【研究】デジタルアーカイブにおける地域文化遺産の伝承に関する研究 ~高遠石工のデジタルアーカイブ~
【研究】デジタルアーカイブにおける地域文化遺産の伝承に関する研究 ~高遠石工のデジタルアーカイブ~
高遠石工とは
江戸時代、信州高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のこと。主に手彫りによる石の加工技術が特徴的。
全国各地に、石仏、石鳥居、石橋、供養塔など数多くの石造物を造った。
江戸時代、民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化した。
石造物の需要が増したことで高遠の石工は各地に出向いて働くようになり、優れた技術が各地で評価された。
高遠石工の名が全国を轟かせたことで、高遠石工がブランド化した。ブランド化したことによって、石工の活動もさらに盛んとなり、全国各地で数多くの作品を残すこととなった。
現状と課題
1.石工技術を持った職人の高齢化、人材不足
→専門家や職人の高齢化、後継者不足により、技術の伝承が途絶えてしまい、石工技術継承の危機に陥る。
2.高遠石工の文化遺産に対する、若者の興味関心が低い
→伝統的な技術やノウハウの継承が困難になる。
3.石造物は観光資源、人文資源として価値がある。
→石造物を観光資源として活用することにより、魅力ある地域づくりが可能になり、高遠町はもちろんのこと、全国各地の地域社会の活性化に繋がる。
高遠石工の足跡
全国18都府県
長野県、山梨県、静岡県、神奈川県、東京都、新潟県、福島県、山形県、青森県、群馬県、
栃木県、埼玉県、茨城県、愛知県、岐阜県、三重県、兵庫県、山口県
高遠藩による他国への出稼ぎが奨励され、全国各地に
高遠石工が出向き活躍。
長野県内だけでなく、各地
に高遠石工が携わった石造物が存在する。
⇒そのため、観光資源として価値があり、今後
さらに注目されるべき文化財である。
⇒しかし、高遠町は桜の名所として認知されているため、高遠石工の存在が桜に埋もれてしまっていることが問題点だと考えられる。
高遠の文化遺産に対する人々の関心、認知を高めるために、高遠石工の歴史や文化的な背景を説明し、その価値を明確にすることが大切であると考える。
そして、高遠町の特色や文化遺産との関連性を強調し、遺産が地域の歴史や文化と深く結びついていることを伝えることにより、地域住民のアイデンティティや誇りを引き出し、さらに価値を高められる。
高遠石工の存在を知ってもらうことにより、観光資源として活用でき、さらに観光客が増加することで地域振興に繋げられる。
目 的
高遠石工の石材加工技術者の高齢化、後継者不足により技術継承が途絶えることが危惧される。そこで、伊那市の地域文化遺産である高遠石工の技術の継承と、地域資源への興味喚起のために、高遠石工のデジタルアーカイブ化を行う。
研究内容
〇守屋貞治・渋谷藤兵衛の石仏デジタルアーカイブ
伊那市内にある主な守屋貞治の作品
〇歴 史
高遠石工は、1187年(文治3年)に源頼朝から代々石細工職人として日本国内で仕事が出来るとの許可をもらったものとの由緒書が伝わっているが、発祥は中世頃と推定されている[2]。由緒に基づき、全国を行脚しており、現在の青森県から山口県まで旅稼ぎをしていた。
天正末期、徳川家康の命で江戸城工事に従事し、八王子付近に定住していたことが「新編武蔵風土記稿」に記載されている[4]。鳥居氏の所領だった(1636年〜1689年)の間の高遠地方旧記の引き継ぎ目録に記録が残っている[5]。元禄4年(1691年)に内藤清枚が藩主となると、藩の財政難解消策の一環として出稼ぎが奨励されるようになった。明和4年(1767年)には「他国稼ぎ御改め帳」が発行されるなど、石工が全国を回っていた[6]が、それは「旅稼ぎ」といわれ、藩には運上金を1人年1貫文(千文)を収め決まりとなっておりお高遠藩にとっては重要な収入源だった。
文化8年(1811年)の記録では領内の主要な産業として保護、統制を受けており、職人団体の中で運上金上納額最高が石切職人だった。
その存在が日本全国に知られるようになったのは江戸時代、17世紀半ば頃のことであったとされる[1]。彼らは日本の各地に散らばり、石仏を始めとする彫刻作品を残した[1]。活動に取り組む姿勢は芸術家さながらであったとも、あくまでも職人であったとも言われる[8][9]。高遠石工は18世紀が最盛期だったが、明治になり廃れた。
現在、高遠石工による作品は地元の伊那谷周辺に多く残され、安曇野に多い石像道祖神も、その多くは高遠石工の手によるものである。その他にも首都圏や東海・近畿、山口にまで散見されている。
伊那市高遠町の建福寺には西国三十三所観世音をはじめとして多くの作品を見ることができる。
主な石工
〇守屋 貞治(もりや さだじ、1765年 – 1832年)- 明和2年(1765年)に信州伊那郡高遠藤澤郷塩供(しおく、現在の長野県伊那市高遠町長藤〈おさふじ〉塩供)で孫兵衛の3男として生まれる。高遠石工の中でも稀代の名工と言われ、68年の生涯に336体の石仏を残している。亡くなる前年の天保2年(1831年)に「石仏菩薩細工」を書き残しており、いつどこで何の石仏を刻んだのかが、その正確な記録から判明している。この記録によって、彼の作品は1都9県(長野、群馬、東京、神奈川、山梨、岐阜、愛知、三重、兵庫、山口)に残っていることが確認されているが、数多くの石工を輩出した高遠石工にあって西日本にまで作品を残しているのは貞治だけである。貞治は信州諏訪の温泉寺の名僧、願王和尚を師と仰ぎ深く仏門に帰依し、香を焚き経を唱えて石仏を刻んだと伝えられ、ゆえに貞治は単に石工ではなく「石仏師」と呼ばれ、貞治の刻んだ石仏は特に「貞治仏」と呼ばれている。
〇守屋 孫兵衛(まごべえ、生年不明 – 1782年) – 貞治の父
〇守屋 貞七(さだしち、1700年頃 – 没年不明) – 貞治の祖父。
〇向山 重左衛門 (むかいやま じゅうざえもん、1690年頃 – 1773年) – 寛延から明和年間の作品が残る高遠藤澤郷御堂垣外(みどがいと)の石工。
〇久左衛門(きゅうざえもん、生没年不詳) – 向山重左衛門の弟弟子 。
〇下平 文左右門(しもだいら ぶんざえもん、生没年不詳) – 明和から安永 (元号)年間を中心に活動した安永東春近の石工。なお、息子の太左右門(たざえもん)も石工である[13] 。
〇渋谷 藤兵衛(しぶや とうべえ、1784年 – 1853年) – 守屋貞治の高弟。信州伊那郡川下り郷川手(現在の長野県伊那市美篶下川手)に生まれる。伊那市高遠町建福寺の石段には師貞治の延命地蔵が石段左に、藤兵衛の柳楊観音(嘉永2年、1849年)が石段右に対になって立っている。上伊那郡箕輪町長岡の長松寺に残る貞治の延命地蔵尊は、まず藤兵衛が先に長岡に来て村の世話人と打ち合わせと石の詮議をし、村人足とともに石を切り出して下準備をした後に貞治の作業が始まっている。これは同寺の「地蔵建立諸入用控帳」に残されており、それには「石屋定治郎 手代藤兵衛」と記されている。
〇小笠原 政平(おがさわら まさへい、1796年 – 1861年) – 信州伊那郡殿島(現在の伊那市東春近下殿島)に生まれる。東春近を中心に作品が残るが「俺の石仏は銘がなくとも頬骨のふくらみを見ればそれとわかる」と言っていたとの言い伝えがある。
高遠石工が生まれた背景
古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。
高遠石工の活動
現在、高遠石工の銘が確認されている石造物は、北は青森、南は山口の1都18県に及びます。
和泉石工(泉州石工)など、高遠石工と同時期に活躍した石工集団は他にもいましたが、高遠石工ほど多くの銘を残していません。「高遠」という銘がはっきりと確認できるのが元禄期以降であるため、高遠石工の活動年代は内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691)以降とみる向きもありますが、山梨県甲府市塩澤寺にある正保5年(1648)銘「大工信州之角兵衛」の無縫塔をはじめ、元禄期以前の高遠石工の作と推定される石造物も確認されているため、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられます。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事に関わったり、有名な安曇野の道祖神の中にも、高遠石工たちが刻んだものが数多くあります。
高遠石工が確かな技術で刻んだ石造物は、人々の心を捉え、江戸時代中期にはその名が全国にとどろくようになりました。「高遠石工」の名が一種のブランドと化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。
集落を見守る石仏たち
諏訪と高遠を結ぶ杖突街道沿いには、農村風景に溶け込むように多くの石仏があるのが目に入ります。そのほとんどが集落の入口(村境)にまとまっており、馬頭観音、庚申塔、道祖神など様々な石仏が見られます。
これらは、災厄が村に入ってこないように、また子孫繁栄や旅の安全などを願って、江戸時代から昭和まで長年にわたって受け継がれてきた民間信仰の証です。
石工のふるさとの美しい景観を保ちながら、石仏たちは今も集落を見守っています。
高遠石工の特徴
高遠石工は、長野県の高遠地域で発展した石工技術のことを指します。この地域は古くから石材が豊富であり、その質の高さから日本各地に石材を供給してきました。高遠石工は、主に神社仏閣や城郭などの建築物において石材を加工し、美しい彫刻や堅牢な構造を実現するための技術として重要な役割を果たしてきました。
高遠石工の特徴的な技法としては、以下のようなものがあります:
面取り(めんどり): 石材の角を斜めに削り取り、エッジを丸くすることで安全性を高めるとともに、美しい仕上がりを実現します。
目地加工(めじかこう): 石材同士の接合部分に目地を設けることで、石材の結合を強化します。目地には石の割れや変形を防ぐ役割もあります。
彫刻技法: 高遠石工では、美しい彫刻技法が発展しています。彫刻によって龍や花卉、幾何学的な模様などを表現し、建築物に装飾的な要素を与えます。
石積み技法: 石材を組み合わせて壁や柱を構築する石積み技法も高遠石工の特徴です。石同士のバランスや組み合わせによって、安定性や美しさを追求します。
高遠石工は、伝統的な技術でありながら現代にも受け継がれ、多くの建築物や文化財に活かされています。その美しい石組みや彫刻は、日本の建築文化の一環として高く評価されています。
研究内容
・石工の誕生、石仏の造立の背景
・高遠石工が手掛けた石造物の良さとは(他の石工との比較)
・産業としての石工の仕事の位置づけ
〇特徴・魅力
・高遠石工ならではの石仏表現法や技法
〇技術が今にどう生かされているのか
石仏師・守屋貞治
数多くいた高遠石工の中でも、高い技術を持った稀代の名工と呼ばれる石仏師。
石仏の制作を専門としており、生涯において336体に及ぶ作品を残している。
守屋家は祖父・貞七の代から石工を生業としている。そのため、貞治も自然と石工を志すようになった。
造形や技法は、祖父と父から影響されていると考えられる。
江戸時代、石工の仕事は細分化され、専門性が高い者も増えていましたが、高遠石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。彼は石仏の制作を専門とし、68年の生涯において336体におよぶ名作を残しました。
貞治は明和2年(1765)、高遠藩藤沢郷塩供村(現、伊那市高遠町長藤)で守屋孫兵衛の三男として生まれました。守屋家は貞治の祖父・貞七の代から石工を生業としており、貞治も自然と石工を志すようになりました。修業時代の師は不明ですが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見られます。
温泉寺(現、諏訪市)の住職で名僧と名高い願王和尚を仏道の師と仰いだ貞治は、自らも仏に帰依し、経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づいて仏心の込められた石仏を刻みました。石仏を刻む際は経文を唱え、香をたきしめて作業に打ち込んだといわれています。貞治が単なる「石工」ではなく「石仏師」と呼ばれるのは、こうした所以からです。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831)に、自身の生涯を振り返り、これまでに彫り上げた石仏を『石仏菩薩細工』にまとめていますが、これによると貞治が手がけた作品は1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及びます。西日本に作品を残した高遠石工は貞治以外には確認されておらず、また、他の高遠石工を見ても複数の場所で活動した例は少ないため、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。これは願王和尚の影響によるところが大きく、貞治のよき理解者であり、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためと考えられます。
身を律し、ひたすら意にかなう石仏を造立し続けた貞治でしたが、天保3年11月19日、静かに68年の生涯を終えました。他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美でまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作ばかりです。
守屋貞治仏の技法と表現法
1.口元円形微笑型
・口元円形→人が笑うとほうれい線が丸くなる様子を表す。
特徴→石仏の口を中央にして、鼻の付け根と下あごを外周とする円形に彫りくぼめた形態を形成した上で、その中に口と円形凸型の下あごを表現する。
2.蓮華座花弁巻き返し表現
石仏を豪華に魅せたり、重量感を持たせたる技法。
特徴→蓮華座の花弁が裏側に巻き返し状になっている。
資料