚な懸装品を損傷することなく納められるようになった。第Ⅲ期の改造は、彫刻の取り付けが中心になって、屋台修理・改造の隆盛期となっている。工種をみると、工匠・彫刻・塗師・箔師・金具・御所車・人形・大幕・天幕・図画など、だいたい現在の屋台修理職人の職種分類と比べてだいたい同じである。
文化・文政・天保・弘化にかけての大改造期を終えた後は、第Ⅳ期、明治・大正期の大修理時期を迎える。多少の改造を加えて漆塗・箔・金具を中心とした修理を進めた。
修理面での分類は、第Ⅰ期・初期、第Ⅱ期・能の人形を中心とした時期、第Ⅲ期・彫刻採用、大改造期、第Ⅳ期・明治の修理、改造期に分けられる。このような修理の経緯を見ると、それぞれの工種分業、各職種の頂点技術を駆使し、またそれが絶妙にバランスよく総合されて、優れた工芸品として完成された。
「御巡幸」
近年、高山祭を見る人たちは豪華な屋台の方に目を向け、祭りの本来の目的や神事の式次第にはあまり注目していないようである。「御巡幸」は神様が一泊二日の旅に出る神事で、行列中程の神様が乗られる「神輿」が行列の中心であるにもかかわらず、神輿を拝する姿を見かけなくなった。伝統的な町家に御簾を掛け、貴い神様を直接見ないという風習も、その意味が外部の人たちには理解されていない。豪華な屋台各部や、荘厳な行列など、見所が極めて多く、しかも神事は複雑なので、あまり深く考えずに祭りを楽しもうという雰囲気が地元にも、観光客にもある。高山祭には長きにわたって積み重ねられた構成要素がたくさん含まれていて、全容を理解するのは並大抵のことではない。
高山祭の御巡幸はいつから始まったのであろうか。神輿を高山城内に担ぎ込んだのは四百年前の金森氏三代の時代、神輿と神楽が中心であった。その百年程後には屋台が出来て、神輿の行列に参加するようになった。この神輿行列と屋台という二つの要素は、発生した母体が違い、そこのところを良く知らないと高山祭が理解できない。神輿組十一組と屋台組十六組という二つのまとまりが御巡幸の中にあった。
高山には「家押し(やおし)」という制度がある。これは家の並び順に役を廻してゆくもので、役が廻ってきた時は嫌々担当をするが、一年もすると伝統の重みと責任を強く感ずるようになり、うるさ型の地域リーダーに育ってゆく。協力的に変化し、地域コミュニテイをしっかりと支える人が毎年増えてゆくことになる。春の高山祭には「宮本」制度があって、明治二十三年までは青竜台と神楽台が宮本を務めていたが、翌年から順送りになっている。御巡幸と屋台の曳行、祭礼関連必要設備の準備など、順送りに役を担当してゆき、全員が難しい高山祭の祭事取り仕切りを理解してゆくのである。これも、担い手育成、良き協力者の輩出のために先人が熟慮した結果てある。
江戸時代、代官、郡代所には「祭り奉行」が置かれ、宮本はいちいち奉行に伺い、祭事を執行してきた。今も、宮本は一年も前から市役所、警察署、電力会社、道路管理者などに協議を開始し、それは江戸時代とほとんど同じだといえよう。宮本を担当している年の組は、商売もそっちのけで祭礼の対応をしなければならない。
このように複雑で手間暇のかかる高山祭りの仕組みを、継承する住民は、大変なことと思いながらも地域の義務として受け入れている。今後も、高山祭りは伝統と自主的規定を守る住民の心に支えられ、商人町の町並み保存や城下町高山の活性化などに好影響をもたらしながら発達して行くことであろう。祭礼に関わる人々は、祖先の祭礼に対する想いと足跡を、心地よい束縛と感じている。温かい目で見守ってほしい。
ちなみに、秋祭りは総指揮をするのが「年行事」の制度になる。
『高山の文化財』、田中彰講演資料
春祭り屋台(4月14、15日)
高山祭屋台
〈国指定〉昭和35年6月9日
〈所有者〉各屋台組 管理団体高山市
〈所在地〉各屋台蔵
〈時代〉江戸時代(18世紀)
〈員数〉23基
日枝神社例祭(4月14・15日、春の高山祭)に12基、桜山八幡宮例祭(10月9・10日、秋の高山祭)に11基の屋台が曳き出される。祭礼行事は、国の無形民俗文化財に指定されている。
春祭の屋台(日枝神社)
神楽台(上一之町)屋台行列の先頭で囃子を奏 す
三番叟(上一之町)三番叟のからくり
麒麟台(上一之町)谷口与(よ)鹿(ろく)の彫刻など、絢爛豪華
石橋台(上二、神明町)美女が獅子に変化するからくり
五台山(上二之町)彫刻、刺繍幕、見送幕などが見事
鳳凰台(上二之町)3色の胴幕。堅牢で技巧的
恵比須台(上三之町)純金鍍金の金具、与鹿の彫刻
龍神台(上三之町)竹(ちく)生(ぶ)島(じま)龍神のからくり
崑崗台(片原町)台名は中国の金の産地にちなむ
琴高台(本町1)鯉づくしの意匠
大国台(上川原町)屋根柱に鴬(うぐいす)張りの工夫をする
青龍台(川原町)天守閣風の屋根、3層の台形
神楽 上一之町上組
沿革 古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木の枠に太鼓をつって2人で担いだものであった。文化年間(1804~1818)、4輪の屋台形にし、嘉永7年(1854)大改修により現台形となった。明治26年(1893)改修。その後数度の改修をする。
嘉永改修 工匠 谷口延儔(のぶとし)
彫刻 谷口与(よ)鹿(ろく)
明治改修 工匠 村山民次郎
塗師 田近宇(う)之(の)助(すけ)
金具 井上芳之助
構造 屋根無 太鼓昇降 4輪外御所車
特色 祭礼に際しては、侍(さむらい)烏(え)帽(ぼ)子(し)、素(す)襖(おう)姿の5人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行する。曲は「場ならし」「高い山」など多数あり、場所により使い分ける。嘉永の改修の時、金具に1坪(3.3㎠)あたり1匁(もんめ)(4g)の純金が使用された。
三番叟 上一之町中組
沿革 宝暦年間(1751~1764)の創建で、台名は「恩(おん)雀(じゃく)」、天明年間(1781~1789)に翁操(あやつ)りを取り入れ「翁(おきな)台」と改名、文化3年(1806)に雛鶴(ひなづる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、台名も三番叟となる。天保8年(1837)、現在の台形に改造され、大正7年と昭和41年に大修理を行なう。
天保改造 工匠 牧野屋忠三郎 彦三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 25条の細綱で操るからくりがある。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲「浦島(うらしま)」に和して仕舞を演ずるという構成である。屋台曳行順のくじは、必ず「1番」を引くことになっていて、神楽台に次いで他の屋台に先行する慣例となっている。
麒麟台 上一之町下組
沿革 創建年代未詳。天明4年(1784)の火災に焼失し、再建されたものが文化3年(1806)の記録に「鉄輪(かんなわ)」の名で見える。翌文化4年「よしの静(しずか)」と改名し、文化10年(1813)、以前から組内に金森家から拝領した麒麟の香炉を保管していたことにより、「麒麟台」と改名した。弘化2年(1845)大改修、大正10年改修。昭和46年修理。
弘化改修 工匠 中川吉兵衛
彫刻 下段唐子 谷口与(よ)鹿(ろく)
牡丹 中川吉兵衛
塗師 輪島屋藤兵衛
大正改修 工匠 彫刻 村山群鳳(ぐんぽう)
塗師 田近卯(う)之(の)助(すけ)
構造 切破風屋根 4輪外御所車
特色 台名の示す通り、屋根飾りとして1対の麒麟を載せ、中段、上段の上部の木(き)鼻(ばな)の彫刻も麒麟の意匠となっている。下段の唐子群遊彫刻は谷口与鹿の作で神技といわれ、屋台彫刻中の逸品である。豪華絢爛(けんらん)の屋台である。
石橋台 上二之町上組、下神明町西組
沿革 宝暦創建説と天明創建説がある。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来する。弘化~嘉永年間(1844~1854)に改修。文久3年(1863)大改修し、旧台を古川町に譲った。
文久改修 設計 村山勘四郎
工匠 畠中久造
彫刻 下段獅子 村山勘四郎
中段彫り龍 浅井一之(かずゆき)
牡丹 中川吉兵衛
見送り 朝鮮の段通(だんつう)
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 からくり人形は長唄石(しゃっ)橋(きょう)物(もの)のうち、「英(はなぶさ)執(しゅう)着(ちゃく)獅(じ)子(し)」を取り入れたものである。濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千(せん)秋(しゅう)万(ばん)歳(ぜい)と舞い納める構成である。明治25年(1892)に風紀上よくないと中止にされたが、昭和59年に復活された。重厚で調和のとれた屋台である。
五台山 上二之町中組
沿革 創建年代未詳。寛政年間(1789~1801)には「盧(ろ)生(せい)」の台名で操り人形があった。文化年間(1804~1818)に改修。中国名山の「五台山」と名を改めた。天保3年(1832)の火災に焼失の後、天保8年(1837)再建。明治20~23年改修。昭和48年修理。
天保再建 工匠 谷口延恭(のぶやす)
飛獅子彫刻 立(たて)川(かわ)和(わ)四(し)郎(ろう)
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 4輪内御所車
特色 朱塗り格子を透かして、回転する御所車が見える。車は京都御所御用車師中川万吉の作。獅子牡丹の刺(し)繍(しゅう)幕は円山応挙が下絵を描き、下段の飛獅子彫刻は幕末の左甚五郎といわれた諏訪の立川和四郎作。見送り幕の雲龍昇天図は明治の帝室技芸員幸(こう)野(の)楳(ばい)嶺(れい)の原作で、京都西陣で製作に半年を要した綴錦織の大作であり、各所に由緒を誇る屋台である。
鳳凰台 上二之町下組
沿革 創建年代未詳。寛政11年(1799)、大黒天のからくり人形を大国台に譲り、その後文化4年(1807)には「迦(か)陵(りょう)頻(びん)」の名で曳行している。またその当時、「鹿(か)島(しま)」と呼ばれていたこともあるが、文政5年(1822)に「鳳凰台」と改称した。天保元年(1830)から改修を行なったが、天保3年の火災で焼失、天保6~8年に再建された。明治8年(1875)、大正年間に小修理。昭和37~39年に大修理。
天保再建 工匠 原屋喜助
牧野屋忠三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 屋根中央部に赤木白毛の長い鉾(ほこ)を立て、根部に緋(ひ)羅(ら)紗(しゃ)の屋根覆いをまとっている。赤黒黄3色の大幕はオランダ古渡りの珍しい毛織りといわれる。全体に堅牢で、金具も目立たなくして木材の美しさを強調している。狭い道路の通行に備え、上段蛇(じゃ)腹(ばら)形支(し)輪(りん)が伸縮するようになっている。
恵比須台 上三之町上組
沿革 創建年代未詳。明和年間(1764~1772)、越前宰(さい)相(しょう)より大幕等が下付されたことは、高山富裕町人の大名貸を想起させ、当時すでに屋台があったことがわかる。初めは「花(はな)子(こ)」と呼び文化7年(1810)に殺(せっ)生(しょう)石(せき)の操り人形に替えて「殺生石」と改名。祭神に恵比須神を祀ることから「蛭子(えびす)」と呼ばれることもあったが、天保年間(1830~1844)頃から「恵比須台」となった。弘化3年(1846)から3年間かけて大改造。明治18年、昭和43年修理。
弘化改造 工匠 谷口延恭(のぶやす) 谷口与(よ)鹿(ろく)
彫刻 谷口与鹿
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 下段の龍、中段の獅子、手(て)長(なが)足(あし)長(なが)像の彫刻はいずれも名工谷口与鹿が情熱を傾けた会心の作。金具の鍍(と)金(きん)には14㎏の純金が使用される。見送りは幡(はた)見送りといわれる形式で、西欧の風俗を画材とした綴(つづれ)錦(にしき)織(おり)。鯉の伊(だ)達(て)柱(ばしら)は藤原家孝卿の牛車に使用されたものである。
龍神台 上三之町中組
沿革 創建年代未詳。安永4年(1775)に弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807)の屋台曳順に「龍神」の台名が見える。またこの頃、竹(ちく)生(ぶ)島(しま)弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれた。文化12年(1815)に改造し、弘化3年(1846)に修理。明治13年(1880)から3年がかりで再改造し唐破風屋根を現在の切破風に替えた。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻を取りつける。
文化改造 工匠 谷口紹芳
明治改修 工匠 彫刻 谷口宗之
塗師 小谷屋正三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じられる。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫(あか)ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現われ、荒々しく怒り舞うという構成である。見送りは試楽祭には望(もち)月(づき)玉(ぎょく)泉(せん)筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇(くにの)宮(みや)朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表装されたものを用いる。
崑崗台 片原町
沿革 創建年代未詳。安永3年(1774)の組内古記録があるが、文化4年(1807)には「花(はな)手(て)まり」の名で曳行をしている。その後、「林(りん)和(な)靖(せい)」と改称、中国にある金銀の産地「崑崗(こんこう)」にちなみ、「崑崗台」と改称した。嘉永2年(1849)に大改造。昭和9~11年、昭和41年修理。
嘉永改修 工匠 上野屋宗次
塗師 島田屋小三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 天保年間頃(1830~1844)までは、中国の故事により、林和靖と唐子のからくり人形があった。棟両端の金幣、屋根上の宝珠は「崑崗」が中国随一の金銀の産地であることに由来し、金塊を表わしている。見送りは中国産の刺繍、寿老と鹿の図である。
琴高台 本町1丁目
沿革 創建年代未詳。文化4年(1807)に「布袋(ほてい)」の名で曳行した記録がある。文化12年(1815)には飛騨の漢学者赤田臥(が)牛(ぎゅう)が「支(し)那(な)列(れっ)仙(せん)伝(でん)」から「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を引いて現台名に改めた。天保9年(1838)に、組内に居住していた谷口与鹿が中心となり大改造。明治26年(1893)、昭和32年、昭和41年修理。
天保改造 工匠 彫刻 谷口与鹿
金具 伊勢屋治左衛門
塗師 輪島屋儀兵衛
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 鯉魚と波浪を刺繍した大幕を用い、伊(だ)達(て)柱(ばしら)は黒塗地に鯉の滝昇りの大金具を打つ。欄間にも与鹿の鯉魚遊泳の彫刻があるなど、鯉づくしの意匠となっている。本見送りは徳川家16代家達書の琴高仙人の詩、替見送りは垣内雲嶙(かいとううんりん)の琴高仙人図である。
大国台 上川原町
沿革 寛政8年(1796)に創建され、日枝神社の宮寺松樹院にちなみ、「松(しょう)樹(じゅ)台」の名で曳行(えいこう)していた記録がある。寛政11年(1799)、上二之町の現在の鳳凰台組から大黒天像を譲り受けて「大国台」と改称した。弘化4年(1847)に大改修。明治16年(1883)、大正13年、昭和39年に修理。
弘化改修 工匠 石田春(しゅん)皐(こう)
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 構造上に工夫がこらされ、屋根棟と上段の縁(ふち)が違う動きをして、しなう美しさを出している。祭神となっている大国天の人形はもとは腹中から七福神が舞い出るからくり人形であったという。毎年、くじによって決められる屋台曳行順で、この屋台の順位が若ければその年は米価が高く、その反対であれば安いという伝承がある。中段欄間の石田春皐作飛龍、下絵の土(ど)村(むら)英(えい)斎(さい)作獅子の彫刻が引き立っている。
青龍台 川原町
沿革 創建年代未詳。明和3年(1766)に存在した記録がある。文化4年(1807)には、「道(どう)成(じょう)寺(じ)」の名で曳行(えいこう)しており、娘道成寺のからくりを演じたという。文化12年(1815)に改修。天保3年(1832)、火災により焼失し、嘉永4年(1851)に再建した。この頃、台名も「青龍台」と改めた。明治23年(1890)大改修。明治40年、昭和30年修理。
明治改修 工匠 船坂栄蔵ほか
構造 入(いり)母(も)屋(や)造(づくり)屋根 4輪内板車
特色 国主金森氏が、特に日枝神社を崇敬すること篤(あつ)く、この屋台組が神社膝元(ひざもと)の重要地区にあったことなどから、金森氏の代行として宮本(みやもと)と呼ばれて、家紋梅鉢を使用し祭事を主宰する特権を持っていた。これは明治24年(1891)に宮本が輪番制になるまで続いた。台形も3層で、天守閣型の屋根(入母屋造)となっており、他の屋台と趣を異にしている。
高山祭り 春12基、秋11基
高山祭りは、春の山王祭りと秋の八幡祭りを言う。春祭りは、高山市城山に鎮座する日枝神社の例祭で、安川通りを境にして南側が祭礼の区域、現在屋台は12基ある。また、秋祭りは、高山市桜町に鎮座する桜山八幡宮の例祭で、安川通りを境にして北側が祭礼の区域、屋台は11基ある。
屋台の古記録をみると、「享保元年(1716)、山王祭り(春)と八幡祭り(秋)に、代官所の前で行列を披露し」とあり、また、享保3年の記録には「高山八幡祭礼行列」というのがある。その後、江戸では享保6年に屋台が厳しい倹約令によって禁止され、なくなってしまったが、高山では残り続けた。
屋台を飾る織物は、江戸時代、京都から購入しているため、屋台の祖形は京都方面から伝わったと考えられていた。しかし、屋台の屋根高さが伸び縮みする構造、江戸文化を直接移入している状況、屋台を曳き出すときに「ヤタイ、ヤタイ」と言わずに、江戸ことばで「ヤティ、ヤティ」と言う状況などから、江戸形を祖形としていると考えられている。この、屋根が伸縮する機構は、江戸城の城門をくぐるときに使われた江戸形の屋台古形式を受け入れているもので、名古屋形や他地区のダシには類例が見られない。
江戸時代の屋台は華麗になり、その重量も増えていった。乱暴には扱えなくなり、戻し車という第5番目の車輪が考案されている。通常、一つの屋台には四つの車があるが、曲り角にさしかかると、90度向きの違うこの戻し車を下へ降ろして重い屋台を浮かせ、3輪になって回転する。これは全国に類例がない回転構造であろう。
全体構造は、上、中、下段の3段からなり、上段は中段の下底まで4本柱が下がり、シャチ巻という巻き上げ装置で、屋根と4本柱からなる上段を引っ張り上げる。構造体は全体的にしなやかで、曳行のときにユラユラとしなやかに小さく揺れて振動を吸収する。
各屋台組には、それぞれ屋台について非常に熱心な人が何人かいる。屋台組というのは、区域が決まっていて、その組内に入れば屋台組の権利が得られるが、いったん組の外へ出ると、どんな功労者でも屋台に乗ったり、曳いたりする権利を失うところになる。
熱心な人
各屋台組には、それぞれ屋台について非常に熱心な人が何人かいる。屋台が第一の人たちで、祭りの時に、ほかの組の屋台に少しでもケチをつけたり、差し出がましいことを言ったりすると、こうした屋台好き同士でけんかとなってしまう。屋台組というのは、区域が決まっていて、その組内に入れば屋台組の権利が得られるが、いったん組の外へ出ると、どんな功労者でも屋台に乗ったり、曳いたりする権利を失うころになる。屋台組では、自分の組の屋台が一番いいと自慢しあい、「オゾクタイ(立派でない、だめな意)屋台」と笑われることが何よりも腹立たしいことである。
高山祭の文献上の初見は元禄5年(1692)、40年前の山王祭について記している。
屋台絵巻
屋台は、享保3年(1718)に曳かれた記録があり、300年以上前から屋台が既にあったことが知られる。当初の形は赤坂山王、神田明神祭を模したもので文献に姿の記載がないため形態はわからない(第Ⅰ期)。
その後、文化年間の形態がわかる古い絵巻が存在する。それは春祭の絵巻で、文化八・九年頃の年代が与えられ、彫刻が取り付けられる前の高山祭屋台形態(第Ⅱ期)がよくわかる。
第Ⅱ期の後、屋台は第Ⅲ期形態への大改造期に入り、諏訪の立川和四郎による五台山の彫刻に刺激され、谷口一門の彫刻作品が取り付けられることになる。この時期、各戸に分解し、格納されていた屋台は、屋台藏が建造されて、重厚な懸装品を損傷することなく納められるようになった。第Ⅲ期の改造は、彫刻の取り付けが中心になって、屋台修理・改造の隆盛期となっている。工種をみると、工匠・彫刻・塗師・箔師・金具・御所車・人形・大幕・天幕・図画など、だいたい現在の屋台修理職人の職種分類と比べてだいたい同じである。
文化・文政・天保・弘化にかけての大改造期を終えた後は、第Ⅳ期、明治・大正期の大修理時期を迎える。多少の改造を加えて漆塗・箔・金具を中心とした修理を進めた。
修理面での分類は、第Ⅰ期・初期、第Ⅱ期・能の人形を中心とした時期、第Ⅲ期・彫刻採用、大改造期、第Ⅳ期・明治の修理、改造期に分けられる。このような修理の経緯を見ると、それぞれの工種分業、各職種の頂点技術を駆使し、またそれが絶妙にバランスよく総合されて、優れた工芸品として完成された。
「御巡幸」
近年、高山祭を見る人たちは豪華な屋台の方に目を向け、祭りの本来の目的や神事の式次第にはあまり注目していないようである。「御巡幸」は神様が一泊二日の旅に出る神事で、行列中程の神様が乗られる「神輿」が行列の中心であるにもかかわらず、神輿を拝する姿を見かけなくなった。伝統的な町家に御簾を掛け、貴い神様を直接見ないという風習も、その意味が外部の人たちには理解されていない。豪華な屋台各部や、荘厳な行列など、見所が極めて多く、しかも神事は複雑なので、あまり深く考えずに祭りを楽しもうという雰囲気が地元にも、観光客にもある。高山祭には長きにわたって積み重ねられた構成要素がたくさん含まれていて、全容を理解するのは並大抵のことではない。
高山祭の御巡幸はいつから始まったのであろうか。神輿を高山城内に担ぎ込んだのは四百年前の金森氏三代の時代、神輿と神楽が中心であった。その百年程後には屋台が出来て、神輿の行列に参加するようになった。この神輿行列と屋台という二つの要素は、発生した母体が違い、そこのところを良く知らないと高山祭が理解できない。神輿組十一組と屋台組十六組という二つのまとまりが御巡幸の中にあった。
高山には「家押し(やおし)」という制度がある。これは家の並び順に役を廻してゆくもので、役が廻ってきた時は嫌々担当をするが、一年もすると伝統の重みと責任を強く感ずるようになり、うるさ型の地域リーダーに育ってゆく。協力的に変化し、地域コミュニテイをしっかりと支える人が毎年増えてゆくことになる。春の高山祭には「宮本」制度があって、明治二十三年までは青竜台と神楽台が宮本を務めていたが、翌年から順送りになっている。御巡幸と屋台の曳行、祭礼関連必要設備の準備など、順送りに役を担当してゆき、全員が難しい高山祭の祭事取り仕切りを理解してゆくのである。これも、担い手育成、良き協力者の輩出のために先人が熟慮した結果てある。
江戸時代、代官、郡代所には「祭り奉行」が置かれ、宮本はいちいち奉行に伺い、祭事を執行してきた。今も、宮本は一年も前から市役所、警察署、電力会社、道路管理者などに協議を開始し、それは江戸時代とほとんど同じだといえよう。宮本を担当している年の組は、商売もそっちのけで祭礼の対応をしなければならない。
このように複雑で手間暇のかかる高山祭りの仕組みを、継承する住民は、大変なことと思いながらも地域の義務として受け入れている。今後も、高山祭りは伝統と自主的規定を守る住民の心に支えられ、商人町の町並み保存や城下町高山の活性化などに好影響をもたらしながら発達して行くことであろう。祭礼に関わる人々は、祖先の祭礼に対する想いと足跡を、心地よい束縛と感じている。温かい目で見守ってほしい。
ちなみに、秋祭りは総指揮をするのが「年行事」の制度になる。
参考文献
『高山の文化財』、田中彰講演資料
#左甚五郎
飛騨匠伝説(郡上・立花六角堂)
旧郡上街道地蔵坂峠に建つ立花六角堂は、由緒書きによると応長元年(1311)飛騨の大工匠頭肥前権守藤原朝臣宗康が御堂を建て直したとある。堂の再建をめぐる物語を紹介しよう。「旅の大工が地蔵坂峠で休んでいると、突然霧が立ち込め、それまで何もなかった広場にお堂と、寂しそうに佇む坊様が見えた。麓の寺の住職に聞けば昔、泰(たい)澄(ちょう)という坊様が堂を建て旅人の安全を願ったが坊様が亡くなると朽ち果てたという。
それを聞くと大工は明日の昼までに堂を立てると峠へ戻って行った。翌日住職が峠に行くと既にお堂は出来上がっている。そこへ別の旅人がやってきて、素晴らしいお堂に感嘆しきり。事の仔細を聞くとさらに驚き住職と二人、堂に入ってながめるうちに扉がしまり閉じ込められてしまう。旅人は彫り物師で手早く木っ端でカラスを彫り上げ隙間から外へ放つと堂の屋根で鳴きはじめた。その声に空が暗くなるほどカラスが集まり何事かとやってきた村の衆に二人は救い出された。住職は先の大工は飛騨の匠、彫り師は左甚五郎ではないかと思ったという。」
建て直した大工は飛騨の匠藤原宗康、泰澄は養老元年(717)白山山上に三所権現を祀り、六角堂から長良川を遡(さかのぼ)る郡上市白鳥に白山中宮長滝寺を建て白山信仰の基を開いた人だ。長滝寺は文永八年(1271)火災で焼失するが、大講堂再建に藤原宗康は棟梁として関わり、六角堂とおなじ応長元年に成し遂げている。旧郡上街道は明治まで旅人が行きかう要路であり、白山へ参る人もまた此処を通ったと思うと、朽ちた六角堂の建て直しを願った泰澄が時をこえて宗康の前に現れた気持ちがよくわかる物語である。
(参考:定本 日本の民話18 美濃の民話第1集・第2集佐が坂の六角堂 編集 赤座憲久 1999年5月31日㈱未來社発行・白山中宮長滝寺の歴史 白山中宮長滝寺発行・六角地蔵堂由緒))
■写真説明
立花六角堂への登り口
登り口の上には東海北陸自動車道、長良川鉄道の橋梁がみえる
道は狭い山道となる
同上、六角堂へは左側の暗い山道を行く
道端の道標
六角堂への階段
階段上から、右が六角堂、奥は広場になっている
広場側から見た六角堂
同上
石垣上に地蔵が並ぶ
六角堂近景
軒下部分
正面
地蔵後方から六角堂を見下ろす
同上
広場から里を見下ろす
六角堂脇にある由緒書き
#左甚五郎
資料集
131_141_飛騨匠伝説(郡上・立花六角堂)